第37節 -これまでと、これからと-
支部の中での混乱を経た2日後の4月26日、ジョシュア達マークתの一行は再び財団支部を訪れていた。財団当主、ラーニー・セルフェイスから直接支部で話をしたいとの申し出を受けてのことだ。
意識を失い深い眠りに就いていたラーニーとシャーロットについて、2人を見守っていたサミュエルの話によれば揃って翌日に目を覚まし、何事もなかったかのように回復を見せたという。心配された精神的な面に関する影響もほとんど見られないということであった。
ラーニーはすぐに代表職に復帰して強制調査が行われている最中での対応を務め、シャーロットは大事を取って現在も休養中らしい。
支部へ到着したマークתの一行はサミュエルの案内によって応接室へと通されていた。
現在はラーニーが部屋に到着するのを4人揃って待っている状況だ。
マークתのメンバーそれぞれがこれから話される内容について思い思いに考えを巡らせていた所、ラーニーが姿を現した。
「呼びつけておきながら遅れてしまい申し訳ありません。英国政府の役人たちは話が長くてかないません。」
その姿は事件が起きる前と変わらないとても爽やかなものだ。唯一違うとすれば、少しやつれている点である。おそらくは目覚めた直後からゆっくり休めていないのだろう。
急ぎ足で部屋に入ってきたラーニーは4人が座る向かい側のソファへ腰を下ろして言う。
「さて、長い前置きなどは必要ありませんね?これからお話するのは夢の薬品と呼ばれたCGP637-GG、通称グリーンゴッドに関することです。事前に要求のあった薬品そのものの譲渡については書類にサインをしておきましたので存分に持ち帰って頂いて構いません。それで、実は問題のグリーンゴッドを少量ながらこちらにお持ちしました。」
ラーニーはそう言うとカラフルな色付けがされた薬品が入った袋を机の上に置いた。
「これがグリーンゴッドですか?」ジョシュアが言う。
「はい。皆さんがお持ちになっている調査機器をこの場で使用して頂いて構いません。むしろ、その結果としてどういう答えが導かれるのか私は見てみたい。」
ラーニーの言葉を受け、ジョシュアはルーカスへ目配せをする。ルーカスは静かに頷くと自身のヘルメスを取り出して薬品の入った袋へと機器を接近させた。
ヘルメスから投射されるホログラムモニターには解析中を示す文字と背後で様々なデータベースへアクセスをしながら構造解析をする過程が表示されている。
そして10秒が経過した。しかし一同が見守る中、ヘルメスが返してきた答えは実に単純なメッセージであった。
〈No applicable data. Unanalyzable〉(該当データなし 分析不能)
「駄目です。この状況では解析はかけられません。近い構造式を持つ薬品は複数確認されましたが、肝心なところの構成がまったく異なっているようです。本当の意味で “未知の薬品”。いえ、 “未知の物質” といって過言ではないと思われます。」
ルーカスの言葉を聞いてラーニーは言う。
「そうですか。実は我々の持つ研究施設でも同様の結果が導き出されています。さらに言えば世界各国の研究機関での解析結果も同じようなものです。どこひとつとしてまともな検証を終えた機関はありません。未知の薬…いや、未知の毒。この世界に存在しないもの。そんな類の代物です。」
ラーニーが溜め息交じりに話す中、解析データの中である事実に気が付いたルーカスは表情を歪めながら言った。
「これは…純物質の構成と比率の組成式、そこから作られる構造式に限りなく近い一致が見られる “薬品” がひとつだけデータベース上に存在します。」
「どんなものだ?」ジョシュアが言う。
「それが…農薬カテゴリーではありません。分類は “危険ドラッグ”。推定される対象の名は『合成薬物 グレイ』です。」
ジョシュアと玲那斗、そしてイベリスの表情もみるみる強張っていく。
〈合成薬物 グレイ〉。それはおよそ1年前にミクロネシア連邦で猛威を振るっていた新型危険ドラッグの名称だ。
既存薬物では決して得られないほどの強烈な多幸感を得られる代わりに、急速に全身の神経を破壊していく未知の薬物。特に視神経に多大な悪影響を与え、後天性全色盲の状態へと陥らせる猛毒である。
「あの女の言っていたことはやはり真実だったのですね。」報告を聞いたラーニーは深い溜め息をつき、左手で頭を抱えながら言う。
「あの女?アンジェリカと名乗る少女のことでしょうか。」ジョシュアが言った。
「はい。皆さんもご存知かと思いますが、この薬品を財団に持ち込んだのはアンジェリカです。世界を新緑で満たすことのできる夢の薬品という触れ込みでしたが、昨秋に我々が薬品の持つ異常性に気付き、彼女を問い詰めた時にふと漏らしたのです。僕から口にするのも憚られる言葉ですが “人間に使った時はもっと面白かった” と。」
4人は言葉の意味を理解するのに少しの時間が必要だった。
人間に使った時?
