3章:小南 夏希

16

「――ごめん」



 絞り出した声でそう告げた優也は横を通り歩き出した。

 その遠のいていく足音を背に夏希は崩れるように座り込む。顔を俯かせ訳が分からない程に溢れ出す悲しみに咽び泣いた。


 それからどれぐらい泣いたのかも分からなくなるぐらいにひたすら溢れ出る泪のまま泣き続けた夏希。段々と声も抑えられなくなり部屋中へ響き渡る声で慟哭した。その涙顔は人に見せられない程にぐちゃぐちゃ。だがそれでも一向に流し切ることのできない気持ちは未だ心から溢れ返っていた。


 そして気持ちよりも先に泪と声が枯れるとそのまま横になり壁を見つめる。泣いて心の内に溜まった全てを流したかったが、それには体の水分だけでは足りないらしく、今はただただ心を締め付けるような悲痛に耐えるしかなかった。悲しみに絞められる心と共にまるで底なし沼に沈んでいくような気分のままどうすることもできず、じっとしていた。


 そんな夏希へ救いの手を伸ばすように睡魔は現れ悲しみも苦しみもない眠りの世界へ連れ出す。

 翌日、床で目を覚ました夏希は憂鬱ととてつもない無気力に襲われていた。だが優也の事を思い出せば悲感は平然とした顔でやってくる。



「なんで……」



 そんな最悪の気分で朝を迎えた夏希は無理やり体を起こしテーブルにあるスマホを手に取ると有休を使いその日は会社を休んだ。


 連絡を済ませソファにスマホを放り投げると自分も倒れるようにソファに座る。体育座りで顔を埋め、また眠れないかと目を閉じた。だがこういう時に限って睡魔はそっぽを向き、無気力に体を抱かれながらこの最低な気分に耐えるしかなかった。


 気が付けば目からは溜まった泪の残りカスが流れ始める。だがそんな泪では心を洗い流すこともできずただ作業のように泣くだけだった。

 そんな状態のままでも時間は好き勝手に過ぎていきあっという間に午前中が終わりを告げる。


 しかしこんな時でも空腹はやってきて喉は乾き始めた。それはテコでも動かないほど無気力に陥った夏希を唯一動かすことのできるモノであり数時間ずっとそこに居た彼女は渋々と立ち上がる。


 そしてキッチンへ向かうと半ば無理やり水とパンを胃に押し込んだ。

 それから夏希はベッドに寝転がり夜を迎えた。何もしていないのにも関わらずまた空き始めるお腹。そんな空腹ごと忘れようと夏希はソファに戻りスマホを手に取るとイヤホンを付け蛇希を流した。耳から流れる蛇希を聴きながらソファへ横になると片腕を顔に乗せもう片方の手をスマホと共にお腹へ乗せる。


 声、歌詞、ビート、メロディー。視界すらシャットダウンし全てをそれに集中させる。両耳から流れ込むゆったりとしたビートとそれに乗る蛇希の心地よい歌声。それは耳から浸透していき徐々に体全体へと広がりながら心にも沁みていった。こういう時はやけに悲し気な曲が身に沁みる。

 夏希はしばらくその状態で蛇希の音楽に浸かり一時の間、全てを忘れた。

 だがずっとそうしている訳にもいかず同時に現実を見るように目を開けた夏希。心なしか少しだけ、ほんの少しだけ心が楽になったような気がしていた。


 しかしまだ元通りとは程遠い心ごと持ち上げて起き上がると、嫌でも空くお腹を満たそうとキッチンへ行くが冷蔵庫は空。そもそも作る気にもなれなかった夏希は適当に夕食をデリバリーし、早めに眠りについた。


 次の日、出来ることなら何もしたくなかったが家に居てもただ悲しみ暮れるだけということは分かり切っており、少しでも気を紛らわせる意味も込め仕事へ向かう。



「おはようございます」



 忙しくすることは思ったり効果的でその間だけは悲しみすら忘れられた。というよりそれが入り込む隙すら無い程に働いた。


 そして家に帰ると蛇希を聴きながらまるで赤子のように無抵抗で彼の音楽に浸かる。その間だけは心がちゃんと癒えている気がしていた。彼の音楽だけが今の彼女を支えていたのかもしれない。


 だがそれだけは足りず時折、お酒の力も借りつつ何とか自分を誤魔化した。そんな日々をしばらく続けていたある日の帰り道。



「夏希さん?」



 歩道を歩いていると寄ってきた車の助手席側の窓が下がりそう声をかけられた。その聞き覚えのある声に夏希は足を止め車の方を見遣る。運転席から顔を覗かせていたのは三谷 彰人。夏希が一度、母親の為にお見合いをした相手だった。



