第3節 -新緑の革命者-

 サミュエルの後に続いて屋敷へと立入った一行は真っすぐ代表執務室を目指して歩みを進めた。

 マークתの一行は全員が真っすぐ前を見据えて歩いているが、それとなく各自が屋敷内の様子を観察していた。

 富豪らしく、屋敷の内部にも豪華な装飾を施しているのかと思えば実際はそうではなく、外見に反して素朴な造りとなっている。当然、一般的な家屋と比較すれば十分過ぎるほど豪華な造りではあるのだが。

 柱や天井などもっと飾りつけできたはずであろう部分も材質そのものが持つ質感を保存したような塗装でまとめられ、敢えて華美にしていないという印象を感じ取ることが出来る。

 通路はミルキーホワイトを基調とした落ち着いた壁で囲まれ、柔らかい暖色系の廊下が伸びる。片側に等間隔に設置された大きめの窓からは庭園の様子をよく見渡すことができ、色とりどりの花や例の柔らかそうな緑の壁全体を一望できるようになっていた。

 屋敷内の素朴な造りが翻って庭園の美しさを際立たせているようでもあり、自然の景観があくまで主役なのだと主張しているようでもある。


 一行が廊下の突き当りにある扉へと辿り着くと、サミュエルがノックをして室内へ呼び掛ける。最上階に位置する代表執務室への到着だ。

「ラーニー様、世界特殊事象研究機構の皆様をご案内いたしました。」

 すると中から端正な声をした若い男性の返事が聞こえた。「ご苦労様。彼らを室内へ通してくれ。」

「承知いたしました。」

 主の承諾を得たサミュエルは扉を開けると振り返り、マークתの面々へ室内へ入るよう促した。「さぁ、どうぞ中へお入りください。」

 サミュエルの隣ではシャーロットがマークתの面々へ深々とお辞儀をしている。

 ジョシュアを先頭に4人は代表執務室へと足を踏み入れた。

 全員が室内に入室をしたことを確認するとサミュエルが室内へ入り、最後に立ち入ったシャーロットが静かに扉を閉めた。


 室内は通路と同じくミルキーホワイトを基調とした壁面が続く明るく穏やかな空間で、やはり必要最低限の装飾が施されただけの素朴な造りとなっている。

 一部壁面はレンガが積み重ねられており、そこには植物の弦を思わせる装飾と1枚の絵画が飾られていた。


 大きなテーブルの奥で座っていた1人の男性は、全員の入室を見て取るとおもむろに立ち上がり、真っすぐに4人の元へと歩み寄る。

 背丈は180センチメートル近くはあるだろうか。すらっとした体型の物腰の柔らかそうな好青年で、丁寧に横に流したマロンブラウンの髪と深みのあるヴィリジアンの瞳が印象的だ。

 メディアを通じて全員が幾度となく見たその姿は間違いなく財団の現当主ラーニー・セルフェイスその人である。

 彼はこの場で機構の調査チームに会うことを本当に楽しみにしていたような爽やかな笑顔で一行を出迎え、手を差し出しながら挨拶をした。

「皆さん、ようこそセルフェイス財団イースト・サセックス州支部へおいでくださいました。財団当主のラーニー・セルフェイスです。」

 ジョシュアは差し出された手を握り握手を交わして言った。

「世界特殊事象研究機構 大西洋方面司令所属のジョシュア・ブライアン大尉です。」

 その後はルーカス、玲那斗、イベリスが同じように挨拶を交わす。

「ルーカス・アメルハウザー三等准尉です。」

「姫埜 玲那斗中尉であります。」

「イベリス・ガルシア・イグレシアス三等隊員です。」

 挨拶の最後にイベリスと握手をしたラーニーは驚きを浮かべた表情をして言った。

「貴女のようなお若い女性隊員が最前線に出られているとは驚きです。時代が進んだとはいえ、まだまだ現場仕事への女性の参画は少ない。機構は科学技術以外の側面でも随分と先進的なようですね。ますます好感が持てます。」

「ありがとうございます。」イベリスは何と答えていいか分からず、ひとまずとっさに思いついた礼を述べた。その様子にラーニーは爽やかな笑顔を返した。

 1人1人が固く握手を交わし自己紹介を終えると、4人をラーニー自ら席へと案内し、シャーロットへ紅茶を出すように命じる。

「さぁ、こちらへどうぞ。ロティー、皆様にお茶をお出しして。」

「承知いたしました。」指示を受けたシャーロットはすぐに準備に取り掛かった。


 ラーニーはマークתの一同が会合の場に着席し終えたのを確認して自身も会議の席に着く。

 やや緊張の面持ちで会議に臨む面々を見たラーニーは言う。「気を楽になさってください。張り詰め過ぎるのは良くない。そういえば、先程庭園で何か気になるものでも見つけましたか?時間丁度に訪れた貴方がたを見て驚きましたが、それからここに上がってこられるまで随分と間がありましたから。」

