9
そしてそれからも二人はたまに喧嘩もしつつ互いを愛しながら毎日を過ごしていった。そんな日々が過ぎ今年一枚目のカレンダーが捲られてから少し経ったある日。
「だからいいってば。送っても変わらないから。――うん。じゃあね」
母親との電話を終えた夏希はソファの、優也の隣に腰を下ろした。
「お義母さん。何て?」
「お見合いの話。付き合ってる人がいるって言ってるのに。まずはって」
お見合い。その言葉はなぜか優也を素通りせず目の前で立ち止まった。何かを言いたげに自分を見るそれを優也もまた無視できずなぜか心がざわつく。お世辞にも気分がいいとは言えないその気持ちに飲まれそうになったが、その直前で優也は無理やりそれから顔を逸らした。
「――相手はどんな人?」
「適当に聞き流してたから覚えてない。まぁ誰でもいいけど。あたしにはあなたがいるし」
「……うん。そうだね」
だが寄り添う夏希へのその言葉は心ここにあらず。優也はどこか彼女の言葉を受け止め入れずにいた。その不安のようなスッキリしない気持ちの原因が何か分からぬまま一日また一日と時間は過ぎていく。
そんなある日、夏希は母親の為に一度だけそのお見合いに出ることになった。一度だけ会ってキッパリ断ると夏希は言い、優也はそれを快く了承した。そして彼女は数日実家へ帰省。
その間に優也は彼女の家に忘れ物をしたのに気が付きメッセージを飛ばし取り行ってもいいかを尋ねた。もちろんそれは二つ返事で許可され優也は合鍵を使い彼女の家へ。
ソファ前のテーブルに置いてあった物を手に取り帰ろうとしたが、ふとダイニングのテーブルにある本のような物を見つけ足が止める。開いてみるとそこにはお見合い相手の写真と彼の簡単なプロフィールが載っていた。
「へぇー。かっこいいな。――あの会社に勤めてるんだ。大企業じゃん。しかも結構いい役職。こういう人を将来有望って言うんだろうな……。将来か」
結婚。家庭。将来。子ども。ふと頭に浮かんできたその言葉たちは優也に自分とその写真の男とを天秤に乗せさせた。愛などという感情論とは一歩距離を取り静かに、だが確実にそこに居座る現実。夏希を愛しているかと問われれば何の躊躇も無く、もちろんと答え抱きしめるだろうがその現実に睨まれればその手は止まり一歩後ろに下がってしまう。
それでも愛しているのなら。それとも愛しているからこそ。どちらも手放せず、どちらも受け入れられない気持ちは混沌と化し優也の中をかき乱す。
そしてもどかしいようなイラつくような悲しいような訳の分からない状態のまま優也はそれを閉じ家を後にした。
それ以来、親子や夫婦・家族や幸せそうなカップルなどを見かける度に優也は不安に駆られるような複雑な気持ちに襲われた。心の中に現れ居座るそいつをどうにか外に吐き出したいが、どうすればいいか分からずもどかしさだけが残る。
そして夏希のことを想うとその気持ちはより強く、大きく存在感を出しその度に頭を抱え沼に溺れるような辛さに何度も溜息を零していた。
それから夏希は実家から戻ってきたが都合が合わず会うまで少し間が空く。その間、優也は一人自分の中に芽生えた不安のような感情に頭を抱えていた。
それから予定を合わせ二人は久しぶりに会った。仕事の後に色々食べ物を買い夏希の家でお酒を飲む。その日はゆったりと過ごそうということになったのだ。いつも通りお酒を片手に寄り添いながら色々な話をしていた。
そして少し酔いが回ってきた頃。膝に乗せたクッションを弄りながら優也はふとこんな質問をした。
「そういえばお見合いどうだった?」
「あぁあれね。まぁ普通かな」
「相手の人ってGg<ググ>に勤めてるんだよね?」
「そうそう。あれ? 話したっけ?」
「いや、忘れ物取りに来た時にテーブルにあったからそれを見た。すごいね。Ggって大企業じゃん」
「そうね」
それから夏希は少しそのお見合いで見た相手の事を話した。
「っていう感じで良い人だったよ。あなたがいなかったら多分付き合ってたかも」
夏希はいつものように少し意地悪するように言った。それがいつものように自分をおちょくってるだけだと分っていたがなぜだか優也は少しだけ引っかかってしまう。と同時にそんな些細なことを気にかけてしまう自分に嫌気が差した。だがそれは表に出さず飲み込んだ。
「なら彼より早く出会えて良かったのかも」
「そうね。でもあの人ならあたしより良い人がすぐ見つかると思うけど」
「君も十分すぎる程いい女性だと思うよ」
「ありがと」
優也はそのお礼に笑みを見せるがそれは表面的な笑みだった。そんないつもと少し様子の違う優也に気が付いたのか夏希は首を傾げる。
「どうしたの?」
「――いや。なんかさ……」
夏希から視線を逸らし持っていたグラスを見つめる優也は喉まで上がってきた言葉をどうするか考えながらグラスの中で揺れるお酒をじぃっと目だけで見ていた。言いたくはないが言葉にすればそのままこの感情ごと消えてしまいそうな気もする。矛盾のような気持ちに板挟みにされながら黙っていた。
