27
「離してよ」
「君が選ぶまで離さない」
「あたしは彼と結婚する。これでいい?」
「ダメ。ちゃんと決めてよ」
嫌がっている夏希をここまで強引に引き留め、特に今の彼女が答えづらい質問の答えを強引に聞こうとするその行動は彼女からすれば優也らしくないものだった。
しかも自分の気持ちをハッキリと口にして更に答えづらい状況にした上での行動など。
「それともこう言って欲しい? 迷ってる時点で君はまだ僕のことが好きだから僕を選べって」
「そう言う訳じゃ……」
「選んでよ。僕の事。僕はまだ君のこと愛してるし、君もそうならまたやり直せる。愛してるんだ」
「止めてよ」
「なんで? まだ僕のことが好きなんでしょ? 僕もまだ愛してるし。ほら、また二人で遊びに行こうよ。それか君の家で映画観たり、季節が来たら桜とか見に行きたいよね。あっ、その時は弁当作ってよ。君の料理美味しいからさまた食べたいな。あとは蛇希のライブはもちろん行くでしょ。あの僕達が初めて会ったバーにもまた行こうよ」
わざと惑わすように想い出を持ち出し楽しそうにこれからのことを語る優也。その言葉の一つ一つが夏希の中の優也に対する気持ちを刺激した。
だが同時に彰人への気持ちも自己主張するようにその存在感を大きくする。その両側から迫る二つの気持ちに夏希は押し潰されてしまいそうになっていた。
「お願いだからもう……止めて」
夏希は堪えきれなくなった泪を流しながら乞うように言った。なぜ自分が苦しむと分かってるようなことをするのか全く分からなかったが、それを考える余裕がない程には一杯一杯だった。
優也との関係が急に終わりそのことで悲しんでいた自分をここまで支えてくれた彰人を裏切ることも出来ず、目の前の優也をまだ切り捨てることもできない。それ程に両者とも好きでかけがえのない存在だった。
だがどちらかを選ばないといけないのもまた事実。それが夏希を苦しめていた。
「――そんなに苦しいならもういいじゃん。アイツのことなんて忘れてさ。俺と一緒にいようよ」
「そう簡単にできるわけないじゃん。だって彼はあたしをここまで支えてくれたんだから。全部分かった上でそれでも一緒にいてくれた」
「でも代わりでしょ?」
「え?」
それは優也の口から出て来ることすら想像できないような言葉だった。
「俺を忘れる為にソイツと一緒に居たんでしょ? ならもういいじゃん。僕は君の元に戻るし」
「何言ってるの?」
彼の口から出ている言葉は自分にも理解出来る言語のはずだが、なぜか意味が分からない。混乱したように言葉は分かるが意味が分からなかった。
「何って。僕がいるからもう代わりのソイツは要らないでしょって言葉通りのこと言ってんだけど?」
「彼は代わりなんかじゃない!」
「じゃあ何をそんなに迷ってるの? 僕か彼かどっちの方が好きかって簡単なことじゃん」
すると優也は何かに納得したような表情を浮かべ何度か頷き出す。
「――あぁ。やっぱお金でしょ?」
「え?」
もう目の前の人間が本当に優也かどうか分からなくなる程に今の彼が夏希には理解できなかった。言動・行動の全てがさっきまで夜空を眺めながら話をしていた優也とは別人。まるで二重人格のもう片方が出てきたかのように。
「君はあの時お金よりも大事なことがあるって言ってたけど、実際アイツの元で良い物食べたり高い物プレゼントされたりしてる内にその環境を手放すのが惜しくなったんじゃない? まぁアイツにはお金ぐらいしかないしそこで悩ん――」
――パチンッ!
