第16節 -夕食のひと時に-

 午後7時過ぎ。太陽が地平線の彼方へ姿を隠そうという頃、ジェイソンとアルビジアは共に夕食をとっていた。

 昨日に引き続きアルビジアが作った特製スープとパンが並び、チキンステーキがメインディッシュというメニューだ。

 言葉を多く交わすわけではなく、いつものようにただ淡々とした時間が流れていく。しかし、ジェイソンにとっては彼女と共に過ごすこの静かな時間がとても愛おしく幸せなものであった。

 目の前で食事をとるアルビジアの姿は、もはや自分の孫娘のように感じられると言っても過言ではない。世間にはそういう風に嘘を吐いているが、内心の気持としては偽りなどない事実だ。

 時計の針が進む音だけが聞こえる静かな食卓の中、ジェイソンはふと考える。

 今日この家に招いた2人のことを彼女に話すべきだろうか。話せば彼女も何か話してくれるかもしれないという淡い期待を抱くが、昨日も尋ねたことを再び聞くのも申し訳ない気持ちになる。

 彼女の作ったスープを飲みながらそのことを思案していると、珍しく彼女の方からジェイソンに話し掛けて来た。

「お爺様。今日のお昼に昨日マーケットの駐車場でお会いした方とお話しました。とても美しい方。彼女から話し掛けて来てくれて、少しだけ。」

 それを聞いたジェイソンは彼女の言う人物が誰なのかすぐに分かった。イベリスだ。

「ほぅ。どんな会話をしたんだい?」

「いつもあの場所に行くのか、と。それだけでした。でも、彼女は言ったんです。この場所は、永遠の眠りに就いたかのように静かだと。それを聞いた時、初めて誰かと同じ気持ちを共有できたような気がして嬉しくて。」

 ジェイソンは驚いた。とても口数の少ないアルビジアがここまで饒舌に喋るなどと言うことは滅多にあるものではない。

「良かったじゃないか。」ジェイソンは心からの笑顔を浮かべ彼女へ言う。

「はい。」

 ジェイソンはこんな機会はもうないかもしれないと思って先程から言おうとしつつも留めてきたことを言う。

「実はな、アルビジア。私も今日の午後に彼らと話をしたんだ。お前の言うその少女と、もう1人の男性隊員と。」

「お爺様も?」意外そうな表情を浮かべて彼女は言う。

「偶然海で見かけてね。姫埜玲那斗君と、イベリス・ガルシア・イグレシアスさんと言ったな。何でも保護区以外の海洋調査も一緒にしているそうだ。」

 2人の名前をはっきりと聞かされたアルビジアの瞳には、ほんの僅かだが動揺が浮かんだように見えた。

「彼らは何かおっしゃっていましたか?」

「お前の言う通り、保護区の調査をしに来ていると言った。ここ最近変わったことは無いかと尋ねられたよ。彼らはとても誠実で真摯に物事に取り組む人たちのようだ。」

 そこまで言うとジェイソンは食事の手を止めてアルビジアを見据えて言った。

「アルビジアや。よくお聞き。もし、近日中にでも私がこの家を長く空けるようなことがあって、困ったことが起きたりした時は迷わずに彼らを頼りなさい。きっと、全力でお前の力になってくれるはずだ。」


 アルビジアはジェイソンがなぜ今そのようなことを言うのかと訝しんだ。

 それと同時に、自分の行いを全て知った上で何か起きることを悟っているのではないかという思いも湧いて来た。

 自分は確かに知っている。彼と彼女の名前を。レナト、イベリス…遠い遠い昔の懐かしい記憶。自分が第二王妃だなどと言われていた頃の記憶だ。

 まだ自分が “人間として生きていた頃” は、他人の幸せに土足で割り込むような真似をしたくなかったが為に、そのことについて何かを発言したことは一切ない。むしろ積極的に彼らを避けていた。