 するとラーニーのすぐ傍に控えたサミュエルが言った。「わたくしが皆様に噴水のお話をしたのです。」

 ジョシュアが続ける。「えぇ、とても素晴らしいお話を聞かせて頂きました。」

「噴水?あぁ、祝福されたお三方についてですね。」ラーニーは笑顔で言う。「この辺りの芸術品のほとんどは僕の父の趣味でして。父が神曲に書かれた言葉に感化されたという話はサムからお聞きになりましたね?」

 マークתの一同は彼の言葉に頷き、ラーニーは言葉を続ける。

「これはそのついでの小話になりますが、父は祝福されたお三方の彫像の中でベアトリーチェのことを母に重ねていたように思います。あの彫像は僕の母が亡くなった後に建てられたものですから。煉獄の頂で永遠の淑女であるベアトリーチェと出会い、彼女の導きによって天界へと昇るダンテと自分を重ねたかったのかもしれません。直接聞いたことはありませんが、自身が死を迎えるときは、この世で善行を為すことで愛する人に何も恥じることなく、その導きによって天へと昇りたいという思いを込めていたのかもしれないと思うのです。」

 ラーニーは少し複雑そうな表情を浮かべながら4人に話し、こう続けた。

「父は敷地内に飾られた芸術作品について話し始めるととても長かった。神曲に至っては “天上の薔薇” の話までよく僕に語り聞かせたものです。支部の中にはそういったものが他にもいくつもあります。とはいえ、私も父の影響を受けて育っていますから趣味についてはほとんど同じようなものなのですが。」

 彼の言葉を聞いたジョシュアは部屋の中でひときわ目を引く絵画について尋ねた。「ということは、この部屋に飾られているあの名画も?」

「えぇ、父のオーダーによるものです。当然、レプリカですけどね。」

 ジョシュアが尋ねた絵画はレンガが積み重ねられた壁面に飾られている。

 アンティーク調の装飾が施された箱の隣に展示されているのは世界的に有名な絵画、ジャン=フランソワ・ミレー作の〈落穂拾い〉だ。

「父は自然を愛し環境保全に力を入れる一方で、全ての人々が分け隔てなく生活できる平等な社会の実現も夢見ていました。そうした思想もあってか、 “この絵画に描かれる景色というものは自然や人々の生活に至るまでの様々なことが縮図として描かれているんだ” と、熱っぽく僕に話してくれたものです。幼い頃はよく理解できませんでしたが、今ならなんとなくその意味が理解できるような気がします。完全なる平等などいつの世にも存在しえないとは分かっていても、そうであれば良いと願う心を持つことは忘れてはならない…とね。ミレーの落穂拾いは僕も好きな絵画です。」

「素敵なお父様ですね。」イベリスが言う。

「ありがとうございます。そう言って頂けると父のことを誇らしく思えます。ただ、父の背中が大きすぎることが僕のプレッシャーでもあるのですが。」ラーニーは柔らかな笑顔の中に少し重圧を滲ませるような表情を浮かべつつイベリスへ言った。


 彼が絵画についての思い出を話し終えたのとほぼ同時にシャーロットが頼まれていたお茶を運んできた。

 ジョシュア、ルーカス、玲那斗の前に順番に紅茶を差し出して置いていく。

 次にイベリスの前に紅茶を差し出そうとしたときだった。シャーロットはイベリスの腕をほんの僅かだがぐいっと押すような形で差し出してしまった。

「申し訳ございません。」自身の腕が当たってしまったことをシャーロットはすぐにイベリスへ謝罪する。

「いえ、そんなお気になさらないでください。とても良い香りのお茶をありがとうございます。」笑顔でイベリスは答えた。


 そんな2人のやり取りを横目に見ていた玲那斗は先のシャーロットの動きが偶然ではないことに気が付いた。イベリスを腕で押したのは明らかにわざとだ。

 おそらくこの場にいる中でその様子を全て見ることが出来たのは対面に座るラーニーと傍らに立つサミュエル、そしてイベリスのすぐ隣に座る自分だけだろう。

 イベリスはそのときの彼女の表情を見ていないだろうが、横目にみたそれは庭園で見たものと同じである。明らかに敵意を抱いた冷たい視線をイベリスへと向けていた。

 このことも先程の出来事が “わざとであった” という考えに拍車をかける。

 対面ではラーニーもそのことに気付いたような渋い表情を浮かべている。


 シャーロットは引き続き対面へと向かい、最後にラーニーの手前にお茶を差し出すと全員へ一礼して後ろへ下がった。

「ありがとう、2人ともご苦労様。サム、ロティー。これから機構の皆さんに今回お越しいただいた目的について改めてお話しようと思う。すまないがここからは席を外してくれないか。」