優也の言葉を遮り先程よりも泪を流しながら夏希は彼の頬を力強く叩いた。その勢いで優也の顔は横を向く。
「あたしの好きな人をそんな風に言わないで。――ねぇ、急にどうしちゃったの? あたしの知ってるあなたはそんなこと言う人じゃないのに……」
「君に僕の何が分かるの? ほんの数ヶ月一緒に居ただけじゃん」
「でも愛し合ってた」
「それは君だけだよ。別に僕はそこまでじゃなかった。ただの遊び。君なんて愛してたわけないじゃん」
「……もういい」
そう呟くように言うと優也の手を振り払う。先程とは違い優也は簡単に手を離し彼女の手を解放した。
「そういうことだよ。結局、僕にとって君はただの体目当ての都合いい女だったってこと」
夏希はその言葉に何か返事をする代わりに優也の胸を思いっきり手で一突き。優也は片足を半歩後ろに下げたがすぐに戻した。
「アイツのことに対してはビンタだったのに自分のことに対してはこれだけなんだ」
更に煽るような言葉に夏希は無言のまま同じように頬を叩いた。
「あたしは彰人と結婚する。これで満足?」
それだけを言い残して夏希は優也の前から立ち去った。彼と彼のポケットに入ったとうに冷め切ったココアを残して。
泪は拭き切ったが依然と気分は沈み切ったままで夏希は何も考えず街を歩いていた。気持ちと同じように目線は下げて。
「あれ? どうしたのおねーさん。もしかして彼氏にでもフラれちゃった? 何なら俺が話聞くよ?」
すると一人のチャラチャラした男はポツリポツリと歩く夏希に近づくと彼女の世界においては場違いな明るさの声でナンパしてきた。
「結構です」
「そーいわないでさ。ちょっと飲んだら気分もよくなるって。俺いい店知ってっから。そこいこーよ」
そう言って男は夏希に手を伸ばした。
だがその手は他所から伸びてきた他の手に軽いが雑に掴まれそのまま男の方へ戻される。
「はい。残念。これ見えんば? 指輪ど?」
後ろから現れたその知ってる声はそう言うと男の手を掴んだよりに丁寧で優しく夏希の左手を掴み指輪を見せた。
「なんだ。見落としてた。別にそう言うつもりじゃなかったから」
「わーったから」
夏希の手を最後まで優しく下ろしたその人は男へ払うように手を動かし、男は潔くどこかへ行った。
そして知っていたがその声が本当にその人物の声かを確かめるために夏希は顔を上げる。半信半疑どころかほとんど疑っていた彼女の前に立っていたのは、
「蛇希……さん?」
「ん? あぁ、あれだよな。あのバレンタインのライブ来てた子」
確かに観客の少ないライブだったがまさか覚えているとは予想すらしておらず少し焦る夏希。
「あっ、はい」
「だーるよな。最後肩組んだ」
「はい。で、でも覚えてもらえてるなんて。その。嬉しいです」
すると蛇希はあれ? と言いた気な表情を浮かべた。
「聞いてんば?一緒にいたやつから」
「何をですか?」
「俺があのライブの最後ら辺に話した休憩の時に話したやつってお前と一緒にいたやつど。そういえば名前聞き忘れたけど」
「いえ、初めて聞きました」
「マジな。言わん方が良かったかな? まぁいいか」
蛇希は自問自答で答えを出すと夏希のまだ少し俯き気味な顔を覗いた。
「大丈夫か? なんかあったば?」
「……まぁ。はい。一応……」
先程の事を思い出し夏希の顔は更に俯く。
「カラオケ行くか?」
「えっ?」
唐突なその誘いに夏希はしっかり聞き取ったにもかかわらず知らない言語で話されたような感覚に一瞬陥る。それ程に衝撃的で予想だにしない誘いだった。
「何があったかは知らんけど、このままじゃあなってのも後味悪いからよ。まぁ歌ぐらいは歌えるぜ。それで元気になるかは分からんけどよ」
「歌ぐらいって。蛇希さんの歌はお金を払ってでも聞きたいぐらいすごいものじゃないですか」
「まぁこれで飯食ってるからな。それは否定しないわ」
そう言って蛇希は笑った。それに釣られて夏希も少し笑みを浮かべる。
「どうするか? 別に飲みにいってもいいよ。まぁそのまま帰ってもいいし」
どれもファンの夏希にとっては夢のようで大金を払ってでもしてみたいことだったがやっぱりその中なら選ぶのは一つ。
「それじゃあ……カラオケでお願いします」
「よしっ! じゃ行くか」
そして蛇希と並んで歩き近くのカラオケボックスへと入った。あの蛇希が自分の隣に座ってる。
それだけでも信じがたいことだったがカラオケボックスでマイクを握っているなど自分でさえ信じられなかった。
「じゃ適当に歌うか。なんかリクエストあるか? 俺の曲じゃなくてもいいけど。その場合、俺が知ってたらだけどよ」
蛇希の曲以外選択肢はあるのかと思いつつもその中で何がいいか悩んだ。
「えーっと。それじゃあsheep saturdayお願いしていいですか?」
「おけ。えーっと」
曲を入れると蛇希は曲を入れる機械を夏希の前に置いた。
「好きなの入れていいよ」
流れ始めた曲を背に夏希にそう言うと軽く声を出す。
「そう言えば名前なんね? 聞いてんかったけど」
「夏希です。小南夏希」
「じゃ今日は折角だから夏希の為に歌うからよ。楽しめな」
そんなことを言われテンションの上がらないファンなどいるはずもなく夏希も拍手をして喜んだ。
そして夏希の拍手を貰いながら蛇希は歌い始める。音源やライブとも少し違う特別な感じ。こんなにも近い距離で自分を見ながら歌ってくれている。それが他にはない特別感を出していることは間違いなく、夏希はそれを目を輝かせながら楽しんだ。子どものように純粋な憧れと大人の深い尊敬を含んだ眼差しは真っすぐ蛇希を見つめる。
蛇希は次々と歌っていき四曲目に客演の曲が流れ始めた。
「一緒歌おうぜ」
蛇希は夏希にマイクを渡す。それを戸惑いながらも受け取った。
「俺のバースは俺が歌うから。最初お前からど」
まだ心の準備は出来ていなかったが曲は待ってくれず夏希は急かされるように歌い始める。
それから一緒に歌ったり蛇希の歌を聞いたりと最高の二文字には収まりきらないほどの時間を過ごした。
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