第8節 -疑念の花-
玲那斗とルーカスが夕食の準備を始めてからおよそ30分が過ぎた頃、ペンションの中にはホワイトシチューの良い香りが漂っていた。
「こんなもんだろう。いい塩梅だ。さぁて玲那斗、そろそろイベリスを呼んできてくれ。」
目の前の鍋を見据え、その仕上がり具合に自信を持って頷きながらルーカスが言った。
「OK。サラダはもう出したからシチューの配膳は任せた。」
「おう、任された。」
互いに言葉を交わし、玲那斗がイベリスを呼びに部屋まで行こうとして振り返った時だった。2人の隣に今まさに呼びに行こうとした本人が唐突に現れる。
「凄く良い香り。美味しそうね。」
どうやらシチューの匂いに釣られてイベリスは自ら部屋を出たらしい。文字通り光の速度でここまで来て、今は目を輝かせながら鍋を見つめている。
「ナイスタイミングだ。呼びに行くまでもなかったな。さぁ座った座った。」ルーカスは笑いながら言った。
「イベリス、今日買ったパンがあっただろう?それだけ用意してもらえるか?」
「喜んで。」玲那斗の頼みに快く応じたイベリスはすぐに言われた通りパンを棚から取り出してテーブルへと並べた。
そうして全ての配膳を終え夕食の準備が完璧に整った。4人全員が食卓を囲んで着席するといつも通りの挨拶をする。
「いただきます。」全員が揃ってそう言い一斉に食べ始める。
早速シチューを一口食べたイベリスが幸せそうな笑みを浮かべながら言う。
「とっても美味しい。ルーカスは料理の腕も凄いのね!」
「こういう食材が現地で調達できる調査の時はみんなが当番で料理をするからな。自然と腕が上達していくのさ。満足してもらえて嬉しいよ。でも手際よく野菜をカットしたのは玲那斗だぞ。」
「えぇ、切り方を見たら分かるわ。セントラルではいつも一緒に作っているから。貴方の癖がよく出てる。」イベリスは玲那斗へ視線を向けて言った。
「それは褒めてるのか?」
「もちろんよ?」玲那斗の問いに茶目っ気たっぷりにイベリスは返した。
「はいはい、ごちそうさん。そういえばイベリスの手料理はまだ食べたこと無いな。明日の夜が楽しみだ。」2人を眺めながらルーカスは言う。
「任せてちょうだい。私も色々と今の時代の料理を勉強したんだから。」自信満々な様子でイベリスは言った。
微笑ましそうに彼女を見ながらジョシュアが言う。「得意料理のレパートリーも出来たか?」
「うーん、そうね。特別得意…というわけではないのだけれど、パスタソースの種類はたくさん覚えたわ。」
その返事にすぐさまルーカスが反応する。「良いじゃないか。明日の夜はパスタにしよう。」
「分かったわ。どのソースにするか考えておくわ。」
「じゃぁ俺は絶妙な茹で具合のパスタを用意するとしよう。」玲那斗が得意そうに言う。
「それ、8割がたは鍋の前で待っておくだけじゃないか?せっかくならパスタをこねて手打ちするところから始めないとな。」
「生地を寝かせてる間に深夜になっちまうぞ。」
ルーカスと玲那斗のやり取りに全員が笑う。
4人の間で他愛のない会話もはずみ、楽しい食事の時間が流れる。
そんな中、しばらくしてルーカスが言った。
「そうだ、フロリアンに連絡をとってみよう。向こうは早ければ寝る前くらいの時間だろうからな。」
「良いな。何事もなく平穏に調査活動が出来ていれば良いが。」ジョシュアが言う。
「彼女が一緒にいるなら大丈夫よ。」イベリスはある人物を引き合いに出して言った。
「それが一番の心配の種なんじゃないか。」
相変わらずの様子でそう言ったルーカスは早速自分のヘルメスを机の上に置き、ホログラフィー通信モードにしてミュンスターに滞在するフロリアンへ連絡を取った。
* * *
夕食の後片付けを終えたアルビジアは食後の紅茶を淹れてテーブルへと運んだ。
ジェイソンのカップと自分のカップを静かにテーブルへ置いてそれぞれに紅茶をゆっくりと注ぎ入れる。
周囲には淹れたての紅茶の香りの他に、彼女から漂う熟した果実を思わせるような心を落ち着かせる甘い香りが広がった。
名は体を表すとでもいうのだろうか。その上品な香りはアルビジアという名の花の香りにとてもよく似たものである。
差し出された紅茶を手に取ってジェイソンは礼を言う。「ありがとう、アルビジア。いつも何から何まですまないな。特に今日は色々と。」
「私が好きでしていることです。こうしている方が、落ち着きます。」
いつものようにゆったりとした口調で彼女は返事をした。
「そうだ、今日マーケットで買ったクッキーがあったな。食べるかい?」
