第19節 -罪と罰-
午前10時。時計の針は刻一刻と約束の時間に近付いている。
財団当主のラーニーと機構のイベリスの2人はこの後会合を行う予定となっている。玲那斗とイベリスは自然保護区で継続している調査を離れ、電気バイクで財団支部に向かっている最中だ。保護区では引き続きジョシュアとルーカスが調査を続行している。
玲那斗にとって今回の任務はあくまで彼女の送迎である。会合に直接参加するわけでもない為、彼女を送り届けた後は支部の外でひたすら待機となる。
そもそも、ラーニーがどうしてイベリスと2人で話がしたいなどと言いだしたのか。その真意は計りかねる。
彼と彼女の2人だけで会合を行うことに抵抗を感じていないわけではないが、依頼主の要望であれば機構としても聞かないわけにもいかない。
こういう事情から玲那斗は心持ちが穏やかというわけでもないが、自分に出来るのはただ会合が無事に終わることを待つのみと考えて平静を保っている。
バイクを走らせること数分、財団の支部が視界に入った。
初めて訪れた時と変わりなく色とりどりの植物で満たされた優雅な庭園が広がっている。庭園手前の駐輪スペースにバイクを停車させ、2人揃って敷地へと足を踏み入れる。
玲那斗はふとイベリスの方に目を配ったが、やはり表情が硬い。彼女も彼女なりに思うことは多々あるのだろう。
自分にとってイベリスと別行動になるのが初めてであるように、彼女にとってもまた自分と別行動になるのは初めてなのだ。そのことについて不安を感じているのかは定かではないが、いつもよりも落ち着かない様子でいるのは確かだ。
玲那斗はそっと声を掛ける。
「大丈夫さ。ただ話を聞きに行くつもりで臨めばきっとすぐ終わる。」
その言葉に安心した様子を浮かべたイベリスは返事をする。「ありがとう。少し緊張しているのね、私は。」
「少しの間別々になるけど、俺も敷地内にいるから。さぁ、行こう。」
そう言って歩き出す玲那斗に続いてイベリスも歩き出す。
すると、庭園に繋がる門を抜けて少し進んだ先で見知った顔に出会う。
「姫埜様、イグレシアス様、お待ちしておりました。今回はわたくしがラーニー様より案内役を仰せつかっております。」
澄んだ青色の瞳が2人を見据える。出迎えたのはシャーロットであった。
前回会った時よりは幾分か表情は和らいで見えるものの、それでも氷のような眼差しがイベリスを捉えているように玲那斗には感じられた。
ただ、今のイベリスにはそれを気に留める余裕は無いのか、まったく気にするそぶりはない。
2人が挨拶をそれぞれ言いかけたところでシャーロットは話を続けた。
「ラーニー様より賜っているのはイグレシアス様を応接室へご案内することのみですが、姫埜様はここからすぐにお出になられますか?」感情を殺したような冷静な言葉で問い掛ける。
「いえ、自分は彼女の会合が終わるまで現地待機という指令を受けています。よって、会合が終わるまでの間この場で待たせていただきます。」
「承知いたしました。では、姫埜様も館内へご案内いたします。客人を外で待たせ続けるなどということは出来ません。館内には待合室もございます。会合が終了するまで待機なさるのであれば、そちらでお待ちください。」
そう言って玲那斗とイベリスに一礼をしたシャーロットはくるりと向きを反転して屋敷へと2人を案内する。
玲那斗とイベリスは互いの顔を見合わせて頷くと、彼女の後ろについて歩きだした。
前回通り抜けた立派な玄関を再び通過し、手入れが行き届いた綺麗な白い廊下を歩いていく。
しばらく歩いた後、大きな扉の前でシャーロットは足を止めると振り返って玲那斗へ言った。
「こちらが待合室です。」
彼女はそう言うと扉を開いて玲那斗に入室を促す。
「どうぞ。自由な席にお座りになってお待ちください。後程お飲み物をご用意いたします。」
「ありがとうございます。ですがお気遣いは無用です。気持ちだけ受け取らせていただきます。」扉をくぐって室内に立ち入った玲那斗が言う。
「そうですか。では、何かございましたらテーブルに備え付けのインターフォンをご利用ください。すぐにお伺いいたしますので。」