「つまり、彼女はグリーンゴッドを人間に投与していた?いや、違う。そもそも逆なのか。」
「その通りです。グレイと呼ばれる薬品が南国の島で猛威を振るった件については自分も承知しています。昨年の秋に連邦大統領の拘束のニュースと共に大々的にメディアが報じましたからね。アンジェリカは言っていました。グリーンゴッドの元になっている薬があのグレイなのだと。それを聞いた当時の私は半信半疑でしたし、気に留めることもありませんでした。どうして麻薬や覚せい剤の類である薬が農業薬品になり得るのかと。でも事実は逆だったのです。」
ラーニーは顔を下に向け、口にはしたくないという様子で語る。
「危険薬物が農薬になったのではなく、元々農薬であるものを危険薬物として使用していた。要するに南国で行われていたことは “農薬を人間に直接投与する” ということだったのでしょう。そこで得られる強烈な多幸感というものはあくまで副次的作用に過ぎないものだと推測されます。」
「であれば、グレイをあの国に持ち込んでいたのもやはりアンジェリカの仕業だったというわけか。」
「そういうことになるでしょう。」ジョシュアの言葉にラーニーは同意した。
人間が元々持つ正常な細胞や神経をことごとく破壊するというグレイの効能は、確かに正常な土壌をもつ大地の正常な機能をことごとく破壊するという点においてはグリーンゴッドと同様である。
危険薬物ではなく、そもそも農薬であるものを人間に直接投与した結果を観察するなどと言うおぞましい行為をあの少女が行っていたという事実に4人は戦慄した。
「話が逸れてしまいましたね。アンジェリカの話については別の機会に皆さんに情報を提供させて頂きます。この場ではグリーンゴッドの件について、我々財団がどのような対応をしてきたのかをお伝えしましょう。」
全員が視線を下に落とし悲痛な表情を浮かべる中、ラーニーは前を向いて自身が伝えるべきことを言うことに集中していた。
「既にウォーレンがお伝えした通り、セルフェイス財団は秋の時点で薬品の異常性に気付いていました。そして当初はグリーンゴッドの使用をどの時点で停止すべきか考えていたのです。しかし、既に実行されつつある計画について、世界の流れの中でそれを停止することはなかなかに難しい問題となっていた。打つ手がないままにずるずるとこんなところまで来てしまったのです。僕がアンジェリカの甘言に乗るような間違いを最初に犯さなければこんなことにはならなかったのでしょうが、それは言っても仕方のないこと。」
「財団はそのことを英国政府に上申したのでしょうか?」ジョシュアが言う。
「いいえ、濁しました。 “薬品の持つ効能は報告に上げた通りだが、構造の解明が完了するまで世界的な使用は延期すべきである” とだけ。」
その言葉に疑問をもった玲那斗が言う。
「財団は使用停止を促していたのですか?今まで聞いてきた情報ではそのような話は。」
「聞かれなかったでしょうね。あとにも先にもたった一度だけ提案したに過ぎないのですから。それは促したであるとか勧告したというニュアンスとは程遠い。我々も危険だからということを政府に伝えたわけではありませんから。」
ラーニーはそう言うと一枚のメモリーカードをテーブルに置いた。
「これは先日イベリスさんが執務室で閲覧したデータのコピーです。皆さんに預けます。どう活用されるかは皆さん次第です。」
財団の立場を守る為に証拠となるデータを隠匿しようとした彼から差し出された思いも寄らぬ申し出に一同は内心驚いた。
全員を代表してジョシュアが言う。
「財団が事前に薬品の持つ効能に関する危険性を認識していたと世界に知れ渡れば大変なことになるというのが財団側の見解だったはず。どうしてこのような?」
「言ったはずです。どう活用されるかは皆さん次第だと。機構から全世界に対して情報を公開するのか、それとも別の措置を取るのか。我々はただ純粋に調査協力として資料の提示を行ったに過ぎません。結果として司法の場で裁かれようとも、世界的な場で断罪されようともその覚悟は出来ています。財団は全てを認めた上で今後の在り方を示さなければならない。」
そしてラーニーは視線をイベリスに移して続ける。
