エピローグ
漆黒のドレスに身を包み、目元を帽子から続く黒いヴェールで隠した一人の美しい少女が、紅茶のカップを二つ持ってバルコニーへ出た。まだ春を迎えたばかりの北国は風も冷たく、思わず身を竦めてしまう。
「
少女は先にバルコニーへ出ていた紫杏に、持っていたカップを一つ渡した。冷えた指に、その暖かさが心地良い。
「ライラ。もう、平気か?」
少女───ライラはこくりと頷いた。
「大丈夫。胸の傷も、薄くなってきたわ。さすがに肩を出すドレスはまだ着られないけれど」
「もう、一周忌か」
何処か遠くを見て、紫杏は呟いた。
時が流れれば、傷は消える。哀しみや苦しみは消えないけれど、それでも、薄くはなる。
時は、平等に心を癒してくれる。
「私は……」
カップに満たされた紅茶を覗き込み、そこに映る自分自身を見ながら言う。
「カルスがいない世界など、消えてしまっても構わないと思ってる。もちろん今もそれは変わらない」
でもね……
「キューアやヒル、紫杏、ギルアに住む総ての人達───私には消す事など出来ない。結局、カルスの命だけを救う事など私には出来ないのよ。天秤に乗せれば間違いなくカルスの方に傾くのに、選び取るのはその他大勢の人間の命」
カルスを愛しているけれど、他の命を無惨に消し去る事など出来ない。
ポンポンと背中を叩いて、紫杏は微笑んだ。
「それは、多分カルスも同じだろう。裏切りではない。お前達は良い意味で人間なんだ。愛しい者をどんな事をしてでも守りたいという欲望と、けれどそれにまみれてしまう事のない理性と」
矛盾していても、それが真実。理屈で割り切れる事が無いのが、人間の心だ。
「安心しろ。例えお前がどうであろうと、カルスはお前を愛している。もちろん、私も」
傷が痛まないように、紫杏は優しくライラの肩を抱き寄せた。
その途端。
バタバタバタバタッ
「ライラッ‼」
バターン!と勢い良くガラスの扉を開け、バルコニーへ飛び出してきたその人は。
「カルス⁉」
ハアハアと肩で息をしながら、それでもさり気なく二人の間に割り込む。紫杏は苦笑を浮かべてその場を譲った。
「準備、出来たのか?」
じっとライラの姿を見て、カルスは眉を顰めた。
「何だよ、そのヴェール。未亡人じゃないんだから外せよ」
「このヴェールって未亡人しか付けちゃいけなかったっけ?」
「知らない。何となくそんな気がする」
そう言って、カルスはライラのヴェールを取ってしまった。
現れたのは、光に当たらなければ黒と見紛う程深い緑の瞳。
紫ではなく、緑の。
「……何で、ヴェールなんかしてたんだよ」
「だって、ギルア皇妃は『世にも珍しい紫の瞳』だもの。このまま外に出たら、みんな驚くわよ」
くすくすと笑って、紫杏がライラの頭に手を置いた。
「全く、あの状況で上手くやったものだ。焦った死神を渾身の魔力で封じ込め、取引するだなんて。しかも己の起こす魔力の嵐を止める力さえも準備していたのだから」
「それが最良の方法だと思ったから。でも、そのせいで紫水晶は無くなってしまったわ」
消えた、龍の巫女の証。その証拠に魔法も一切使えない。
「……哀しいのか?」
心配気にカルスが瞳を覗き込む。ライラはぷるぷると頭を振ったが、申し訳なさそうに紫杏を見た。
「ゴメンね」
龍の巫女でなくなった事。愛するもう一人の自分を、一人にしてしまった事。
けれど紫杏は首を振った。
「お前は、私の巫女だよ。お前の瞳の紫水晶───一つはカルスの命の代償として死神に。もう一つは己が起こす魔力の抑止力として。死神に渡った分は別として、通常の巫女が持つ魔力の分はただのオーバーロードだ。何時か、戻るだろう」
何時か。どれだけ先の事か、それは紫杏にもわからない。けれど、ライラの魔力その物が消えたわけではないのだ。
「さあ、トパレイズが首を長くして待っているぞ?今日はバニスの一周忌だ。トパレイズをバニスの事で怒らせたら恐いという事は身を以て知っているだろう?早く行ってあげなさい」
もちろん知っている。そう、これでもかと言うくらい。
「行くぞ、ライラ!」
「待って、ヴェール返してよ!」
手を引いて走り出すカルスの、反対側の手にあるヴェールをライラは取ろうとした。しかしそれを上手く躱し、言う。
「お前が紫の瞳だからギルア皇妃なんじゃない。深緑の瞳でも、お前がお前なら、間違いなくギルア皇妃だ。俺はお前がいれば俺でいられる。お前もそれは同じだろう、ライラ?」
側にいるだけで。生きているだけで。自分達は自分達でいられる。
妙に嬉しくなって、ライラは笑った。
「愛してるよ、カルス」
一瞬絶句して、ぷいっとそっぽを向く。
「もう、聞き飽きた」
後ろから見える耳が赤いのは、ライラの気のせいではない。
クスクス笑って更に言う。
「じゃあ、嫌い」
「っ⁉」
血相を変えて振り向いたカルスに、ライラは飛び付いた。首に腕を巻き付け、強く唇を重ね合わせる。
カルスは勢いで壁に軽くぶつかったが、そのまま凭れるようにして身体を固定し、ライラを抱き留めた。
何度も何度も唇を重ね、クスクスと笑い合う。
「聞き飽きた?」
悪戯っぽく問い掛けてくるライラに答えてやる。
「まさか。でもお前はそろそろ言い飽きたんじゃないか?」
言いながら、髪や頬、瞼に触れる唇にライラはくすぐったそうに身じろぎする。
「そうねぇ、でも……まだ言い足りない」
コツンと額を寄せて、二人は言った。
『何よりも、誰よりも、世界で一番愛してる』
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