シャーロットは玲那斗へ一礼をするとゆっくりと扉を閉めた。
*
玲那斗を待合室へと案内し終えたシャーロットはイベリスへと視線を向けて言った。
「では、引き続き応接室へご案内いたします。どうぞこちらへ。」
深々と一礼をして通路の先へと振り返る彼女の姿を見てイベリスは思う。
非の打ち所がない完璧な所作、礼節、振る舞い…自分のことを大事な客人として丁重に扱ってくれていることが伝わってくる。
それなのにどうしてなのか。彼女から感じられるのは氷のような冷たさ。こんなにも近い距離にいるのに、2人の間が分厚い壁で隔てられたように遠く感じられる。
職務、責務、義務。果たすべき務めをただただ完璧にこなしているだけというわけでもない。
端的に言ってしまえば、そう…どこかよそよそしいのだ。
知り合って間もない赤の他人であるのだから当然かもしれない。しかし、それとは違う。
明らかに意図的に遠ざけられている気がする。そんな気がしてならない。
イベリスは2人きりの機会など今後はないかもしれないと思い、自身が感じていることを直接尋ねてみようとした。
だが、イベリスがシャーロットに声を掛けようとした直前。ふと彼女は案内の足を止めると振り返らずに言った。
「イグレシアス様。少し宜しいですか?」
突然のことに面食らったイベリスはやや戸惑うような具合で返事をするのがやっとだった。
「はい、もちろん。」
「わたくしはラーニー様より貴女様を応接室へご案内するようにと仰せつかっております。大切な客人であるからと。彼は貴女様が此度の自然異常再生の原因を解明する為の鍵となる存在ではないかともおっしゃっていました。」
「私が?」彼女の話を聞いて戸惑いを深めながらイベリスは言った。
「はい。そもそも機構へ調査を依頼し、貴方がたを此処へ招くというのはわたくしども財団の者ではない “とある人物” からの提案によるものでした。マークתと呼ばれる精鋭が揃う調査チームの中でも、特に注目すべき人物がいると。 “あの子” は貴女を指してそう言いました。」
あの子?ここまで完璧な対応を重ねてきた彼女がふいに口走った表現に違和感を感じつつも、イベリスは話を聞いた。
「そうして実際に貴女とお会いした瞬間に、不思議とその言葉に偽りはないのだと感じられました。イグレシアス様のようなお方が、精鋭揃いと名高い機構の一調査チームにおいて最前線で共に調査活動をなされている…その事実だけで敬服に値するものかと存じます。」
シャーロットはそこまで言うとゆっくりとイベリスの方へ向き直り、真っすぐにその目を見据えて言った。
「しかし、わたくしには分からないのです。だからとて…なぜラーニー様が貴女様を “特別” だとおっしゃるのか。なぜ “彼” がそこまで貴女に執着するのか。」
彼女の透き通るような青色の目は氷のような冷たい視線を放ちながらイベリスを刺し貫いた。
「キャンベルさん、貴女は…」
「承知しております。初めてここに訪れた時にお聞きになったのでしょう?私と彼の本当の間柄というものを。関係というものを。わたくしは彼の義妹。幼少時にセルフェイス家当主であられたエドワード様…今は亡きお義父様に引き取って頂いた養子です。以来、ずっと彼の傍で、彼と共に過ごしてきました。」
彼の傍で共に。その言葉を彼女の口から聞いた瞬間にイベリスは理解した。彼女と自分の間に分厚い壁があるかのような奇妙な感覚。敢えて遠ざけられているかのような対応。それが一体なぜなのかを。
理解した上でイベリスは否定する。
「私にはそのようなつもりは…」
「もちろん、それも承知しております。貴女様には何一つ咎などありません。責めを受けるべき咎など何も。これは私個人の身勝手な感情によるもの。それでも、 “私は彼が特別だという貴女という存在が受け入れられない”。 例え貴女が今は亡き “私達の母” の面影を感じさせる存在であったとしても。」
「お母様の?」