「はい、頂きます。」
ジェイソンの期待通りの返事を彼女は返してくれた。とても物静かで、表情を変えることも滅多にない彼女だが、甘いものを食べている時は少しだけ幸せそうな雰囲気を漂わせることを知っている。
10年もの間一緒に暮らしていると表情の変化が無くとも、ほんの些細な感情の変化も読み取れるようになるものだ。
ジェイソンはマーケットで買ったクッキーを皿に並べてテーブルへと置いた。出されたクッキーを迷うことなく手に取ったアルビジアは一口ほど食べる。
他の人であれば誰も気付かないだろうが、今彼女は間違いなく幸せな気持ちを抱いている。ジェイソンにはそれが手に取るように理解出来た。
アナログ時計の針の音だけが響く静かなリビング。
2人で揃ってお茶のひと時を楽しむこの時間がジェイソンにはかけがえのないものだった。
賑やかな会話を楽しむといったことも無く、これといって特に何を話すというわけでもない。
ただ2人が揃ってこの場でお茶を楽しむ。 “それだけ” で良いのだ。
しかし、今日に限ってはジェイソンは彼女に尋ねてみたいことがひとつだけあった。例のダンジネス国立自然保護区へ頻繁に通う理由についてだ。
ジェイソンは思い切って尋ねてみようと思ったが、言葉が喉まで出かかったまま言い出せない。
彼女が保護区に通う理由は分からないが、何をしているかは知っている。知っているからこそ言い出せない。
そんなジェイソンの気持ちを察知したのか、アルビジアはふとクッキーを食べる手を止め、不思議そうな表情で彼の目を見つめた。
彼女の視線に気づいたジェイソンは思っていることを言うのをやめにした。
「何でもないんだ。この歳になるとぼうっとすることが増えてしまってね。」
「お爺様、私と、同じですか?」
いつもぼうっとしている自分に似て来たのではないかと彼女は言う。ジェイソンは答える。「そうだな。少しお前に似てきたのかもしれない。」
その返事をしたとき、ジェイソンには彼女がほんの僅かに笑ったように見えた気がした。実際は表情に変化など微塵も無いのだが、確かにそんな気がしたのだ。
そして改めて彼女へ視線を向けてジェイソンは言った。
「アルビジア。最近、自然保護区の財団が管理している区画辺りで何やら事件が起きているらしい。敷地外には影響はないと言うが、あの辺りへ行った時には気を付けるんだよ。」
「はい。」アルビジアは一言だけ短く返事をした。
* * *
シャーロットと共に夕食を楽しんだラーニーは1人で代表執務室へ戻り、残務をこなした後で物思いに耽っていた。
昼間に出会った機構のイベリスという少女。あの少女からはシャーロットやサミュエルの言うように自分の母親と似た、同じような空気が感じられる。
どこか懐かしく、それでいて優しくて真っすぐな眼差し。しかし、自分にとって重要なのはそこではなかった。
彼女には何かもっと別の特別なものがある。そう確信していた。
それはあのアンジェリカという女が再三にわたって彼女について言及していた事にも関係するのだろう。奴は具体的なことこそ何も言わなかったが、イベリスという少女については自分も気に入るはずだと何度も繰り返し強調していた。
そして今日、実際に会ってみてアンジェリカの言うことは事実であったと思った。
出来ればイベリスという少女とはもっと腰を据えてじっくりと話してみたい。そのような気持ちが今は強い。
彼女のことを苦手だと言ったロティーには申し訳ないが、財団にとって非常に魅力的な女性であることに間違いはないのだから。
次にラーニーは思考を昼間に起きたダストデビルの被害に向けた。
手元にデバイスから複数の画像データをモニターに表示する。そこに映っていたのはジェイドグリーンの瞳が美しい1人の少女の姿である。
ダストデビルの被害が観測された際に撮影された少女の姿が何を示すのかは曖昧ではあるが、何らかの関与をしているのではないかという疑念がラーニーの中に渦巻いていった。
「少し網を張ってみるのも悪くはないな。」
そう呟いたラーニーは電話を手に取ると保護区内の特別管理区域の監視センターへと繋いだ。
「僕だ。少し準備してもらいたいものがある。今から言う内容のものを至急用意して、指定された場所に設置しておいてもらいたい。」
そして、ラーニーは自身の頭の中で渦巻く疑念が真実かどうかを確認する為の計画を管制塔監視センターの職員へ詳細を告げた。
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