 ラーニーの言葉に対し、サミュエルとシャーロットは全く同時に礼をしてその場から下がると、2人揃って部屋を後にした。

 2人が退室して間もなくラーニーは言った。「イベリスさん、すみません。どうも彼女は最近疲れているようでして。後で僕から話しておきます。」

「そんな、お気になさらないでください。私はまったく気にしていませんから。」

「ありがとうございます。」イベリスの返事に彼は礼を述べた。

 その言葉を聞いた玲那斗は、やはり彼は先程のシャーロットの動きが自然の成り行きではないことに気付いていたのだと確信した。

 玲那斗は失礼を覚悟でラーニーに尋ねた。「キャンベルさんはずっとここでお仕事を?」

「働き始めて7年になるでしょうか。この場で最初にこういったお話をすることが正しいことなのかどうか分かりませんが…実のところ、ロティー…いえ、シャーロットは純粋なセルフェイス家の使用人というわけではありません。私直属の執事見習いと言う立場でサムと行動を共にしていますが、彼女は正式なセルフェイス財団の家族のひとりであり私の義理の妹なのです。彼女は2021年…今から16年前に父が児童養護施設から引き取った子です。」

 その言葉に玲那斗だけではなくその場にいた全員が驚いた。玲那斗はすぐに自身の言葉を詫びる。

「申し訳ありません。踏み込んだことまで聞くつもりではありませんでした。」

「謝らないで下さい。貴方がたにはお話しても良いと思ったのです。それに、知っておいて頂いた方が僕としても色々と気兼ねすることがありませんから。」

「義理の…では彼女のお父様やお母様は…」イベリスが言う。

「イベリス。」隣で玲那斗が嗜めるように言った。

 それを聞いたイベリスは詮索するような物言いをしてしまったことを詫びた。「すみません。」

 ラーニーは手元の紅茶を一口飲み、静かにカップを置いて言った。

「いいえ、それも構いませんよ。彼女の両親はおそらく存命中です。ただ、ある出来事の影響でこの家へやってきた。彼女は2020年に世界中で猛威を振るった新型コロナウィルスの間接的な被害者です。ウィルスそのものではなく、ウィルスがもたらした “環境の変化” によって一人きりになってしまったといえるでしょう。」

「新型コロナウィルス…よく覚えています。当時、英国をはじめとした欧州では特に被害が酷かった。」ジョシュアが言う。

 ラーニーはジョシュアに目を向けて言った。「幼かった僕でも印象に残っています。ウィルスの蔓延によって犠牲者は増え続け、その対応の為に政府によって都市部はロックダウンされました。そして時を経るごとに多くの人々が仕事を失い路頭に迷うこととなった。彼女の家族もその煽りを受けた犠牲者です。割愛しますが、ロティーは6歳のときに家族離散となり養護施設に預けられました。そして7歳のときにセルフェイス財団に養子として迎えられ、それからは僕達とずっと一緒に暮らしています。」

「彼女と初めてお会いした時に言葉では表すことの出来ない不思議な感覚を覚えましたが、お話を伺って腑に落ちました。彼女も財団の御家族なのですね。」話を聞いたイベリスが言う。

「はい、私達の大切な家族です。ロティーが使用人として働いているのは、彼女が16歳になったときに自らそうしたいと言い出したことがきっかけなのです。それを聞いた父は彼女に大学に行って自由に仕事を選ぶ道を勧めたのですが、とても意思が固くて。結局は父が根負けしてしまって今に至ります。」最後辺りは苦笑しながらラーニーは言った。

 マークתの全員を見渡しながら彼は言う「ウィルスに関しては貴方がた機構がいち早く変異株の登場を予期し、懸念を示したことに加え、どういった類の変異株が登場するか予測したことで世界中の製薬会社が事前対策を施すことが出来た。英国では死亡リスクの高いと言われる変異株が予測通りに拡大しましたが、対策が功を奏して2021年の春が訪れる頃には収束するに至りました。あの時、機構の言葉を信じて製薬会社へ出資した中には僕の父も含まれています。今ここで皆さんと実際にお話をするのは初めてですが、どうにも初めてお会いするという気持ちではないのはそういうことがあるからかもしれません。この話をする気になったのもそれが理由です。なので気にされることはありません。」