「セルフェイス家に長くいるものであれば誰もがそのように思うことでしょう。ウォーレンも同じように言っておりました。当然、見た目の話ではありません。不思議なものですが、そう感じさせる何かが貴女には確かに存在する。それを持って “特別” だというのか、他に何かあるのか。見極めをつけようなどとも思いません。ただ、私が受け入れることが出来ない。それだけなのです。」
イベリスは彼女が心の内で何を思っていたのかを全て感じ取った上で黙り込む。何をどう答えようとも彼女の気に障るだけだろう。
ずっと昔からすぐ傍で同じ時間を過ごして生きてきた、おそらくは最愛だと思っている人物が自らを差し置いて別の誰かを “特別” だと言う。
これが仮に自分の立場であったなら。玲那斗が自分を差し置いて別の美しい女性を “特別” だなどと抜かせば、やはり同じような心境に至るだろう。
ただの嫉妬であると言ってしまえばそれだけである。しかし、その一言では譲ることの出来ない信念というものがある。シャーロットは暗にそれを自分に伝えているのだ。
イベリスは言う。「ごめんなさい。私には貴女の憤りがよく分かる。けれど、それをどうにかする術は持ち合わせていません。」
シャーロットはイベリスから視線を逸らし、少しだけ考え事をする仕草を見せた後に言った。
「申し訳ありません。少し言葉が過ぎたようです。無作法な物言いをしてしまったことをお詫び申し上げます。」
そうして深々と礼をした後に廊下の向こう側へと振り返って言った。
「ご容赦くださいとは申し上げません。わたくしの言葉で貴女様の気分を害してしまわれたのであれば、後程如何様にも処罰は受ける所存です。」
「いいえ、私は何も聞かなかったわ。」この場合においては否定も肯定も良い結果にはならないだろう。
最初から何も無かったということにしておけば、万が一彼女自身が自らの無作法を申し出て罰せられることを後で望むようなことがあっても咎を受けることはない。
リナリア公国が存在した時代、イベリスが自らの家系に使えていた使用人たちのミスや不手際に対してよく使っていたものだ。
何も見ていないし何も聞いていない、と。そういえば彼ら、彼女らの身に懲罰などというものが下ることはなかった。
相手の受け取りようによっては “そんなことはどうでもいい” と取られかねない言葉でもあるが、聡明な彼女であればどういった意図があるのか気付くに違いない。
イベリスの言葉を聞いたシャーロットはしばしの間を置いて言う。
「では、引き続き応接室へご案内いたします。」
どうやらイベリスの意図することは伝わったようだ。
自身がこの世でもっとも敬愛する人物の元へ、おそらくは今もっとも引き合わせたくない人物を客人として丁重に扱い案内しなければならないという彼女の心境は如何程のものか。
イベリスはシャーロットの心の内を想像し、今ここにいる自分という存在について考えを巡らせた。
*
玲那斗は案内された待合室の椅子に座りただぼうっとして向こう側の壁を見つめていた。
何もせずに考え事に没頭できる時間というのも久方振りな気がする。まだ機構のシングル区画で生活していた頃、任務が無い時は毎日今のように自室でぼうっと過ごしていた時のことを思い出す。
イベリスが来てからは毎日が賑やかで、華やかで、まるで色が無かった自分の日常というものが急に鮮やかになったような感覚を覚えたものだ。
それまでの日々が味気なかったというわけではなかったが、彼女が来て以降は自らの人生というものにようやく意味や目的というようなものを見つけられた気がしたのだ。
昔を思い出しながら、玲那斗は優雅な造りの室内を見渡す。
落ち着いた白色基調の壁に囲まれた室内には、木の温もりを感じさせるような調度品が並ぶ。室外の廊下などと同じように華美過ぎない上品な仕立てだ。
目の前の大きな長方形のテーブルには真っ白なテーブルクロスが敷かれ、中央の花瓶には鮮やかな花が飾られていた。
玲那斗がその花をじっと見つめながら物思いに耽っていると、唐突に花のような香りが周囲を包み込むのを感じた。
イベリス?いや、違う。彼女の香りではない。
ふわりと香る甘い匂い。ぼうっとしていると意識を惹きこまれるような上品で甘美な匂いだ。
目の前の花から香っているのだろうか?それにしては強い。一体どこから?
