18

 ボルダリングを初めて体験してから数日後の夜。筋肉痛とも別れを告げすっかり何をするのも楽になった夏希は彰人と夕食に来ていた。ドレスコードは無いがそれなりの服装が必要な雰囲気のとあるイタリアンレストラン。

 この日は彰人も片手にワインをグラスを持ち二人でお酒を交えながら楽しい時間を過ごしていた。



「そうだ。夏希さん」

「ん? なに?」

「前から思ってたんだけど、そろそろ『さん』は止めにしない? 最初からそうだし慣れ親しんでるから嫌じゃないんだけど。やっぱり呼び捨ての方が親しさがあるから」

「確かにそうだよね。それじゃあ彰人さんがそしてくれるならあたしも」



 夏希は少し意地悪をするようにわざと『さん』を強調した。



「おっけ。じゃまずは俺から」



 笑みを浮かべながら彰人は手に持っていたフォークとナイフを置いた。それを見た夏希も同じようにフォークとナイフを置く。

 そして二人は互いの目を見るが彰人は少し緊張している様子だった。



「いい?」

「いつでも」

「よし。――夏希」



 彼女の名前を呼んだ後、彰人は二秒と持たずに視線を逸らした。



「ダメだ。改めて呼び捨てにするのって照れる。やっぱり変に構えないで自然にやればよかったかも」

「えー。それじゃああたしは止めとこうかな。恥ずかしそうだし」

「そうはいかないよ。俺はちゃんと呼んだんだからきみも同じようにやってもらわないと」

「それもそうよね。それじゃあ」



 そう言って夏希は改めて姿勢を正し彰人を見る。だが中々言葉は出てこなくただ見つめ合う時間だけが過ぎた。その雰囲気と恥ずかしさに負け夏希は顔を逸らし笑ってしまう。



「やっぱりこう改まると恥ずかし過ぎて……。分かるでしょ? 彰人」

「分か――」



 彰人は言葉を中途半端なところで切ると一瞬止まった。



「今何か言った?」

「絶対聞こえてたでしょ?」

「分かるでしょ? までは聞こえたけどその後が」



 わざとらしく肩をすくめて見せる彰人。



「もぅ。意地悪ね。分かった」

「じゃもう一回お願いします」



 観念した夏希は再度彰人を見つめる。



「彰人。――ふふっ。これでいい?」

「完璧」



 彰人は満足気に頷き立てた指を軽く振り夏希を何度も指差す。



「じゃこれからはそういうことで」



 そしてワイングラスを持ち上げると二人は改めて乾杯。同じ時間を同じ場所で互いを感じながら共有し合った二人の距離はその度に徐々に縮まっていった。

 互いに歩み寄り心の距離を縮め近づいていく二人。

 彰人は夏希を真っすぐ見ながら一歩一歩。夏希は他所を見ていたが足を踏み出しながら徐々に彰人の方を向き始める。一歩一歩。



「たまにはこういうのもいいよね」



 夏希の家のソファで寄り添う二人。蛇希が小さく流れる中、体を預け凭れる夏希とそれを受け止め肩を抱く彰人。二人の片手ではワイングラスが揺れるワインを零さぬようバランスを取っていた。



