28

 結構な曲を歌い少し疲れた頃、二人は少し休憩しマイクを置いた。



「少しは元気になったか?」

「はい。おかげさまで」



 夏希の見せた笑顔は言葉以上にそれを物語っていた。



「それで? 何があったば?」

「え?」

「何であんな落ち込んでば? 言いたくなかったらいいけどよ」

「そういう訳じゃないですけど。そこまでは申し訳ないですよ」

「気にすんなや」



 笑みを浮かべながらそう言った蛇希は乗せるように夏希の肩を軽く叩いた。



「ライブで一緒にいたやつか? それともその指輪のやつか?」

「――ライブの人です」

「元カレな」

「はい」



 そして蛇希の言葉に甘え夏希は先程の事を話した。



「でも少し冷静になればすぐに分かるんですけど全部わざとなんですよね」

「悪く言ったのがな?」

「多分あたしに気持ちを教えた時からだと思います。あたしが嫌がるのを知ってて無理やりあんなことしたんだと思います。なのに変に色々考えたせいでどんどん追い込まれて最後は彼の思い通りになっちゃったんです」


「まぁ聞いた限り割と言ってることぐちゃぐちゃだったからな」

「嘘が下手なんですよね。でもそれが分からないぐらいどうしたらいいか訳分からなくなってて……。多分それは彼の言ってたことがあながち間違いってた訳じゃないからなのかも」

「まだ好きだば?」



 夏希はその質問に首を振った。



「分かんないです。でも忘れられない自分がいるんですよね」



 そして婚約指輪へと視線を落とす。



「でも彼のことも好きだし。もうどうしたらいいのか」

「だからそいつはわざと嫌われるようにしてお前がその指輪のやつを選びやすくしたってわけな」

「そうだと思います。だって無理やりあんなことする人じゃないし、あんなこと言う人じゃない。ほんとならあたしが止めてって言った時に、いやそもそも何も言わないでそのまま別れてると思います」



 すると夏希は両手で覆った顔を俯かせた。



「もうあたしどうしたらいいか分かんないんです。どっちを選べばいいのか」



 蛇希はそんな彼女を見てすぐ隣まで近づく。


「あの時ライブでも言ったけど俺は本当に大事なのは心に従うことだと思うばーよな。ちょっと見てみ」



 その声に夏希は顔を上げた。蛇希はそんな夏希の指輪をしている方の手を取り彼女の目の前まで上げていく。



「いいか? これが絶対正しいとは言わんけど、過去も未来も全部忘れて」



 蛇希は伸ばした手で夏希の指輪を隠した。



「リラックスして自分の本能みたいなそういう気持ちだけに目を向ける」



 言葉に従いできるだけ何も考えないようにしながら息を吸って吐く。



「いいか? 今目の前にその二人がいるとするだろ。で、二人同時にお前に向かってこう言うわけよ。『好きです』ってな。そして手を差し出す。お前はどっちの手を取る?」



 すると目の前には並んで手を差し出す二人の姿が見えた。



「何も考えるな。二人がどういう奴かはもう分かってると思うから後は心が動かすのに任せて、何となくでもいい手が伸びる方へ……」



 蛇希の声は途中で消え夏希は自然と動き出した手を止めることなく伸ばし始めた。指輪の見えなくなった手はゆっくりだが一直線でその人の方へ伸びていく。

 そしてその人の手を掴んだ。



「そういうことやんに」

「でも……」

「申し訳ないってか?」

「はい。やっぱり……」


「考えてみそれを理由にそいつと一緒になって十年後とか二十年後もっと先かもしれん。子ども出来て楽しい家庭を築いたある日。ふと考えるかもしれんぜ。あの時、あの人を選んでたら今どうしてたかってよ。もしかしたら辛い気持ちになるかもしれんし後悔するかもしれん。まぁ意外とあっさり忘れ去る可能性もないとは言えんけどよ。でも今のお前はコッチがいいのに、過去を見てこっちを選んで未来で後悔とか嫌だろ。――まぁでも結局俺らは人間だからよ。未来は見えんし間違いは犯すし落ちる時は落ちる。なら今だけでも楽しみたいやんに? それを一番教えてくれんのは、今の楽しいを教えてくれんのは、俺はココだと思うぜ」