「なに?」
痺れを切らした夏希がそう尋ねると答えの見えない迷いに優也は、お酒の力もあり勢いでその言葉を口にした。
「その人の方が……。夏希を幸せにできそうだなって思って」
「もぅ。何言ってるの?」
笑いながらそう言い軽く抱き付く夏希。その零れるような笑いの中にはもっと深刻なことを言われると思ってたいのか少し安堵が混じっているようだった。
だが優也から返事は無く顔上げた夏希が見たその寂し気な表情が彼女の思うような冗談でないことを語る。
「本気で言ってるの?」
グラスを見つめながら優也はゆっくり頷いた。
「どうしちゃったの? 何でそんな事言うの?」
「思っちゃったんだ。僕らはこのままいったらいつか結婚する。はず。分からないけど。そしたら一緒に住んでいつか子どもも生まれるかも」
「いいじゃない。それの何が問題なの?」
「それに問題はないよ。むしろ僕もそうなれば嬉しい。けど……」
「けどなに?」
優也はグラスから夏希へ視線を移し彼女の目を見た。
「けどそういう将来を思い浮かべた時に考えちゃうんだよ。僕は本当に君と生まれるかもしれない子どもを幸せにしてやれるのか? って」
「大丈夫よ。だって現に今も十分幸せだし」
「違うんだよ」
「何が?」
「僕はその自分自身からの質問に自信を持って答えられない。確かに君の事は大好きだし愛してる。だけどそれだけ。それしか僕には無い。金も夢も仕事も何もない。こんな奴が結婚した相手を、子どもを幸せに出来るはずがない。自分の事すらできてないのに……。もちろんこれまでずっと幸せだったけどそれは全部君からもらったものだ。僕は僕自身すら幸せに出来てないんだよ」
「……分かった」
呟くような小さな声でそう言った夏希は顔を横に振っていた。
「あたしの事が嫌いになったんでしょ? 飽きたんでしょ? だからそんなこと言って納得させようとしてるんでしょ!」
それは今まで幾度となくしてきた喧嘩と同じ怒鳴り声。ここから言い合いが始まる。
「違う」
はずだったが優也は落ち着いていて感情的になっていたのは夏希だけ。
「違わない! 別れたいならハッキリそう言えば?」
優也はグラスをテーブルに置くと夏希の方へ体ごと向けた。
その時、床に落ちていくクッション。
「そうじゃない。できることならこれから一緒に居たいよ。でも僕には……」
「あたしは幸せ。今も、これまでも」
「僕は今や昔のことじゃなくてこれからの、先のことを話してるんだ」
「変わらないわよ今までと何も変わらない」
「僕もそう思ってたいけど、それで十年後二十年後、君を泣かせたり辛い思いをさせたくない」
「もうあたしにはあなたが何を言ってるのか全く分からない」
「分かった。ハッキリ言う。その人は僕にないものを全部持ってる。それに話を聞いた感じ良い人そうだったし。――君は僕よりその人と一緒に居た方が将来絶対に幸せになれる。その人の方が君を幸せにしてくれるよ」
彼女からどんな怒鳴り声が返ってくるだろうか。そう思い、それを覚悟していた優也だったが、怒鳴り声も呆れた声すらも何も返ってこなかった。
ただ夏希は乱れ始めた呼吸を無理やり落ち着かせようとゆっくり息をし耐えるように下唇を噛んでいた。だが堪えきれなかったモノが優也を見続ける目に溜まり、そして頬を流れた一滴を先頭に次々と泪が零れ始める。
無言で泣く夏希に優也は罪悪感で満たされるが、考えが変わることは無かった。その罪悪感がそうさせたという訳ではなく彼女への純粋な気持ちが優也の手を肩へ導く。だがその手は彼女の手に弾かれた。
「触らないで」
その涙に震えながらも怒りが籠った声に優也はそのまま手を下ろした。
「彼はあなたが持ってないモノを全部持ってるからあたしを幸せにできるって言ったけど、あなたはもうあたしを愛してないの? もう好きじゃないの?」
「そんなことない」
「ならあるじゃない。彼よりあなたの方が持っている大事なモノが」
「でもそれだけだ」
「もうハッキリ言ったら? お金でしょ? 彼の方がお金を持ってるからそんなこと言ってるんでしょ?」
「まぁそれは大きいかも」
「確かにお金は大事よ。だけどそれより大事なこともあるでしょ」
「君の言う通り。だけど君と一緒に居れば彼の中にも愛は生まれる。きっと僕と同じかそれ以上に君を愛してくれる。そうなればもう僕が彼に勝るところはない」
「でも……」
「だけど! どれだけ僕と一緒にいたところで、僕には彼と同じようなモノは手に入れられない。それでも君を彼より幸せにできるって自信が、僕にはないんだ」
すると夏希は黙って立ち上がり歩いて寝室へ行ってしまった。
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