第10話

「すぐに気付くだろうとは思っていたけど……普通言う?そんな恥ずかしい事」


 クスクスと口許を押さえて笑うと、涙が出そうになった。

 ライラだけは間違えない。

 カルスはそう言った。

 あれだけ傷付けたのに、どうしてそんな言葉が出てくるのだろう。


「やってくれるわ、カルス」


 心底楽しそうなライラの笑い声で、その場の緊張は一気に消え去った。


「何年、一緒にいると思ってるんだ」


 泣き笑いのような何とも情けない顔でカルスは言う。

 生まれた時からずっと一緒にいたのだ。少しくらい離れたところで、何が変わるでもない。

 しかしその瞬間、ライラの笑い声はピタリと止まった。


「心以外は、ね」


 冷たい声音に、カルスはビクッと肩を揺らす。

 カルスの瞳に怯えが疾ったのを、ライラは少し目を伏せる事でやり過ごした。一度唇を噛みしめ、顔を上げた時にはもう、口許にうっすらと嘲笑を浮かべている。


「たった一月前の事なのに、もう忘れたの?」


 あの時から、二度と近付く事のない二人の距離。今も、変わらない。少なくともライラには変えるつもりはなかった。

 瞳に映る見知った顔は、どれも怒りに満ちている。当然だ。そうなるように行動したのだから。


(ねぇ?トパレイズ)


 心の中でその名を呼ぶと、視線の先で彼女は嗤った。少し丸顔の、可愛らしい少女。ライラ付きの女官だ。


「ラ、イラ?」

「言ったでしょう?」


 震える声で名前を呼ぶカルスを、強い調子で遮った。


「私はもう、あなたなんかに興味はないと」


 二度も言わせるなと鬱陶しそうに手を払って、微笑む。後ろから伸びた腕が、優しく体を抱きしめるのと同時に。


「お前、は!」

「あぁっ!あの時の男!?」


 一度見たら忘れない。今でもあの時の異様な光景は目に焼き付いている。空中に浮かんでいたあの男。

 ライラと一緒に姿を消したのだから、例えここにいてもおかしくはないのだけれど。

 ギリリ、とカルスは拳を握る。

 どうして、あの男なんだ。


「あれぇ、あの人も茶色ですねぇ」


 ハッと気付いてみれば、確かにそうだった。彼もライラと同じ紫の瞳だったのに、今は茶色だ。


「どうしてなんでしょうねぇ?」


 今にも笑い出しそうなその口調に、誰も気付かない。他の者達にとっては、そんな些細な事など今はどうでも良いのだろう。


「もちろんカルスなら知ってるわよね?私がどうやってこんな姿に変えているのか」


 突き放すような言葉の響き。そこにはもう、先程のように優しい笑みを浮かべる妻はいない。

 一瞬、再び心が通ったと思ったのは、夢だったのだろうか。


「あぁ、知っているよ」


 絶望が心を支配する。

 カルスは苦々しく吐き捨てた。


「そこの男だ」


 殺気を漂わせ、ライラを抱きしめたままの紫杏を睨み付ける。


「シアン、ですか?彼はシスト───いえ、リル皇妃の兄上では?」


 同じジュエルと名乗ったし、雰囲気は確かに似ている。今までずっと兄妹だと思っていた。


「兄妹⁉」


 ハッ!と怒りも露わに笑い飛ばす。


「冗談じゃない。あれがライラの兄であってたまるか!ライラには兄どころか姉も、弟や妹だっていやしない」


 カルスもライラも共に一人っ子だ。強いて言えば、お互いが兄であり、姉だった。


「じゃあ、彼はいったい?」


 言うべきか言わざるべきか。迷うカルスにライラは言った。


「話してあげれば?別に徹底して隠せなんて教えられてないでしょう?」


 話してはいけないと言われた事はない。ただ誰も信じないだけ。軽く見られるなら、話さなければいいと言われただけだ。

 今のこの状況なら、話さないより話す方がいい。すでにヴァイネルは、ギルアのごたごたに巻き込まれているのだから。

 彼には、聞く権利がある。

 覚悟を決め、カルスは口を開いた。


「魔法というものはこの世に存在すると思いますか?」

「ま、魔法ですか?」


 突然何を言い出すのかと思ったが、真剣な様子で待っているカルスを見ては、答えないわけにはいかなかった。


「無い、と思いますが」


 そりゃああればいいなとは思うけれど、実際に見た事もないし、そんな不可思議なものがこの世にあるとは考えにくい。


「残念だが、不正解。魔法は、この世に存在するんだ」


 ちらりとライラを見る。

 彼女は仕方ないなと言う風に肩を竦めてから、どこからか小さな赤い石を取り出した。手の平に乗せ、その上から紫杏しあんが握りしめる。


「百聞は一見に如かずってね」


 何事かぶつぶつと唱えていた紫杏が手を離すと、二人の姿は元に戻っていた。髪と瞳の色が変わっただけだというのに、随分印象が違う。

 たった一瞬の出来事だったが、それはそこにいた者達の度肝を抜くには十分だったようだ。


「これが、魔法。ただし……」

「黒魔法だ」

『くろまほう?』


 その場にいた全員が同時に疑わしげな声をあげる。今見た現実さえもよくわからないというのに、またまた理解不能だ。


「まず、何故今現在魔法が存在しないと思われているかだが。皆さんは、昔この世界に龍が存在していた事を知っていますね?」


 全員が頷く。

 八百年程前、龍と呼ばれる生物がこの世に生きていた。体は大きいが、気性は穏やかで人の言葉も話せたとされている。


「その龍が、実は魔法を使えたんだよ」


 正確には、龍だけが。

 人間が息をするのと同じように、龍は魔法を使っていたのだ。

 本当は誰も知らない事。龍の存在は知っていても、それが魔法を使えたと言う事は何故か誰も知らない。

 知っているのはギルア皇家の人間だけ。


「魔法には大きく分けて二種類」


 ピッと人差し指を立てて、カルスは説明を始めた。


「第一に白魔法。これは人間には使えない。人間には魔力を生み出すだけの力も、それに耐えられるだけの体もないからだ。白魔法が使えるのは、かつてこの世に存在していたと言われる、龍族だけ」


 純粋に魔法と呼べるのは、龍族の使う白魔法だけだ。

 自らの体で魔力を生み出し、それを現実のものとして具現化させる。それが『白』と呼ばれる魔法なのである。


「第二に」


 ピッともう一本指を立てる。


「黒魔法だ」


 紫杏が使っているというその魔法。

 カルスは怒りを押し殺して説明を続けた。


「龍が生み出すのが白魔法。そしてその力を利用するのが黒魔法。自分で魔力を生み出せないのなら、生み出せる者からそれを得ればいい。それが黒魔法なんだ」


 今まで黙ってそれを聞いていたライラが、補うように付け足してくる。


「けれどそんな事は不可能なのよ。龍はそれを人間に分ける事は出来なかった。命を他人に譲る事が出来ないように、魔力も人間に与えられるものじゃない。何故なら、魔力は龍にとって命そのものだから」

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