第1話

「離縁、してくれない?」


 突然言われたその言葉の意味が、最初は誰にもわからなかった。


「り、えん……?」


 実際に口にしてみても、頭には届いていない。ただ声にしてみただけの意味のない音。そしてそれは、その場に居合わせた者達全てに当て嵌まる事だった。

 何も言えないその者達を見遣って、こっくり頷く当人。


「そう、離縁してほしいのよ」


 腰まで届く艶やかな黒髪と珍しい紫色の瞳を持つその少女は、現在十六歳の絶世の美少女である。そしてこのギルア帝国の皇妃、ライラ・リル・ギルアでもあった。

 その皇妃でもある彼女に離縁を求められているのは、当然の事ながらギルア帝国皇帝、カルス・ミラ・ギルアだ。同じく彼も十六歳。


「ちょ、ちょっと待てよ。何の冗談だ?」


 妃であるライラの瞳を見れば、冗談かどうか位はわかる。しかし今、彼女の瞳にはそんな色は浮んでいない。それでも口にしたのは、それを認めたくなかったから。冗談よ、といつものように笑ってほしかったからだ。


「どうして……」


 返事をしないライラを見て、カルスは自分の望みが叶わない事を知った。


「理由を言ってくれライラ。何かあるだろ?俺の何が気に入らない?言ってくれ。言ってくれないとわからないっ!」


 悲痛な叫びをあげて、カルスはライラを引き寄せた。そのまま強く抱きしめる。


「そんなに言ってほしいの?」


 そのあまりに冷たい声音に、カルスは驚いて体を離した。


「カルスという人間に興味が無くなったのよ。好きでも嫌いでもない、どうでも良い人。ついでに言うと、皇妃という立場にもうんざり、かな?」


 パアンッ‼という鋭い音と共に、ライラの髪が宙を舞う。


「あんた何考えてるのっ⁉」


 頬を抑えて俯くライラを、キュアリスは容赦なく怒鳴りつける。仮にも皇妃である彼女にこんな事が出来るのは、親友でもあり、自身も皇妃候補とまで言われた高位貴族の彼女だけであろう。


「今自分が何を言ったかわかってるんでしょうねっ⁉」

「わかってるわよ」


 顔を上げたライラは、凍えるほど冷たい微笑を浮かべていた。その美しすぎる微笑は、魂をすべて捧げて造り上げられた至上の彫刻のようである。こんな時でもなければ、恐らく暫くは見惚れて動けなかったであろう。


「わかってなかったら言う筈ないでしょう?あっと、『正気か』と聞くのはやめてね。私は真剣なんだから」

「あんたっ!」


 再び振り上げられるキュアリスの手を止めたのは、他でもないカルスである。


「陛下っ!止めないで下さい!私は」

「ライラ」


 キュアリスの言葉を遮り、カルスは愛する者の名を呼んだ。室内が一瞬静まり返る。


「なぁに?」


 一人だけ明るい表情のライラ。それが彼の心に重く伸し掛かる。


「嘘だと、言ってくれ」


 その時、カルスは自分自身がどんな顔をしているのか全くわからなかった。怒っているのか、泣きたいのか、もう何が何だかわからない。ただ、ライラが嘲るように斜めの角度で見上げてきたのだけは頭に焼き付いている。


「情けないわね。今までこんなのと一緒にいたかと思うと、ホント、泣きたくなるわ」


 そのあまりの言い種にカルスとライラの側近達は言葉を無くし、ギリギリと拳を握りしめた。

 ただ一人、カルスだけが叫びをあげる。


「嘘だろう?冗談だろう?嘘だと、言ってくれよライラッ‼」


 けれど返ってきたのは哄笑だけ。愛しい妻の面影はどこにもない。


「とことんおめでたい人ね、カルス」


 甘く囁くようにその名を呼ぶが、その瞳にはかつての愛情等欠片程も残ってはいなかった。

 ライラは口端を片方だけ上げて笑みの形を作ると、後ろの窓枠に腰掛けた。差し込む月の光を掌で弄び、楽し気に言い放つ。


「私がせっかく、少しでも穏便に済ませようとしているのに」


 その途端、ライラの座る窓から突風が吹き付けた。


『うわぁっ⁉』


 咄嗟に腕を上げて顔を庇ったが、カルスは確かに見た。平然と微笑んで座っている、ライラの姿を。

 物が飛び狂う程に強い風の中、まるで別世界にいるかの如く影響を受けていない彼女。髪の一筋だって揺れていない。


「こういう事よ?」


 カルスの思考を読んだかのような絶妙なタイミング。

 風がすっかり止んでしまっているのに気付き、カルスは慌てて顔を上げた。


「ラ、イラ……?」


 瞳に映る光景が、彼にはどうしても信じられなかった。

 だってそれは。


「きゃあぁぁぁっ‼何っ⁉人っ⁉人が浮いてるっ⁉」


 ライラが腰掛ける窓枠の外、此処は三階であるというのに人が立っていた。それは確かに浮いているとしか言いようが無い。


「人が宙に浮く。これがどういう事か、あなたにならわかる。そうでしょう、カルス?」


 カルスは顔面を真っ青にして、それでもそこに浮いている青年を睨み付けた。

 お尻をすっぽりと隠してしまう程に長い髪は、黒と見紛う程に深い紫。長い睫毛も白い肌もライラの肩に控えめに置かれた手も全て、女性のように美しい。しかし何故か女性に見間違う事は無く、確かに男性だと、誰もがそう思う。

 その理由はすぐに判った。瞳だ。宝石が埋まっているかのような、美しい紫の瞳。自分の存在の総てを凝縮しているかのような力強さが、その瞳に宿っている。

 何より不思議で、何より許せなかったのは、それがライラと全く同じだったという事。


「そいつから離れろ」


 かつてない怒りを込めて、カルスは青年とライラを睨み付ける。


「い・や・よ」

「ライラっ‼」


 周囲の空気がビリビリと震える程の怒鳴り声。彼がここまで本気で怒鳴る事等、ライラですら知らない。


「皇妃が嫌なら其れでもいい。ここに……俺の傍に居たくないのなら、それでもいい!」


 胸が張り裂けそうなその言葉。

 彼がどんな気持ちでそう言っているのか、ライラは知っている。そしてそれに続く言葉も。


「だけど……だけど!」


 これだけは。


「そいつと一緒にいる事だけは許さない‼」


 頭を振ったその瞬間、瞳に溜まっていた涙が飛び散った。

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