第9話
客がハリシュア王宮に到着したのは、夜も近付いた頃だった。辺りはオレンジ色から闇色に変わりつつある。
「ミラ皇帝陛下、お久し振りにございます」
ギルア帝国から客人が到着したと聞いて、ヴァイネルは嬉しそうに入り口へ向かった。そしてそこには、まだ旅装もといていないギルア皇帝、カルス・ミラ・ギルアが微笑んでいる。
「お久し振りです、ヴァイネル陛下」
しっかりと握手を交わし、二人は並んで歩き出す。その間、カルスは着ていたマントやら何やらを外し、少し後ろについて来る側近達に渡した。
明るく微笑んでいるカルスの姿が、側近達には何より痛ましい。
彼にはまだ、笑えるだけの気力は無い筈だ。あの苦しみが消えたわけでも、哀しみが癒された訳でもない。ただ、『ギルア皇帝』としての仮面をかぶっているだけにすぎない。
「あの、ところで、ミラ陛下」
暫く楽しそうに会話を交わしていたヴァイネルが、少々言い辛そうに言葉を途切らせた。
「何でしょう?」
軽く首を傾げて問い返すと、側近達がギクリと体を震わせる。
何を訊かれるか、わかっていた。
「リル皇妃陛下は今回もご一緒ではないのでしょうか」
カルスの微笑みは崩れない。先程と全く同じ状態で頷いてくる。
「はい。ライラは、いませんから」
そうですかと答えかけて、ふと首を傾げた。何か、凄い違和感を感じた気がする。
『ライラはいない』という言葉が、『ここにいない』ではなく、『そんな人間はいない』と言う風に聞こえたような。
(まさか、な)
一瞬浮かんだ考えを、頭を振って打ち消す。有り得ない事だ。
「リル皇妃陛下がいらっしゃらないのは残念ですが、どうぞお楽しみになって下さい。今夜は宴ですから」
王宮で一番広いホールが近付いてくる。すでに準備は終わって、招待されたこの国の貴族達も入っている筈だ。それが証拠に音楽が聞こえていた。
「それに今日は新顔の女性がおりますから、退屈はしないと思います」
するとカルスは面白そうに問い返した。
「新顔?十七番目のご側室ですか?」
こちらも楽しそうに首を振るヴァイネル。
「いえ、正妃にと思ったのですが、既に振られてしまいました」
「それは驚きですね。ヴァイネル陛下を振ってしまう女性がいるなんて」
そう言っている内に、ホールの扉の前に辿り着く。警備兵らしき二人が、頭を下げながら扉を開いた。
「さぁ、どうぞお楽しみ下さい」
ホールの明るい光が、カルスの顔を照らし出した。
テンポの良い曲、甘いデザートの香りに楽しげな笑い声。前にも幾度か経験した事のある、ハリシュア王国の宴だ。
扉が開いた事で、中にいた者達が一斉にこちらを向いた。カルスが入って来たのを認めると、優雅にお辞儀をしてみせる。
軽く微笑んで奥に進み、いつものようにヴァイネルの妃達の元へと行った。そしてその中の一人、シュスレイアの前に立つ。
「お久しぶりです、シュア様。お元気そうで何より」
「ありがとうございます。ミラ陛下もお元気そうで何よりですわ」
いつものお決まりの挨拶だ。ドレスのスカートをつまんで、静かに腰を折る。
「ようこそおいで下さいました」
楽しませて頂きますよと言おうとしたカルスの口が、そのまま固まってしまった。何も言えないまま、頭を下げたシュスレイアの後ろから目を離せないでいる。
大きく見開かれた瞳。血の気が失せて青ざめていく顔。その驚愕ぶりは誰の目にも明らかだった。
「カルス陛下?」
後ろから呼び掛けてくるのは、彼の側近であるヒルトーゼだ。心配そうにその顔色を窺っている。
「……っ!」
カルスの唇が僅かに動いた。何か呟いているが、小さくて聞き取れない。
「陛下?」
ヒルトーゼの声は届いていない。ある一点を凝視したまま、カルスは再び唇を動かした。
今度は誰の耳にも届く、その言葉。
「ライラッ!」
ギルアの者達がびくりと体を震わせる。そしてもの凄いスピードでカルスの視線の先にいる人物に視線を向けた。
何がどうなっているのかわからないヴァイネルやシュスレイアは、問題の二人を交互に見比べている。
「嘘、でしょう?」
キュアリスが呆然と呟いた。彼女の顔も真っ青だ。
黒髪と紫の瞳ではないけれど、そっくりな人物がそこに立っていた。彼女達が戴くギルア皇妃、ライラ・リル・ギルアに瓜二つの少女が。
「あのぅ」
困惑顔のヴァイネルがその問題の人物の手を取り、カルスの前に連れてきた。
「この娘を御存知なのでしょうか?この娘が先程話していた女性、シストなのですが」
手を引かれてやって来たライラは、ヴァイネルと同じ様に困惑顔だ。ギルアの者達の前でも、全く狼狽えた様子を見せない。
「ギルア皇帝、ミラ陛下にはお初にお目に掛かります。ハリシュア王妃、シスト・ジュエルと申します」
そして、極上の笑顔でハリシュア式の礼をして見せた。
明らかにホッと胸を撫で下ろしたギルア側に対し、ヴァイネルは一人、眉根を寄せる。
シストは今、ハリシュア王妃と名乗らなかったか?
彼がどれだけ妃だと紹介しても、「妃になるつもりはございませんが」と笑顔で付け加えるシストが、何故今この時だけハリシュア王妃と名乗るのか。
そうだ。それに最初からおかしかったのだ。この宴に出ると言った時から。
「ライラ、何故お前がそこにいる?」
ざわっとホールが揺れる。
驚いたキュアリスが声を上げた。
「カルス陛下、こちらはハリシュア王妃のシスト様です。ライラではありません」
そうですよね?とキュアリスが問い掛けると、ライラは困ったように頷いて見せる。
それが本当に自然だったので、キュアリスは心底安心した。ただ似ているだけなんだ、と。
「ほら、陛下。ライラではありませんよ」
するとカルスは呆れたように彼女を見た。
「キューア、お前、俺を見くびっていないか?」
言葉遣いが今までと違う。自身の皇宮にいる時の、あの幸せな頃の話し方だ。『私』ではなく『俺』と言っているのでもよくわかる。
それに今までどこか遠くを見ていたような瞳が、きちんとキュアリスを捕らえていた。輝きが戻っている。現実を見ている。
ニッと笑ってカルスが言った。
「この俺が、誰を間違おうとライラを間違える事があると思うか?」
呆気にとられる側近達を横目に、こちらも呆気にとられているライラへと少々視線を鋭くして告げる。
「お前も。まさか騙し通せるなんて思ってやしないだろう?」
一気に緊張が走った。
「・・・シスト?」
ヴァイネルがぽかんと口を開けたままのライラに声を掛けた。彼女はその声で我に返ったようだ。前髪を掻き上げながら、クックッと笑う。
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