「お話頂いてありがとうございます。」会話を最初に切り出した玲那斗は短い言葉の意味以上の思いを持って言った。

 玲那斗の心情を汲み取ったのだろうか。ラーニーは最初に見せたような爽やかな笑顔を湛えて応えた。

「はい。でも、私が彼女の話を皆さんにしたということは内緒にしてくださいね。私が彼女に怒られてしまいますから。」

 茶目っ気を交えて言ったラーニーに全員が静かに頷いた。

「さて、気付けば別の話題を随分長く話してしまいました。そろそろ本題へ入りましょう。」

 ラーニーは表情を引き締めると、今回機構の調査チームをこの地へと呼び寄せた目的を改めてマークתへと伝えた。


                 * * *


「ロティー、どうしてあのような行動を?」サミュエルが問う。

 広く長い廊下をサミュエルとシャーロットは並んで歩きながら使用人用の控室へ向かって歩みを進めていた。

 2人の足音だけが周囲に反響する。シャーロットは返事をしない。

「大切なお客様へあのような行動を働いたことは褒められたものではない。我々の立場として決して許されないこと。それは分かるね?」

「はい。」サミュエルの言葉にシャーロットは一言だけ返事をした。

「宜しい。どうしてそうしたのかは問わずにおこう。差し詰め、機構の彼女に対して何か思うことがあるのだろう? “彼女” が財団へ入りびたるようになって、ラーニー様へそれとなくイグレシアス様のことを話していたのは私も承知している。ラーニー様がイグレシアス様に対して向けられた眼差しが気になるということも理解は出来る。」

 シャーロットは黙り込んだまま言葉を発することはない。しかしサミュエルの言うことを無視しているというわけでもない。

 おそらくどう答えて良いのかわからないのだ。彼女の複雑な胸中を察しているサミュエルはこう続けた。

「イグレシアス様は確かに似ておられる。今は亡きラーニー様のお母様に。それは君の母上でもある。」

 その言葉にシャーロットは唇の端を少しだけ噛んだ。

 彼女が僅かに見せた仕草をサミュエルは見逃さなかった。「気にするな、ということは出来ないだろう。今は心が揺れているだけかもしれない。最近の出来事もあって疲れているのだろう。今日のところは私がやっておくから、君はもう休みたまえ。」

「お気遣い感謝いたします。」サミュエルの優しさを感じ取ったシャーロットは本心からそう答えた。

 彼女の返事にサミュエルは笑いながら言う。「君にそう堅苦しく言われるのはいつまでも慣れないよ。ロティー。本来、君は私が仕えるべき立場のお方なのだからね。昔のように気軽に話してもらった方がしっくりくるんだ。」

 シャーロットは自分のことを思ってくれているサミュエルに内心で感謝を示しつつ、先程まで固まっていた表情を幾分か和らげる。

 そしてサミュエルに一礼をすると仕事を切り上げ、控室ではなく自身の部屋へと向きを変えて歩き出した。


                 * * *


 遥か遠くで荒れ狂う風が止んだ。

 ダストデビル。それは突然の “破壊” であった。

 どこからともなく吹き始めた強烈な風はセルフェイス財団の特別自然管理区域内で塵旋風を巻き起こし、区内の監視警備を行っていたドローン2機を再起動不能状態になるまで傷付け破壊していた。

 区域内には赤い警報ランプが灯り、慌ただしいサイレンが響く。

 間もなく、別の警備ドローンが周囲の異常を確認する為にその場に集まってきた。

 被害は強烈な風によるものであることは間違いない。しかし、大地から渦巻き状に立ち昇る塵旋風という自然現象では到底説明がつかないほど徹底的にドローンは破壊されており、その残骸はまるで風の刃が意思をもって切り刻んだかのようである。



 右手を前に伸ばしていた少女はそっと手を下ろす。

 淡く輝きを放っていた緑色の瞳は落ち着きを取り戻した。

 感情を感じさせることのない、虚ろな眼差しの遥か彼方にはセルフェイス財団の管理区域が広がっている。

 少女がただじっと前を見据えて佇んでいたその時、後ろから彼女を呼ぶ老人の声が聞こえた。

「こんなところにいたのかい、アルビジア。」

 少女はゆっくりと声の主の方へと振り返る。

 そこには一人の男性が立っていた。年老いてはいるが身長180センチメートルほどのがっちりした体格の人物だ。深い蒼色の瞳で少女を見据えている。慈愛に満ちた、とても穏やかで優しい目だ。

「お爺様。」アルビジアと呼ばれた少女は言った。

「きっとここではないかと思って来てみたんだ。」

 心配を滲ませた声色で老人はそう言い、彼女へ手を差し出して続けて言った。「これから夕食の買い出しに行くから一緒に来て手伝っておくれ。」

 その言葉に少女は特に感情を示すことなくたった一言返事をする。

「はい。」

「よし、それじゃあ行くとしよう。」


 2人は財団の保護区域に背を向け、ダンジネスロードへ停車している車へ向けて並んで歩き出す。

 その背後では異常を知らせる警報音がまだ鳴り響いていた。



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