 しかし、この地にあっても彼らとの関わりを持つことになろうとは。

 自身がしていることを考えれば関わりなど持つべきではない。きっと迷惑をかけてしまうだけだ。出来れば知らない振りをしてやり過ごしたいと思っていた。

 しかし、どうやらジェイソンにはそういったことも見透かされているのかもしれない。

 十年。人の暦で考えるなら大した年月だ。それだけの間一緒に過ごせば、何も言わない自分のことでも考えていることがわかるようになるのだろうか。


 ただ、ふと思う。

 つい先程、嬉しそうに彼女のことを…イベリスのことを話してしまった時点で自分は…

 彼らと関わりを持ちたいと心の奥底で望んでしまっているのではないかと。


 アルビジアが物思いに耽っているとジェイソンが念を押して言う。

「いいかい?」

 きっと彼は心から心配して言ってくれているに違いない。その優しさはよく伝わっている。アルビジアはそう考え、彼の目をしっかりと見て返事をした。

「分かりました。」



 直後、食事の手を進めながらアルビジアは思考する。

 今夜。自分がやろうとしていることは正しいのだろうか。間違っているのだろうか。

 この信念が誰かを傷付けるなどという結末を導かないとも限らない。


 だがしかし…それでも。

 “偽りの神” による生命の断絶を見過ごすわけにはいかないのだ。


                 * * *


「ロティー、何か考えごとかい?」

 自身の隣に立つ彼女へラーニーは話し掛ける。

 いつもと特に様子が違うということはない。おそらくは、近しい人でなければ絶対に気付かないだろう些細な雰囲気の違いがあったに過ぎない。

 これは一種の勘だ。ラーニーは自分の直感を信じてシャーロットへ問い掛けた。

「いいえ、わたくしの私情を貴方様に気にかけて頂くなど。」

「あってはならない、か?」

 肉を切るナイフの手を止めてラーニーは言った。そして前を見据えて同じ部屋に立つもう一人の人物へラーニーは声を掛けた。

「サム、今日は赤ワインの気分ではない。すまないが白に変えてくれないか?」

「かしこまりました。丁度飲み頃のシャルドネがございますれば…すぐにご用意いたします。」

 そう言うとサミュエルは赤ワインを下げ、白ワインを取りに行くために部屋を後にした。

 扉が完全に閉まるのを確認してラーニーは言う。

「これでこの部屋には僕と君の2人だけだ。職務に忠実である必要もないし遠慮もいらないよ。何か気にしていることがあるね?ロティー。」

 すると観念したようにシャーロットは言った。

「明日、あの人をここに呼ぶのね?」

「イベリスさんのことかい?彼女には聞きたいことがある。今日の午後にとある人物と彼女は会話をしていた。そのことについて少しだけ、ね。」

「例の管理区域が荒らされる件について、保護区に立っていただけの少女が関連していると思っているの?」

「普通の思考なら “ない” と答えるだろう。でも、可能性の話だけをするなら、排斥してはならない要素のひとつでもある。あの少女は今や要注意人物だ。その人と、その場で接触をした彼女に話を聞くのは自然の成り行きだね。」

「そうかしら。ラーニー、貴方やっぱりあの娘に特別こだわっているのではなくて?」

「言ったはずだよ。彼女からは財団にとって有意義となる特別な才を感じると。それも一緒に確かめられたら良いと思っている。もう1人、 “あの女” がやたらと彼女に言及する理由もそろそろ知りたいしね。」

 それだけだとは思えない。シャーロットはそう言いかけて言葉にするのをやめた。これ以上言えば自分のただのわがままになってしまう。分かっている。つまるところはただの嫉妬なのだ。