「あっ、彰人さん。お久しぶりです」



 助手席の窓を覗き込みながら頭を下げる夏希。



「今帰り?」

「はい」

「なら送るよ。乗って」



 少し迷ったが夏希はその言葉に甘えることにし助手席に乗り込んだ。



「ありがとうございます」

「いや、全然いいよ」



 そう言いながら彰人は車を発進させる。



「でもどうして彰人さんが東京に?」

「仕事の都合でね今はここにいるんだ」

「そうだったんですね」

「でもまさかきみに会うとはね」

「本当ですね」

「最近どうなの? 仕事とか彼氏さんととか」

「仕事は順調です。けど……」



 優也の事に夏希は言葉を詰まらせた。と同時に優也を思い出したことで少し心がざわつく。



「喧嘩でもした?」

「というより……。別れちゃいました」



 それを聞いた彰人は言葉が見つからなかったのか気まずそうに黙った。



「一応振られちゃったんですよね」



 重くなった雰囲気を少しでもどうにかしようと夏希は明るく笑って見せた。



「きみのような女性を振るなんてその人もバカだね」

「でも彼も彼なりに思うところがあったんだと思います。最近はそう思うんですよね。なのにあたしは……」



 優也と分かり合える方法があったのではないかと、もっと冷静に話し合えば今も一緒に居られたのではないか。そういう思いに夏希は下唇を噛み締める。


「俺には何も分からないけど。もし、終わった事ならそんなに責任とかそういうのを感じない方がいいと思うよ。って言ってもそう簡単じゃないとは思うけど」

「分かってはいるんですけど、中々……」

「――そうだ。もしよかったらさ。今から夕食でもどうかな? 俺、美味しいお寿司屋さん知ってるんだよね」



 気を使ってくれているのかもしれないが夏希にとってはその気持ちが嬉しかった。



「ありがとうございます。それじゃあ是非」

「よし! じゃあ行こうか。きっと気に入ると思うよ」



 そして彰人の運転で夏希はそのオススメのお寿司屋さんへ向かった。彼に連れられ入ったのは高級そうなカウンターのお寿司屋さん。



「今日は俺が誘ったわけだし少しでもきみ元気になってもらいたいから俺の奢り。気にせず楽しんでね」

「こんな高そうな所いいんですか?」

「気にしなくていいよ」



 彰人はそう言うと先に店内に入り夏希もその後に続く。

 それから彰人のリードに任せながら久々に誰かと楽しい夕食の時間を過ごした。



「でもあの時はほんとにびっくりしたよ」

「本当にすみません」

「いやいや。でもさ。正直俺はちゃんと話してもらってよかったよ。彼氏さんがいるっていう理由があった方が納得できるし諦めもつくからね」

「言うかどうか迷ったんですけど、彰人さんと話してると騙してるみたいで申し訳なくて」


「逆に言ってくれたことで、こんな素敵な女性と一日でも楽しくおしゃべりできてラッキーぐらいに思えたからさ」

「お見合いの時も思ったんですけど、彰人さんってポジティブですよね」

「まぁ落ち込んでてもしょうがないしどうせなら良い方に考えて楽しくいたいじゃん。でもちょっとウザいかな?」

「いえ、素敵だと思いますよ。あたしもそんな風に切り替えられたらもっと楽だったのかも……」



 優也の事がどうしても頭を過る夏希は思わず俯いた。


「人それぞれ色んな乗り越え方があるよ。俺みたいに切り替えられる人もいれば時間が忘れさせてくれる人もいる。だから無理に焦ったりしないでゆっくりでもいいから自分が幸せになれる道へ歩いて行けばいいと思うよ」

「ありがとうございます」

「でもとりあえず今日のところは飲んで忘れるのも手だと思うよ」



 そう言うと彰人は湯呑を片手で持ち夏希へ近づける。



「あたしだけ飲んですみません」



 自分だけお酒を飲んでいることを少し申し訳なく思いながら夏希はグラスを持ち上げた。



「いーよ。俺は運転がるし。それに最初にも言ったけど夏希さんに少しでも元気になってもらいたくて誘ったんだから。じゃ、改めて乾杯」

「乾杯」



 湯呑みとグラスによる見慣れない乾杯の後、数貫の美味しいお寿司を食べながら会話に花を咲かせた。

 そして楽しい夕食が終わった夏希は彰人に家まで送ってもらった。



「今日は本当にありがとうございました。楽しかったです」

「俺も楽しかったよ」

「それじゃあ。おやすみなさい」



 夏希が軽く頭を下げ車を出ようとしたその時。



「あのさ!」



 彼女を彰人の声が止めた。ドアを開けようとしていた手を止め小首を傾げながら彰人の方を見る夏希。



「あのさ。もしよかったら今度、どこか遊びに行かない? もちろん無理にとは言わないし。ほんとによかったらなんだけど」

「――もちろん。いいですよ」



 夏希のその二つ返事に彰人の表情に花が咲く。



「じゃ、連絡先いいかな?」

「はい」



 そして連絡先を交換した夏希は車を降り走り去る彰人を見送った。

 それから自分の部屋へ向け歩き始め、お酒の力もありいつもより楽しい気分でエレベーターに乗り込んだ。

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