頭がくらくらとし、眼前の景色が少し霞む。
玲那斗が唐突に香り始めた匂いについて不思議に思っていると、自身の後ろから甘ったるい少女の声が聞こえてきた。
「こんにちは☆お兄ちゃん。」
どこか聞き覚えのある声。玲那斗は現実に意識を引き戻しながら、誰もいるはずのない場所から聞こえた声の方へ咄嗟に振り返った。
「君は…アンジェリカ。」
「やったぁー☆覚えていてくれたんだね?わ・た・し・の・こ・と♡」
満面の笑みを浮かべて彼女は言った。
特徴的な桃色のツインテール。軍服と学生服を合わせたような服装。世にも珍しい宝石のように透き通った紫色の美しい瞳。まだ年端もいかない12~13歳くらいのこの少女とはつい最近出会っている。
忘れられるはずがない。およそ半年前、ミクロネシア連邦の地で自分は彼女に殺されかけたのだ。
「そんなに強張った表情するのは、めっ!なんだよ?今日は悪戯をしに来たわけでもないし、ましてや “殺そう” だなんて微塵も思って無いから、ね☆」
アンジェリカは自分の姿を見た瞬間に思わず後ろにのけぞった玲那斗の姿を見て言った。
「どうしてここに?」玲那斗は警戒の色を強めながら言う。
「んー、どうしてって言われると悩んじゃうんだけどね?私自身のお楽しみの為でもあるしー、今回も例に漏れず “スポンサー” の役を買って出ていると言えば良いのかなー?本当にー?どうだろう。」
玲那斗の至極当然の質問に1人で答えて1人で彼女は悩む。
スポンサーという言葉が指し示すものの意味は分からないが、一連の事象に何かしらどこかで彼女が関与しているのは間違いないのだろう。玲那斗は言う。
「ダストデビルの件について君も関与しているのか?」
「まっさかー。あれは別、別ぅー。犯人のこと、もう知ってるくせにー☆ のん、Non!私は無関係なんだなー、これが。」
玲那斗の質問に彼女は楽しそうに答える。
「ねぇねぇ、今暇でしょう?少しだけ私のお話に付き合ってくれない?」
ニコニコとした表情でそういうアンジェリカに玲那斗は返事をする。
「分かった。」邪険に扱うわけにはいかないだろう。ここで彼女の機嫌を損ねれば、先に言った言葉が撤回されるかもしれない。イベリスが近くにいない今、そういう厄介な事態は避けるべきだ。
それに、見方を変えれば彼女という特殊な人物とじっくり話をするまたとない機会でもある。突然の出来事なので聞きたいことはそう多くは浮かばないが、とにかく彼女と話をしてみるだけで何か収穫があるかもしれない。玲那斗はそう思っていた。
そんな彼の言葉にアンジェリカは再び笑顔を浮かべて言う。
「やった☆この瞬間を待っていたんだよねー。貴方の傍にはいつでもいつでも、そう、いつでもイベリスがくっついているから。もしかして近くに隠れたりしてない?大丈夫?あぁ見えて嫉妬深そうだもんね。愛する人の為なら邪魔者は消しちゃうっていう、ヤンデレラっていうの?違う?そっかー。」
「ここには俺一人きりだよ。」
「そっかー、それでは念には念を入れて。」
アンジェリカはそう言うと指をぱちんと鳴らし囁くように言った。
〈レイ・アブソルータ ここは現世より隔絶された夢想の部屋なり。〉
周囲の空気が僅かに揺らいだような気がした。感覚的なもので、実際には何か変化があったわけではない。
「これで大丈夫。監視カメラも私の姿は捉えてないし?そういった監視カメラの類にはお兄ちゃんもさっきと同じようにぼうっと椅子に座っているだけに映ってる。ここで話すことは誰にも聞かれることも無ければ誰に見られることもないから、安心したまえ☆ふふん。」
絶対の法〈レイ・アブソルータ〉
それは彼女の持つ異能の力。自身の発言をこの世における絶対の原則に置き換え、周囲の空間や事象などありとあらゆるものの在り方を強制的に捻じ曲げ都合の良いように操作する。
先の言葉通りなら、今自分達がいるこの場は “現実には存在しない夢の世界の部屋” ということになるのだろう。