「それと、貴女には謝らなければなりません。イベリスさん、僕は貴女に大変な無礼を働いてしまった。許してほしいなどとは言いません。ただ、この場でこれまでの非礼を詫びさせてください。」
言葉を受け取ったイベリスは言う。
「個人としては気にしていません。それに私は私の意思に従って貴方の申し出を断っています。ただ、貴方には気付いてほしいことがあった。」
「 “どうして貴方は私の顔に見惚れて、貴方の元で献身的に輝き花咲く美しい彼女の方へ目を向けようとしないのか?” とおっしゃいましたね。神曲を引用したその言葉が指すのはつまりシャーロットのことだ。ですが、それなら心配には及びません。今はまだお伝えすることは出来ませんが、僕から彼女にはしっかり話をしようと思っています。森を見て木を見なかった僕と、木を見て森を見なかった彼女。兄妹揃って間抜けなものです。ただ、僕は気付きました。僕の目指す至高天における天上の薔薇が誰なのかということに。それこそがきっと僕にもたらされた “神の愛” なるものなのでしょう。」
ラーニーの言葉を聞いたイベリスはその意味をしっかりと理解して微笑んだ。ずっと彼を想い続けてきたシャーロットの心が報われるときはきっと近い。
「さて…簡潔ではありますが、僕から皆様にお伝え出来ることは以上です。そして聞きたいことも特にありません。我々が依頼した自然異常再生の件については答えを先日目の前で拝見しましたから。」
アルビジアの持つ異能について触れたラーニーに対してジョシュアが言う。「そのことについて我々からは聞いておきたい。セルフェイス氏、貴方は先日キャンベル氏と共に目の前で数々の不思議な光景を目にされたはずです。そのことについて我々に問いたいことがあるのでは?」
「いいえ、特に。心配なさらずとも口外するつもりもありません。それに、今後はそういった不思議なことが起きることもないでしょう。不思議なことは9日以上続かないと言います。貴方がた機構がこの地に訪れて間もなくその日数が過ぎ去ろうとしている。故に、これ以上不思議なことが身の回りで起きることもないと考えています。色々な側面から申し上げて心配無用です。」
ラーニーはジョシュアの目を見てしっかりと意見を述べた後、再びイベリスに目を向けて言う。
「イベリスさん、貴女の持つその力。それはきっと機構という場所で多くの人々を救う為に必要なものとなるでしょう。私の大切な人をあの小さな悪魔から守ってくれたように、今後も多くの人々を救うことを願います。」
彼の言葉を聞いたイベリスは頷きながら言った。
「はい。私の道が、そのような未来であることを私も願います。」
イベリスの答えを聞いたラーニーは微笑みを返す。そして最後にマークתの4人に向けて言った。
「生きている限り希望はあります。皆さんの道行きに多くの正義と幸があらんことを。」
こうして財団と機構の最後の会談は終わりを告げる。
全てを受け入れ、全てを認めたラーニーの表情は疲れでやつれているようには見えたが、出会った時よりもこの上ない解放感に満ち、かえってずっと落ち着いているように見えた。
* * *
マークתの一行がラーニーと会合をしている最中、財団支部の屋上には1人の少女の姿があった。
性懲りも無く、というのが正しいのだろうか。手すりを兼ねた柵の上に腰を下ろし、桃色ツインテールの髪を揺らしながら足をぶらぶらとさせ、遠くの景色を眺めている。
見渡す限りの曇天模様。今日に限ってはとても美しいとは言えない空模様を眺めながらも少女は満足そうな笑みを浮かべて手に持ったバニラアイスを嬉しそうに頬張る。
そんな彼女がその場にいることを知ってか知らずか、屋上に近付くもう1人の人物の姿があった。
男は屋上へと上り、手すりに座る少女の姿を視界に捉えると物怖じすることなくゆっくりと近付いて声を掛けた。
「 “まだ” この地にいらっしゃいましたか。あのような出来事があった以上、既にどこかへと移動されたのかとばかり。」
少しばかりの嫌味と皮肉が込められた言葉を聞きつつも、少女は笑顔で振り返りながら男性に言う。
「おぉサム~。良いところに登☆場!ねぇねぇ、ブランデーをちょうだい?バニラアイスにちょぉっとかけるととっても美味しいのー♡」
サミュエルは深い溜め息を吐きながら言う。