 そう言いながら自分の胸を叩く蛇希。



「だから俺は最後には結局こいつに頼ってる。まぁでもお前の人生ど。全部お前の選択次第。お前が好きな方向に進め。それが間違った道でも進み続ければいずれ悪くないとこに辿り着く。少なくとも俺はそう思って生きてるけどな」



 夏希は自分の指に填まる指輪に視線を落とすとそれを弄り始めた。

 そして思い出し始めた。これまでのことを。あの日たまたま入ったバーでたまたま隣の人が自分の好きな蛇希のMVを見ていた。いつの間にかそれを覗き込んでいて。



 そこから優也のとの日々が始まった。数回しか会ってないのに気が付けば彼に惹かれてたことを、彼の想いを伝えられた時のことを、彼に触れる度にその想いが増していったあの感覚を。



 だが終わりは突然訪れ、積もった想いだけがぽつりと残された。悲しみの海に沈みながら目の前から消えた優也の幻影に手を伸ばした日々。



 そんな日々から救い上げたのが彰人。暗く冷たい海に伸びてきた温かな手は夏希を引き上げ優しく抱きしめた。それは徐々に夏希の心を温め彼女を癒した。夏希が彰人の目を見つめるようになってからは優也を忘れる程に楽しい日々が彼女を包み込む。



 だが忘れ物というのは求めるのを止めた時にふらっと現れるもの。あの日、バーの前で偶然再会した優也。彼の姿を見た時、どこか嬉しかったのを今でも覚えていた。



 だがすぐに彰人のことを思い出しその感情は端に追いやられる。

 しかし二人でいると、優也の笑みや横顔を見てしまうと、一緒に蛇希の歌声を聴いてしまうと、あの頃を思い出してまった。幸せが詰まったあの日々を。



 それは夏希の心を揺らし始める。まるで完璧に釣り合ったシーソーの真ん中に立っているような気分。両端にそれぞれ優也と彰人が立っていて自分がどちらかに想いを傾ければ彼女を引き寄せるようにそちら側が傾く。


 だがそうなれば反対側は……。右に左に。左に右に。ふらふらと揺れ動く心は次第に渦を巻き始め夏希を混乱させた。辺りは暗闇に包まれ思わず頭を抱えしゃがみ込む夏希。



 すると聞き覚えのあるメロディーたちが聴こえ始めた。それは優也と出会う以前から出会った後もそして彰人との日々の中でもいつでも夏希の傍に居た数々の曲。一つ一つ違う曲だがそれを歌っているのは全て蛇希。



 そして顔を上げ立ち上がった夏希はその曲達に導かれるように歩き始めた。暗闇の中を愛のままに歩き続けその人の前で立ち止まった。

 顔を上げた夏希は隣を向いて蛇希を見る。その表情は最初とは違い決断した者の顔だった。


「本当にありがとうございます」

「人生なんて結局歩き続けないとどこにも辿り着けんからよ。立ち止まったところで過去にも戻れず未来にも進めん。だから歩くことにビビんな。その先で何が待ち構えてても、俺もお前も」

「順調。ですよね」



 蛇希は頷きの代わりに笑みを浮かべて見せた。



「俺はいつでも耳元にいるからよ。また会いたい時に会おうや」

「はい。蛇希さんに出会えて本当に良かったです。実際にも音楽でも」



 少し目を潤ませる夏希に蛇希は笑顔を浮かべたまま両手を広げた。

 それに夏希も目を潤ませたまま笑みを浮かべ甘えた。憧れの彼に抱きしめられながら夏希は再度感謝の気持ちを伝える。



「何回言っても足りませんが、ありがとうございます」

「これからも色々あると思うけど死なない程度に頑張れよ」

「はい」



 そして勇気と元気を貰った夏希は蛇希と離れた。



「じゃもう行け。そういうのはすぐ終わらせた方がいいからよ」



 その言葉に一度頷いた夏希はカラオケ代を払おうと財布を取り出した。



「要らん要らん。そんなの」

「でも……」

「ここで払わせたらダサいだろ。俺がかっこつける為にも、もう行け」

「はい。行ってきます。ありがとうございました」



 夏希は財布を仕舞い最初より良くなった表情でカラオケボックスを出ていった。

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