29
カラオケボックスを出た夏希はタクシーを拾い彼の元へ。インターホンを押し出て来るのを少しだけ待つ。鍵が開く音がするとドアノブが下がりそしてドアが開いた。
「こんな遅くにごめんね」
「いや、全然大丈夫。それにきみならいつでも歓迎だよ」
開いたドアから姿を現したのは彰人。
「それでどうしたの?」
「あの、実は……」
彼を前にし改めて出てきた躊躇いが夏希の言葉を詰まらせる。
そんな夏希を彰人はいつものように見ていた。
「もし良かったら中に入る?」
「あっ、うん。ありがとう」
ここで言ってしまおうと思ってたが彼の言葉に流され中へ。椅子に座ると少ししてから彰人はお茶の入ったコップを彼女の前に置き向かいに座った。
「それで。どうしたの?」
「実は……。その前に一口もらうね」
特に喉は乾いてなかったが出来ることなら言いたくないという気持ちが少しでも言葉を送らせようとコップを手に取らせた。もはや味も分からぬお茶をただの動作として飲み込みコップを置く。
そして軽く深呼吸をした。
「実は……これのことなんだけど」
夏希はそう言うと指輪を薬指から外して彰人が見えるように持った。
「決断出来たんだ」
その表情は既に笑みが浮かんでおり彼女からの希望の言葉を待っているようだった。
だがその笑顔が夏希にとっては辛く彼の希望に満ちた顔を見る程、罪悪感が沸き上がって来る。
「うん」
このまま彼の目を見ていたら言えない。それどころか罪悪感に圧し負けて違うことを言ってしまうかもしれない。
そう思った夏希は目を閉じた。
「――ごめんなさい」
その言葉の後、二人の間には沈黙が流れた。今すぐにでも逃げ出したい程に辛い沈黙。
夏希はその沈黙の中ゆっくりと目を開けた。正面に座る彰人の顔には先程までの明るい笑みはもう無くそこにあったのは感情が停止したような表情。
「ほんとに申しわ――」
沈黙に耐えかねた夏希は彼に対して謝ろうとしたが彰人は手でそれを止めた。その後、若干ながら険しくなった表情を浮かべたまま否定するように首を横に振った。
そして溜息をひとつ。
「正直に言って。そんな気はしてたよ、きみがあの日、あの場所で快く返事をくれなかった時から」
「確かにすぐに返事は出来なかったけど。けどすごく嬉しかったし、ほとんど心は決まってた。今更信じてもらえるかは分からないけど、あたしはほんとにあなたのことが好きだったし愛してた」
「うん。それは信じるよ」
彰人は優しく何度か頷きながら答えた。
「だけど、もう出てってくれ」
「ほんとにこんなつもりで付き合った訳じゃない。でも、どうしても彼が忘れられなくて……」
「分かったからもう出てってくれ。今は一人にしてくれ。俺はきみを怒鳴りつけたりしたくないんだ」
内側の感情を抑えつけながら今までと変わらぬ落ち着いた声を演じているのだろう。その声は少し震えていた。
それが分かったからこそ夏希は指輪を置き立ち上がった。
「ほんとにごめんなさい」
それだけを言い残して彰人の部屋を出ていった。分かっていたことだが彰人を裏切ったようで辛く気が付けばエレベーターの中で泣いていた。
自分のことだが自分にはどうすることもできない感情。愛は自分の事でありながらも、時に自分ですら理解出来ない行動をしてしまう。それは仕方がないと言えばそうだが今の夏希にとっては自分勝手に人を傷つけたようでとても辛かった。
それが自分を支え好きだった人なら尚更だろう。心の中で何度も謝りながらタクシーに乗り込み家へ帰った。
だがドアの前で鍵を開けようとした手を止めると部屋には入らず再度歩き始めた。
そして再びタクシーに乗った夏希は彰人のでも自分のでもなくどちらよりボロいドアの前で足を止めた。インターホンを押すとまだ泪の足跡が残る鼻をすすり待つ。少し時間がかかったがドアが開くと、同時に夏希は一歩中へ入った。
そして優也が何か言う前に彼に抱き付く。言葉より先の行動に優也はドアを開けたまま戸惑った様子だった。だがとりあえずドアを閉めて自分の胸の中ですすり泣く夏希に視線を下げる。
「えーっと。どうしたの?」
だが夏希は少しだけ泣くのを止められず泣き続け、落ち着き始めたところで腕は回したまま優也を見上げた。
「やっぱりあたし……。優也が好き」
その言葉に優也は口を半開きにしたまま複雑な表情を浮かべた。
「――でも君には、彼がいるでしょ?」
当然とも言える返しに夏希はゆっくり首を振る。
「え? 何でそんなこと!?」
「だって……。あたしはやっぱり優也が好きだから。結局あたしには優也しかいなかった」
「でも……。でも僕はあんなにひどいこと言ったんだよ? 忘れた?」
「あたしの為でしょ? 分かるよ。だって嘘下手だったもん」
「それに、僕は君を捨てたんだ」