「残念ながら持ち合わせがございませぬ。」
「そっかー。ざぁんねん。」期待外れという表情を浮かべてアンジェリカは言う。
「このような場に持ち合わせている方が不自然かと存じます。何より、たとえ持ち合わせがあったとしても貴女様にそれを差し上げることはないでしょうな。」
サミュエルの物言いにアンジェリカはにこりと笑った。
「ラーニーとシャーロットのこと、怒ってるぅ?」
まるで悪びれる様子もなくそう言ったアンジェリカにサミュエルは冷静さを保ちながら言った。
「当然にございます。自身が仕えるべき主君の命が他でもない、貴女の手によって危険にさらされたのですから。」
「ふぅん?カルシウム取った方が良いよ?」そう言いながらアンジェリカは手すりの上に立つとくるりと向きを変えてサミュエルの方を向き、屋上へと降り立つ。
「しかし、それにも関わらずあの時に何も出来なかった自身のふがいなさにも怒りを感じていることも事実。」
「律儀ぃ~。それで?今ここで私に仕返しぃ☆をしちゃう?」ゆっくりとサミュエルに近付き、顔を覗き込むようにしてアンジェリカは言った。
「まさか。返り討ちに遭うだけでしょう。」
「それじゃぁどうしてここに来たの?何となくだけれど、私がここにいること分かって来たんでしょう?」
「はい。監視カメラが貴女様の姿を捉えておりましたから。」
「やっぱりー。もう一度聞くけど、どうして?」サミュエルへ顔と視線を向け、不思議そうな表情のままもう一度同じ質問を繰り返す。
「言葉を伝えに参りました。これよりこの地を去る貴女に贈る言葉にございます。」
「へぇ~、聞かせて聞かせて☆」
満面の笑みを浮かべて体を揺らし、併せて短いスカートをひらひらと揺らしながらアンジェリカは言う。
サミュエルは一呼吸ほど間を置き、アンジェリカを見据えて言った。
「“見よ、それは極めて良かった。” 神は最後に創造の冠として人を御造りになった。しかし、神は人を創造した時、“自らの能力をきっと過信していた” のでしょう。」
彼の言葉を聞いたアンジェリカは言う。
「あはははは☆ 皮肉ね?それとも忠告かしら。どちらにしても良き良き☆ お気遣い感謝!」
「わたくしめが伝えるべき言葉は以上です。貴女様が何を為されようとしているのかは分かりませぬが、いずれ然るべき報いを受ける時が来るでしょう。」
「まっさかー☆ それにね?それにね?これはー、過信ではなくて “余裕” っていうものなんだ、ぞ♡」可愛らしい笑顔をしながら甘ったるい声でアンジェリカはそう言うとくるりと後ろへ振り返る。
「それじゃ、私はそろそろ行くね☆」
そう言ったアンジェリカは紫色の煙が解けるように姿を消し始める。しかし、ゆっくりと姿を消しつつも最後の最後でサミュエルへこう言葉を付け加えるのだった。
「そうそう、貴方にも最後の言葉を。私ね、この財団の中で “貴方だけは” 嫌いではなかったわよ?うふふふふふ。あはははは☆」
高らかな笑い声を残してアンジェリカは完全にその場から姿を消した。
そうして屋上へ1人残ったサミュエルは呟く。
「悪魔に魅入られてしまうなどと。困ったものです。」
* * *
寄せては返す波の音が響く海岸沿い。曇天の中の波間はとても冷たく固そうなうねりを見せている。4月も終わりが近いというのに未だ気温も上がらず、リド=オン=シーの町には冷たい風が吹き抜ける。
財団支部での混乱を極めた一件以降、ジェイソンとアルビジアはどこにも出歩くことなく自宅でゆっくりと同じ時を過ごしていた。
それはまるで、これから訪れる出来事を互いが予感しているかのようでもある。
どちらかが何かを言うわけでもない。それは今までと変わることは無いが、共に過ごす時間を噛み締めるように、名残惜しさを感じているかのようだ。
そして今、アルビジアが淹れた紅茶を友としてテーブルを囲み2人は向き合って座る。
ジェイソンは先程自身が戸棚から持ってきたクッキーをテーブルの中央に置き、彼女が淹れてくれた紅茶に角砂糖を一つ溶かし丁寧に混ぜた後、一口ほど飲む。
いつもと同じ、とても優しい味わいが口の中に広がる。誰が淹れても同じだという人もいるかもしれないが、ジェイソンにとっては彼女の淹れた紅茶こそが世界最高の味わいだ。
