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 だが少しして戻ってきた彼女が手に持っていたのはお見合いの写真と簡単なプロフィールが載ったもの。優也の近くまで足を進めるとそれを彼に放るように投げた。



「そんなの全部どうでもいい。あたしはあなたと一緒に居たいの。あなたがそう言ってくれれば、その人じゃなくて自分を選べって言えばあたしは喜んであなたを選ぶ」



 優也は一度投げられたそれを開き軽く目を通した。そして少し眺めた後に閉じて立ち上がり夏希と向き合う。これがいつもの喧嘩ならここで手に持った物を捨てて強く夏希を抱きしめ愛の言葉のひとつやふたつ囁き仲直りしたはず。


 だが今回はいつもと違い感情的に始まった喧嘩ではなく冷静さを保ったままの喧嘩。少なくとも優也はそうだった。彼女の言葉をちゃんと受け取り考えたうえで返していた。それ故に考えはそうすぐ変わるモノではなく、



「確かに愛は大切だと思う。だけどそれと同じぐらい現実にも目を向けないと。今は良くてもこれから先、君に辛い思いはして欲しくない。いや、違うな。多分僕はそんな君を見る度に、君にそういう思いをさせてるって思う度に。……あの時、僕じゃなくてこの人を選べって言えばよかったって後悔したくないんだ。――僕は君を愛してる。心の底から。これは嘘じゃない。だけど。だからこそ。君には幸せになって欲しいし、自信を持ってそれでも君を幸せに出来るって言えない自分と一緒に居てほしくない。これは全部僕のわがまま。それは分かってる。なら、こんな風に思わない自信を持って君を幸せにしてくれる彼を選んだ方が君の為だ」



 そして優也は手に持つそれを夏希に差し出す。だが夏希はそれを受け取らず優也の胸を突くように強く押した。胸を強く押された優也だったが片足を少し後ろに下げた程度ですぐに何事もなかったかのように元に戻った。


 そんな優也を夏希はもう一度同じように押す。もう一度。もう一度。段々間隔が短くなっていき最後は何度も優也の胸を叩いた。



「何が君の為よ!」



 行き場を失った気持ちをぶつけるように何度も優也を叩く。



「そんなこと言って結局ただあたしとの関係を終わりにしたいだけでしょ!」



 今度は両手で優也の肩を強く叩くように押した。

 そして優也はその怒声も全て受け入れるように押されるがまま一歩下がりった。



「もういい! どこにでも行けばいいじゃない! 他の女のとこに行けばいいじゃない!」



 泣きながら怒鳴りつけた夏希は床に落ちていたクッションを掴み投げつける。そして一歩下がった優也へ一歩踏み出し目の前まで近づいた。



「嫌い! 嫌い! あんたなんて大っ嫌いよ!」



 言葉に比例するように強く胸を叩いて叩くが、最後の一発は弱々しいものだった。

 そして夏希はそのまま胸に顔を埋め少し体を預けると優也を見上げる。泣きじゃくりぐちゃぐちゃになった顔。その顔を見るだけ胸の内側が痛く辛かった。



「あたしは大好きなのに。何でそんなこと言うの?」



 このまま強く抱きしめ全部無かったことにしたい程に夏希が好きでたまらない。愛してやまない。だがそれと同時に優也の中にはあの感情も顔を出す。将来と自信すら無い自分。それは優也の上げようとした腕を下げさせ代わりに拳を握らせた。

 そうとは知らずに夏希はまだ潤む両目で乞うように優也を見上げる。そして彼の頬に手を伸ばした。



「ねぇ。お願い。好きだって、愛してるって言って。いつもみたいにあたしのこと抱きしめてよ。お願いだから……」


 段々弱々しくなっていく声。そして夏希は再び込み上げてきた泪を静かに流した。


 これが最後のチャンス。優也はそれを痛い程分かっていたが、ここで全てを無かったことにするにはあまりにも彼女を愛しすぎて、あまりにも自分を愛せないでいた。自分の感情は関係ない。今彼女を泣かせることになっても今後、将来を見据えれば自分より相応しい人が居る。それで彼女が、夏希が少しでも幸せになるのなら自己満だとしても構わない。優也は自分の中にある全ての感情を抑えつけた。