彼女は安心しろと言ったが、逆の見方をすれば彼女の作る空間に強引に閉じ込められたとも言える。
「これで心置きなくお話が出来るねー☆」
嬉しそうに彼女は言うと何を躊躇うこともなく玲那斗の膝の上にぴょんと横向きに腰を下ろした。そして手に持ったデフォルメされた可愛らしいライオンの形をした鞄を両手で抱っこしながら脚をぶらぶらとさせている。
あまりに突然の出来事の数々に戸惑い、何と言って良いのか玲那斗が言葉を出しあぐねていると、アンジェリカが会話を切り出した。
「半年前にも聞いてみたかったんだけどね、貴方の中の彼は目覚めているの?」
彼女が尋ねているのは自分の中にいるもう1人の “レナト” という存在についてだ。リナリア公国の王を継ぐはずであった人物。
イベリス曰く、玲那斗という自分は彼の生まれ変わりともいうべき存在であり、彼の魂をこの身に宿しているという。そのことについては時折、心の中から言葉なく語り掛けてくるような彼の意思を感じるので理解は出来ている。
「私が思うに、きっとまだ完全な形では目が覚めていないんだろうなーって。もし、貴方の中にいる彼が目覚めているのなら、ミクロネシアの地で私に殺されかかる…なんてことはなかったはずだもの。それがどうしてかは、ひ・み・つ、だけどね?」
可愛らしい声で物騒なことを言う。玲那斗は軽く息を整えながら答える。
「そうだな。彼の声なき声のようなものは感じるけど、直接対話したりみたいなことはからっきしだな。」
「やっぱりぃ?アイリスみたいにはいかないか。レナトに聞いてみたいこともたくさんあるんだけど、仕方ない。千年越しの質問はお預けだね。でもね、でもね、今日は貴方に聞きたいこともたくさんあるんだー。」
ミクロネシアの地で太陽の奇跡の再来、〈聖母の奇跡〉を起こしていた少女の名前を引き合いに出しつつ、相変わらず嬉しそうな表情で膝に腰掛けたまま彼女は言う。
すぐ近くから香る甘い匂い。鼻の奥を刺激する甘美なとても良い香りは意識を強く持っておかなければ悪い方向に惹き込まれてしまいそうな予感を感じさせる。ずっと嗅ぎ続けているだけで正常な思考能力を狂わせそうですらある。彼女はこれを狙ってわざとくっついてきたのだろうか。
彼女が足をゆっくりとぶらぶら動かすたびに、目のやり場に困る短いスカートは揺れ、その華奢で柔らかい太ももの感触と温もりが自身の穿いている隊員服越しに伝わってくる。
手に持ったライオンの頭を彼女は笑顔で撫でている。“何もしなければ” という条件付きではあるが、膝の上でくつろぐ彼女の姿は名前が示す通り “天使のよう” である。内面について詳しく知らなければ確実にその認識で間違いではない。
無邪気さというのは時に恐ろしいものだ。アンジェリカは玲那斗の戸惑いに対して容赦することなくマイペースに話し掛ける。
「玲那斗はイベリスのこと、どう思っているの?」
「とても大切な人だ。」
「それは “お兄ちゃんの中のレナト” にとってでしょう?私が聞きたいのはそうじゃないんだなー。」
アンジェリカはそう言うと体を捩らせ、すがるように玲那斗にしなだれかかる。そして右手の人差し指で玲那斗の胸をつんと触れ、唇が触れそうなほどに顔を近付けて言う。
「私が聞きたいのは、今この世界に生きる貴方。玲那斗がどう思っているか、なんだよ?」
そう言って満面の笑みで微笑む。
先程よりも強い甘い匂いが周囲を包み込む中、玲那斗は意識を強く保って毅然と言う。
「彼だけじゃない。俺にとってもとても大切な人だ。」
「へぇー、具体的には?今の玲那斗にとってイベリスは恋人?奥さん?」
そう言われるとなかなか表現しづらく言葉に詰まる。イベリスは自分にとってどういう人物なのかと問われれば、永遠を誓った恋人ということになるのだろう。
ただ、それはアンジェリカの言う通り、正確には自身の中にいるレナトの話である。では一体、自分にとっては?