 これではアンジェリカの言うことを否定出来ない。


 止めていた食事の手を再開しながらラーニーが言う。

「明日、彼女をここへ招く時間にサムは別件で支部にはいない。よって、ロティー。君に彼女の案内を頼みたい。」

 彼の言葉に我に返ったシャーロットは思わず眉をひそめて聞き返す。

「私が?」

「そう嫌そうにしないでおくれ。彼女は大事な客人だ。応接室に案内してくれるだけでいい。」

 今の返事にそういうつもりはなかったが、とっさのことで顔に出てしまった。しかし、食事の手を進める彼からは見えないはずだから、声に表れてしまっていたのかもしれない。

 するとちょうどワインを取り換えに行っていたサミュエルがダイニングへと戻ってきた。

「お待たせしました。良いワインなので奥に仕舞っておりまして、少々時間がかかってしまいました。」

「ありがとう。」

 ラーニーにはサミュエルが気を利かせてわざと時間を潰して戻ってきてくれたことが分かった。シャーロットと2人だけの時間を少しでも長く作るために。

 サミュエルは持って来たばかりのシャルドネをラーニーのグラスへと注いだ。

 ワイングラスを手に持ちゆっくりと揺らしながらラーニーは言う。

「良いね?ロティー。先の件、頼んだよ。」


 貴方はとても意地悪だわ。シャーロットは内心でそう思いつつも、職務を全うする為に冷静に返事をした。

「承知いたしました。」


                 * * *


 イベリスと玲那斗が夕食の用意を始めてからしばらく経ち、ペンションの中には重厚でコク深い香りが広がっていた。

 間もなく夕食のメインディッシュを飾る一品が完成を迎えようとしている。

「うん、良い味。玲那斗も味見をお願い。」イベリスに促された玲那斗がクリームソースの試食をする。

 玲那斗は深く頷き、満面の笑顔で親指を立ててグッドの合図を送った。

「これで完成ね。いつもは2人分しか作らないから分量で戸惑ったけれど、いい出来になって良かったわ。」

 ミルクとチーズ、そして新鮮な魚介を組み合わせて彼女が作ったのはシーフードクリームパスタだ。

「じゃぁ早速盛り付けて運ぼうか。」


 パスタを皿によそい、クリームソースを贅沢にかけたパスタをテーブルの上へ運ぶ。付け合わせには野菜サラダとバジルパンが並ぶ。

 オーブンで温めたバジルパンからは清涼感と深みのある爽やかな香りが漂う。

 運ばれてきた料理を一目見たルーカスは言う。

「豪華だな!凄く旨そうだ。」

 その様子から想像した以上のものが出てきたという風に感じているらしい。甘いものを見れば目を輝かせるルーカスではあるが、普通の食事を前にしてこれほどまで童心に帰ったような表情を浮かべることは滅多にない。

「自信作よ。気に入ってもらえたら嬉しいのだけれど。」イベリスが言う。

 玲那斗が自分達の分も並べ終え、全員分の食事がテーブルに並んだ。

「俺には分かる。これは食べる前から美味いと確信できる。早速頂こう!」

 科学的根拠など無くても彼を納得させるような魅惑の料理。どうやらイベリスの自信作は既に彼の心をがっちりと掴んだようだ。

「落ち着け、ルーカス。焦らなくても皿は逃げないぞ。まずはしっかりと挨拶をしてからだ。」ジョシュアが言う。

 だが、そう言うジョシュアですらも早く食べたそうにそわそわしている様子が窺えた。

「よし、揃ったな。では…早速。」

「いただきます。」

 全員で恒例の挨拶をして夕食の時間が始まる。

 パスタを一口食べたルーカスが幸せそうな表情をして言う。

「良い。昼にも言った気がするが、本当に美味いものを食べた時は…その、何だ。言葉が出なくなるものだな。」

「濃厚な見た目よりもさっぱりとしていて美味い。チーズと海老の組み合わせが特に良い。」ジョシュアも満足そうに言った。

「気に入ってもらえて何よりだわ。余ったソースはパンと一緒に頂いてね。」

 イベリスの笑顔が食卓に最上の花を添える。

 その横でただ黙々と食べる玲那斗にイベリスは言う。

「作った料理を誰かに喜んで食べてもらえるのは幸せなことね。」


 心から嬉しそうな表情を浮かべる彼女に、玲那斗も嬉しくなって言う。「そうだな。」

 ある意味で自分は彼女の料理の師匠である。

 機構に彼女がやってきてから、現代料理の知識のほとんどは自分が教えたものだからだ。ある日は素材を丸焦げにしたり、またある日はプロヴィデンスですら解析が難しそうな不思議な物体を作り出したりといった大失敗を共に経験してきたからこそ感慨深いというものがある。

 彼女が特に苦戦していたのは当時のリナリア公国に存在していなかった調味料を用いた料理であった。醤油を用いた照り焼きや蒲焼きの火加減というものは経験を重ねていかなければ掴めない。

 感覚を覚えるまで、進み過ぎたメイラード反応による “黒い物体” がよく食卓に登場していた。

 そういった時でも素材が丸ごと炭化したなどという、よほどの場合を除いては全て食してきた。日を重ねるごとに現代の素材の扱いにも慣れ、貴族の嗜みとして元々身に着けていた “そう悪くはなかった料理の腕前” もみるみるうちに上達していったものだ。

 きっと今では自分よりも遥かに上手に色々な料理を作ることができるはずだ。

 いつも彼女の手料理をすぐ傍で味わっている自分にも今回のクリームパスタは最高の出来栄えだと感じられる。

 自分の為ではなく、みんなの為に一生懸命作った彼女の優しさと愛情がたっぷりと詰まった料理とも言える。

 少し昔のことを思い出しながら玲那斗は目の前にある幸せの一皿の味を深く噛み締めるのだった。


 親愛がたっぷり込められたパスタを囲み、他愛のない話が繰り広げられる楽しい夕食のひと時は続く。

 4人全員で笑い合うこのひと時が、何よりも心地よい息抜きの時間となる。

 翌日には科学の限界を超越したような問題に “再び” 挑む必要があるが、これはその前に必要な大事な休息だ。

 その後も4人の顔から笑顔は絶えることなく、食事の時間が過ぎていくのであった。



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