「――ごめん」



 絞り出した声でそう告げると彼女の横を通り歩き出した。そして泣き声を背に振り返ることなく歩き続ける。途中、ソファにずっと持っていた物を投げ真っすぐ家を出た。


 ドアを出るとそのままエレベータ-へ。一階へ下りていくエレベーターの中で何もない自分が、自信の無い自分が、クソな自分が、彼女を泣かせた自分が、何もできない自分が、彼女を幸せに出来ない自分が、何より将来の不安や恐怖を彼女の為で誤魔化した自分が、嫌で嫌いでひどくイラついた。やり場のない自分へ向けられた苛立ち。それに下唇を噛みしめ、エレベーターの壁を強く叩き叩いた。



「結局、夏希の為なんて言って逃げたかっただけだろ。臆病者のクソ野郎」



 最後にもう一度、力強く壁を殴るが気持ちは何一つ解消されることは無かった。

 そしてエレベーターを降りると家へ足を進めていたが、途中で方向を変え優也は家の近くにある夜の街が見渡せるあの場所へコンビニ袋を片手に向かった。

 手すりに凭れポケットから出したイヤホンを付けるとプレイリストを再生し袋から酒を取り出す。耳に流れ始めたのは蛇希。大好きで聴き慣れた蛇希を聴きながら嫌味なほどに輝く街を眺め酒を飲む。


 今は何も考えたくなくてこの状況に身を任せたかった。だが頭には捻じ込まれるように先程のことが浮かんでくる。気が付けば目からは止めどなく泪が流れていた。だがそれを止めることも出来ず、拭くこともせずただ目の前の景色を眺め蛇希を聴き酒を飲んだ。


 そしていくつ缶を開けたか分からないが、気が付けば手すりを背に寝ていた優也は朝日で目を覚ます。まるで昨日の出来事がただの悪夢だったかのような朝。だが現実はいくら寝ようが現実。


 優也は右上が赤くなったスマホで時間を確認しようとしたが待ち受け画面で一度手が止まる。そこには笑顔を浮かべる夏希の姿があった。彼女の楽しそうな笑顔を見ると今は、昨日の泣き顔を思い出してしまい辛さだけが優也を襲う。だがそれでも待ち受けを変えることは出来ず時間を確認した。


 そしてこのまますっぽかしたい気分ではあったが優也は一度家に戻り仕事へと向かった。一年ほどやっているある会社の事務バイト。いつも通り会社に行くといつも通り仕事を始めた。



「本条。お前大丈夫か? 顔色が悪いぞ?」



 部長である吉川和文は優也の肩を軽く叩き心配そうに話しかけてきた。



「昨日ちょっと飲み過ぎて。大丈夫です」

「ならいいけが。体調悪かったら遠慮なく言えよ。それでミスしてもらっても困るのはこっちだからな」

「分かりました」



 そして優也は仕事に集中することで頭を空にし一時的に嫌なことを忘れた。そのおかげと言うべきかこの日の仕事は早く終わったが、他の人の手伝いをしてからいつも通りの時間に帰宅。誰も居ない家に帰りベッドに寝転がると無音の中に夏希の声が聞こえ彼女の姿を思い出す。


 だが今の彼にとってそれはただただ辛いだけ。優也はイヤホンを付けるとそれを無理やり忘れようといつもより大きな音量で蛇希を聴いた。


 それから彼はいつも通りの仕事をし休みの日は日雇いをし、家に帰れば蛇希を聴いて夕食を食べ酒を飲む。そうやって出来る限り忙しくし、間を埋めるように蛇希と酒の力を借りて夏希を忘れようとした。


 だが最初の内はただの気休めにしかならず隙さえあればすぐに彼女が頭に現れる。その度に自分に対しての嫌悪感に襲われた。しかし時間が流れるにつれそれは次第に落ち着き始めた。

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