考えれば考えるほど、思考を巡らせれば巡らせるほど正常な判断を狂わせる甘美な香りが鼻孔の奥を刺激する。
彼女が少しでも動くたびに体が擦れて否が応でも柔らかく温かな感触が伝わってくる。
「アンジェリカ、俺をからかっているのか?」
これが今の玲那斗にできる最大限の反撃である。しかし、彼女はくすくすと笑いながら余裕の表情で言う。
「まっさかー。私はいつだって本気だよ?太平洋の島国で出会った時に言わなかったっけ?あれれ、玲那斗には言ってなかったっけ?忘れちゃった☆」
アンジェリカは微笑むとくるりと向きを変え、今度は玲那斗と同じ方向を向いて体全体でもたれかかるように座り直した。
「ふーん。愛、か。私にはよく分からない。愛されたっていう感覚を知らないから。それでも、多分こういうのが “愛” って言うんだろうなってものは分かるんだよ?」
愛を知らない?玲那斗はぼうっとする思考の中で疑問を感じた。
「私は物心ついた頃から義務や責務を果たす為だけに教育をされてきたから。きっとみんなが暮らしていた環境とは大きく違ったんだと思う。どうやって人に罪を告白させるのか、どうやって人に罰を与えるのか。私が教えられて知っているのはそういうことばかり。」
それを聞いた玲那斗はある考えが脳裏をかすめた。
彼女の出身であるインファンタの家系は確か公国の〈法と秩序〉を司る家系である。イベリス曰く、現代で言うところの警察の役割と司法の役割を担っていたという。
犯罪を犯したと疑われる人物を捕らえて罪の証明を行い、その人物に罰を与える。それが彼女の家系の役割だったのだ。
そんな中で彼女が教えられてきたのは…
「どう痛めつけたらどう反応するのか。恐怖を覚えさせるためにはどうするべきか。体を殴ったり、爪を剥いだり、目を抉ったりもした。植物から得た毒を針の先に塗ってちくちく刺したりとか。あとは、その人が大事に想っている人を目の前で傷つけて精神的に痛めつけたりもした。そして最後に罪を認めた人に罰を与えた。」
あまりに衝撃的な彼女の言葉に動悸を感じながら玲那斗は恐る恐る尋ねた。
「…罰って何なんだ?」
「んー?色々あるけど、辿り着く先は同じ。殺しちゃうこと。」
アンジェリカは手に持ったライオンの頭を優しく撫でながらこともなげに言い切った。
「罰だからゆっくり殺すんだー。体に尋ねている最中に動かなくなっちゃう人もいたし、お話を聞こうとして会いに行ったら自分から命を絶っている人もいたっけかなー。たくさんいたから覚えてないんだけどねー☆あははははは☆」そう言って彼女は無邪気に笑う。
玲那斗は悲痛な表情で言う。
「違う。それは間違ってる。」
その言葉に間髪入れずにアンジェリカは首を横に振りながら言った。「間違ってないんだなー、これが☆ みんなそう言うんだけどさー。あの時代、あの時の私にとっては間違いなく “それ” が正しかったんだよ?そうでないと、それだけの為に生きた私の “存在意義” は無くなってしまうから。義務を全うすれば認められる、責務を全うすれば褒められる。罪人を裁くことが私の全てだった。それとも、玲那斗は私の全てを否定するの?私達が手を汚すことで守られていた、きらきらした平和を享受し続けてきた貴方達が?私を?」
「それも違う。だけど…」
「だけど?」
玲那斗は手元のライオンを可愛がりながら楽しそうに話す彼女の姿を見て言葉を詰まらせた。
本人の口から聞いた過去の話があまりにも残酷で、これまで彼女に対して考えていた自分の思いというものが正しいのかどうなのかすら揺らぐ。
彼女にとっての真実の愛とは、両親から教えられた義務を忠実に実行し、罪人を裁くこと。つまり突き詰めていけば咎人を殺すこと。そうすれば褒めてもらえるからと、それだけが彼女にとって愛を得る為の手段だったに違いない。
人を殺して手に入るものなど愛であるはずがない。玲那斗は強く心で思いつつもそれを言葉に出すことが出来ない。
周囲を包む香りと彼女の言葉で思考がぐらつく中、ふと彼女がライオンを撫でる手を止めて言った。
「ねぇ?玲那斗。もし、もしも私がインファンタの家系ではない場所に生まれて、イベリスよりも早くレナトに出会えていたとしたら…何か変わっていたのかな?貴方はどう思う?」
そうであったなら違う道が選べたはずだ。彼女にとって違う未来がそこにあったはずだ。
しかし、玲那斗は何も答えられずに唇を噛む。
「いつも、イベリスやレナト達が楽しそうに遊んでいるのを見ているだけだった。私にはそういう道は選べなかったから。目の前に差し出されたものを受け入れるしか無くて、それ以外を手に取ることは許されない。だから今でもたまに考えるんだよねー。 “もしもあの時、違う選択が出来ていたなら” って。違う手が差し出されていたならって。考えたって仕方のないことなのに、ね。」