「でもまだ好きでいてくれてるでしょ? それにあれはあたしを想った結果だったわけだし」
だが優也は後悔するような表情を浮かべながら首を振る。
「確かに君を幸せにする自信が無かったから別れたけど。でも、あれは自分の為なんだ。もしあのまま君と続いて結婚した時に君を辛い思いにさせるかもしれない。その時、僕は後悔したくなかった。自分の所為で辛い思いをする君を見たくなかった。だからあんなことしたんだ。自分の為に。自分が辛い思いをしないように」
「結婚したらそれを一緒に乗り越えるのが夫婦だよ。あたしは優也となら辛いことがあっても乗り越えられると思うし、絶対に一緒になったことを後悔はしない」
「――でも、ほんとに良かったの? 今まで君を支えてきた訳だし、それにプロポーズも」
本当に良かったのか。そう問われれば少し悩んでしまうところもあるが、
「それでもあたしは優也が好き。彼には本当に申し訳ないけど……。それでも、どうしようもなく何年経っても忘れらないぐらい優也が好きなの。――あなたは?」
その問いかけに優也は夏希を見つめていた目を閉じ眉間に皺をよせ葛藤するように下唇を噛みしめる。
そして少しして目を開けるのと同時にそれらの表情を止め、全てから解放されたように穏やかな笑みを浮かべた。
「僕も君が大好きだよ。ううん。どうしようもない程に愛してる」
そう言うと優也は夏希を今までの分と言わんばかりに強く抱きしめた。愛しの相手の体を自分に押し付けるように強く、これがあなたへの愛情の強さだと言わんばかりに強く抱きしめ合った。離れていた分も取り戻すようにしばらくの間抱き合った二人は互いに腕を回したまま離れ、次は導かれるようにキスを交わす。唇の感触、キスの味、言葉以上に愛を伝え感じる。
懐かしいキスに二人は目が合うと思わず笑ってしまった。
「中に入ってもいい?」
「もちろん」
数年ぶりに入った優也の部屋は何の変わりも無くあの頃のまま。
「相変わらず狭いわね」
「君の部屋と比べられたらそりゃね。でももう引っ越そうと思てるんだ」
「どこに?」
「まだ決めてないけど」
「それじゃあ……」
夏希は優也の前まで行くと彼の首に手を回した。
「あたしの家に来る?」
「あー。それって同棲ってこと?」
「そう。それともそのまま結婚する?」
「それってプロポーズだよね?」
「まぁそうなるわね。もしかして自分からしたかった?」
「まぁ、憧れはあったかな」
「なら今のはなし。どうぞ」
少し雑だが夏希はさっきの言葉を取り消し優也へどうぞと手を向けた。
「え? そんな急に言われても指輪も無いし……。あっ、ちょっと待って」
すると優也は何かを思い出しように夏希から少し離れた。そして服の中から首にさげていたネックレスを出す。
「それって……」
優也が出したそれは指輪のネックレス。
「そう。君から貰った指輪。未練たらしくて女々しいかなって思ったけどなんかいつもつけちゃって。普段アクセサリーするタイプじゃないから他の指輪も持ってないし今はこれで」
そう言いながらネックレスチェーンを外した優也は指輪を持ち片膝をついた。
「全然ロマンチックじゃないけど、この想いは本物だから。安心してほしい。だから僕と、結婚してくれませんか?」
何年経っただろうか。一度離れ、それでも離れ切れなかった二人はもう一度出会った。何度切ろうとしても決して断つことのできなかった赤い糸。それが今、固く結び付き綺麗なハートを描こうとしていた。どれだけ遠くに行っても忘れることのできなかった、諦めることのできなかった人からの待ちに待った言葉。
その言葉への返事は当然ながら決まっていた。
「はい」
嬉しさに先行して流れ始めた泪に少し震えながら夏希は返事をした。
そして優也はその指輪を夏希の指に付けるがサイズは合わずぶかぶか。だがそれでもその指輪を泪で滲む目で見ると立ち上がった優也に抱き付き一足先に誓いのキスを交わした。それは長い、今までの分を取り戻すように長いキスだった。言葉は無しで愛を伝え合った二人だったが最後はそれでも名残惜しそうにしながら離れる。
「ここまで来るのに随分と時間がかかっちゃったね」
「うん。それもこれも全部僕のせ――」
すると夏希は指ではなく口で優也の言葉を止めた。今度は短く一瞬だった口づけ。
「そんなことない。やっぱりこれからのあたし達に必要なのはもっと互いを信頼して正直に話すことだよ」
「うん。今ならちゃんと出来る気がする。――とりあえず今の正直な気持ちは……。愛してよ、夏希」
「あたしも。愛してる、優也」
溢れ出して止まらない愛のほんの雫分を口にした二人はその残りを補うように四度目のキスを、熱く愛に満ちたキスを交わした。
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