「そうだね」



 そう言うとスマホを取り出した夏希は写真フォルダを開いた。そして彰人にも見えるように想い出を見始める。



「これダーツしに行った時のやつ」

「この前のやつか。俺も得意な方じゃないけどきみもお世辞にも上手いとは言い難かったからね」

「まぁ練習すればあっという間に上手くなるけど」

「なるほど。今後に期待って訳だ」

「そういうこと」



 それからボルダリングや山登り、ラフティング、桜や紅葉など沢山の想い出を懐かしみ語り合いながら振り返った。

 そして写真は付き合い始めた頃に行った食事へ。



「本当に最初の頃だね」

「やっぱりまだ緊張してるっていうか……」

「距離がある?」

「そういう風に見える。実際まだ慣れてなかったから」

「じゃ今は?」

「今は……」



 夏希は一度彰人の顔を見上げると更に身を寄せ顔を寄りかからせた。



「どうだろう」



 その言葉に彰人は静かに笑みを浮かべ想いを伝えるように少し力強く抱きしめた。



「そうだ。あれ撮ってなかったっけ?」

「あれ?」



 何のことを言っているのか分かってなかった夏希はとりあえずスマホを二人の前まで持ち上げる。



「ほら、お店に入る前に落ちてた謎のキーホルダー」

「あぁ~。そんなのあったね」



 彰人の説明で思い出した夏希は頷きながら画面をスライドした。だが次に現れたのはそのキーホルダーではなくあの頃の夏希と優也の写真。


「あっ、ごめん……」



 咄嗟にスマホを傾けて下げ画面が見えないようにする。その後に彰人の方を見るが彼はどうってことないというように優しい笑みを浮かべていた。



「どうして謝るの?」

「だって……」

「いーよ。だってそれは承知の上だし、少しは前に進んでるって思うから」

「別に怒ってもいいんだよ? さっさと忘れろって」

「怒ったら忘れられる?」



 彰人は自分の問いかけに自分で首を振った。



「無理。よく人間は忘れる生き物何て言うけど、そう都合よくは忘れられない。時には過去に縛られる生き物だから。だから無理しなくていいしそのことで負い目を感じる必要もない。それに今が楽しいんならそれでいいじゃん」

「ありがとう」



 そして夏希はもう一度寄りかかり彰人はそれを受け止めながらおでこにキスをした。

 少しの間、彰人の温もりと心の温かさを感じていた夏希はスマホを持ち上げると写真フォルダへ戻った。そして上から順に優也との想い出を選択していき、最後は削除に指を伸ばした。



「いいの? 別に写真ぐらい思い出として残しててもいいよ?」

「ううん。いつまでもあなたの優しさに甘えてばっかりじゃダメだもん。それに人間が過去に縛られる生き物ならそれは鎖を切れない心の弱さの所為かもしれない。ならあたしはあなたの為にも潔く切るわ」

「その鎖は時にきみが思っている以上に強固でそう簡単に切り離せないモノかもしれないけど、きみが頑張るなら俺は喜んで協力するし応援するよ」

「ありがとう」



 彰人を見上げ静かにだが心からお礼を言った夏希は指を添えていた二文字を押した。優也との写真が一瞬にして消えたことで夏希はもう終わったのだと。そう言うような気持ちになっていた。

 だがそれがただの気分だったとしてもこれが夏希をまた一歩前に進ませたのは事実。


 これまで大量の時間をかけてゆっくり進んできた夏希と彰人はついに相手の目の前でその足を止めた。無言のまま見つめ合う二人。

 そして心が通じ合っているかのように片手を上げれば相手がその手を握り、もう片方の手を彰人は背に回し夏希はその腕の上に乗せながら肩辺りまで伸ばした。薄暗い中、クラシック音楽が流れ始め彰人のリードで二人は踊り始めた。



「大丈夫? これであってる?」

「大丈夫。それに誰かが見てる訳じゃないし適当に思うままでいいよ」

「そうね。ここはあなたの家であたしたち二人だけだし」



 今では彰人を真っすぐ見つめて彼の愛を受け入れ幸せそうに笑う夏希。それはあの日優也が思い描いたような光景そのもの。


 それからも夏希と彰人は楽しく幸せな日々を送った。

 そんなある日。夏希は彰人と共にお店に向かっていた。時間帯的にもスーツ姿の人が多い時間帯。人混みの中を彰人と並んで歩き、バーガー屋の前を通り過ぎ真っすぐそのお店に向かった。


 そして試着室のカーテンが出てきた店員によって開かれるとその向こう側に立っていたドレッシーな服装の夏希が姿を見せた。視線を下げ自分の姿を落ち着かなそうに見ている。そして少し恥ずかしさに頬を染めた顔を上げた。



「どうかな?」



 そう尋ねたのは仕事に比べればカジュアルなスーツ姿の彰人。



「最高。とっても似合ってる」

「普段こういう格好しないから少し恥ずかしいかも」

「でもたまにはこういうのも悪くないでしょ?」

「そうかも……」



 すると彰人は夏希から店員の方へ顔を向けた。



「それじゃあこれください」

「かしこまりました」



 そして支払いなどを済ませた彰人は紙袋を手に鏡で改めて服装を見ていた夏希の元へ戻ってきた。



「じゃいこっか」

「そのお店まではタクシーで行くの?」

「タクシー? もっといいもの」



 そう答えながらお店のドアを開いた彰人はそこに止まっていたモノを手で指した。



「え? 冗談だよね?」

「まさか。どうぞ」



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