表情は見えないがアンジェリカの顔から笑顔が消えているのはなんとなく読み取ることは出来た。
そしておそらく今の言葉というのが彼女の本心であるということも。周囲の不幸を自らの快楽として弄ぶという彼女に抱いていたイメージが揺らぐ。
もしかすると彼女は…ただ他人の幸福というものを…
“愛情” というものに飢えている自分を正しく認識できていない。他者の幸せを踏みにじり、罪を犯した人間を裁くことで “正しい” 愛が得られると今でも信じている。それしか知らないから。
にも関わらず、そんな自分を認めてくれるものは千年に渡って誰一人存在しなかったはずだ。誰もこの子を認めなかったし愛そうとはしなかった。
愛や愛情というものがどういうもので、それによって家族同士や他人同士が互いにどのような接し方をするのかは形式的には知っているが、彼女自身の心の内では理解できていないのではないだろうか。いわばマニュアルに書かれていることを “知識として” 知っているに過ぎない。
多くの人々が思う愛と彼女の愛は明確に異なる。それも、絶望的なほどの乖離を持って。
そのことを自ら告白するように彼女は言う。
「さっき玲那斗が私に言ったように、みんな私が間違っているって言った。私にとってはそれが真実で、正義で、ただ一つの愛を得る方法だったのに。それを否定された私はどうしたら良い?私には選べなかった。過去に戻ることも出来ない。生まれた時に与えられた運命っていうものだったと受け入れるしかない。違う道が無かっただなんて言い訳なんだろうって。最終的にそうなることを選んだのは自分自身だもんねー。だからそういう道を歩いてきて私は私としてここにいる。〈立場によって考え方も正義も変わる〉。私にとっての真実と正義は私の知っている絶対の法だけ。っま、さっきのはマリアの受け売りなんだけどね。受け売りというより、盗み聞き?国境沿いの公園で話してたの。もう5年以上も前だけど、あの子も良いこと言うー!きゃはは☆」
再び笑い出しながら彼女は言った。
玲那斗が “マリア” という名前について何か思い出そうとした瞬間、アンジェリカは少し顔を後ろへ向け悪戯な笑みを浮かべながら言う。
「それよりそれよりも、ねぇ?玲那斗。さっきの質問のつ・づ・き。もし、遠い昔にレナトに先に出会ったのがイベリスではなくて私だったとしたら、貴方はどちらを選んでいたと思う?やっぱりイベリス?それとも、私?どっちが貴方のタイプ?」
とても半年前に自分を殺そうとした少女の言葉とは思えない。
っが、既に何も考えらないほどに思考能力を奪われた玲那斗は何も答えることが出来なかった。沈黙したままでいる様子をしばらく観察したアンジェリカは笑いながら言った。
「あはははは☆ 真面目さん!もしかして、堅物ぅ?真剣に考えちゃった?そこで迷うのはー、めっ!なんだぞ?イベリスを泣かせちゃうからねー。…いや、あの子は泣かないかー。私が殺されそうになるだけかもね。愛の為に。尊い犠牲じゃった、ぴえん。そうかー。あーでもでもぉ、ほんの少しでも真面目に考えてくれたなら…」その後は唐突に口ごもり、すっと前に向き直って聞き取れない程度の声で何かを呟いた。
その後しばらく互いに何も言わず、無言の時間が続いた。
沈黙を破るようにアンジェリカが言う。
「それでも、私にはやっぱり本当の “愛” っていうものが分からない。分からないというより実感できないのかもー。良く分からないから興味がある、的な?私としたことが、ついつい喋り過ぎちゃったかなー。でも、たまには良いと思うんだ。うん。特に、いつも誰かさんが腰巾着か金魚のシッ的にくっついている玲那斗と2人だけでお話する機会なんてそうそうあるものでもないしぃ?☆ せっかくだからぁ、もう少しこのままでいさせてほしいんだよね♡ イベリスもまだまだ帰って来ないだろうし。だめ?」
膝の上で少しばかり切なそうな声で言うアンジェリカに玲那斗は言う。
「分かった。もう少しだけ、な。」
彼女の異能の力なのか、それとも今の話を聞いたことによる別の要因なのか。もはや思考能力と呼べるもののほとんどを奪われたような状態の今となってはそう言うしかなかった。
「やったぁ♡」
アンジェリカは満面の笑みを浮かべた様子で言った。
どこまで本気でどこからが気まぐれなのか分からない。どこまでが真実でどこからが嘘なのかも。しかし、最初にも思ったことだがここで彼女の機嫌を損ねるべきではないだろう。
彼女から放たれる魅惑の甘い香りに誘われて、玲那斗はただその場の流れに身を任せて物思いに耽った。
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