温かさが身に染みるような感覚を覚えながら、ジェイソンはこの数日の間ずっと言おうと思いながらも言えずにいたことを彼女に言う決心がようやくついた。
手に持ったティーカップをゆっくりと下ろし、アルビジアをしっかりと見つめて話を切り出す。
「アルビジア、お前に話したいことがある。聞いてくれるかい?」
ジェイソンの言葉を聞いたアルビジアはその時が来たというように寂しそうな表情を浮かべつつも静かに頷いた。
「ありがとう。では端的に言おう。機構へ行きなさい。彼らと共に。」
アルビジアは手にティーカップを持ったまま無言で何か考え事をしているようだった。
「既にブライアン大尉を通じて話は通してある。彼らは、お前が頷きさえすれば機構へ歓迎すると言ってくれた。私が思うに、その力、その才覚はここで燻らせておいて良いものではない。その力があればお前はきっと多くの人々を救う手助けをすることが出来るだろう。先日の財団での出来事のように。ここで人生に目的を見失った老人と共に過ごし続けてはならない。」
これは決別の言葉である。10年という長い歳月を共に過ごした2人にとって、本来は簡単に答えを出せるようなものではない。
しかし、ジェイソンは敢えて “ここにいてはいけない” という強い言葉を通じてアルビジアへ機構へ行くように促した。
ジェイソンは知っているからだ。そうでも言わなければ彼女はここから離れようとしないことを。
先程から今なお無言を貫いているのが良い証拠だ。それは彼女がジェイソンの言葉を無視しているわけではない。彼女は返事をしないのではなく、言葉が出せないのだ。
おそらくは自身の心の中の想いと現実にとるべき選択との間で葛藤を繰り広げているに違いない。
「彼らが明日ここに来る。それまでに答えを決めなさい。私が話したいことはこれだけだ。」
ジェイソンはそう言ってティーカップの紅茶をまた一口ほど飲む。
目の前で物思いに耽る様子を見せていたアルビジアであったが、意を決したようにジェイソンへと視線を向けて言った。
「お爺様、私のことを忘れずにいて頂けますか?」
彼女の言葉を聞いたジェイソンはそれまでずっと心に秘め我慢してきた思いが堰を切ったように溢れ出すのを自覚した。
言葉では言い表すことの出来ない感情が一筋の雫となって瞳から零れ落ちる。
ジェイソンは椅子から立ち上がると、アルビジアの元へと歩み寄り両腕でしっかりと彼女を抱き締めながら言った。
「忘れるものか。忘れられるものか。お前は私にとって生きる希望だった。神様から与えられた生きがいだった。妻を失って以来、空虚だった私の人生に温かな火を灯してくれた存在だった。実の娘のように大切な存在だ。本当は失いたくない。離れたくない。しかし…しかし…」
そう言って涙を流すジェイソンをアルビジアは両腕で優しく抱き締め返して言う。
「大丈夫。いつでも会えます。その為にも、私はきっと機構へ行くべきなのでしょう?」
ジェイソンは彼女の言葉を聞いて何度も頷いた。
アルビジアは国籍を持たない身だ。当然、英国における戸籍も持っていない。そんな人物がこのままずっとこの地にいることは出来ない。遅かれ早かれ不法滞在によって国外強制退去となるだろう。今まで何事もなかったこと自体が奇跡なのだ。
だが、彼女が機構へ入構するとなれば話は別だ。国籍などが存在しない人物であっても、機構に在籍している人間は世界各国へ正規の手順を踏んでいつでも渡ることが出来る。いわば “世界特殊事象研究機構” という国籍が与えられるようなものである。
そう。アルビジアが機構へ入るということは、今後は “正規の手続きに沿って” 堂々といつでも英国への入国が可能となることを意味している。
アルビジアは数日前の夜、そのことをイベリスから聞いていた。つまり、彼女の言う『いつでも会える』という言葉はそれを踏まえてのものである。
自身の目の前で子供のように涙を流すジェイソンをしっかりと受け止めながらアルビジアは柔らかく微笑む。
その姿は、もはや1人の少女というには遠く、全てを受け入れ包み込む母のようであり、人徳を極めた聖母のようですらあった。
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