第19話

「そうねぇ、この方が面白いかしらぁ」


 クスクスと耳障りな笑い声。

 すぐ隣に立ったトパレイズは、不揃いになったカルスの髪を掻き上げた。その拍子に付いた血を、真っ赤な舌が舐め取る。


「簡単に死なれちゃ、つまんないもんねぇ?」


 死ぬのが見たいのではない。あくまでも苦しむ姿を見たいのだ。

 カルスはちらりと彼女を見遣ると、そのままホールを後にした。背後で聞こえる高笑いには意識を向けずに。





 ハリシュア王宮の長い廊下を、カルスは黙々と歩いていた。数歩後ろから付いてくるヒルトーゼとキュアリスも、何も話さない。

 他に誰もいない廊下は異常な程静かで、いつも以上に長く感じる。

 窓から差し込む月の光が床に影を落とし、昼間よりも幾分涼しい風が頬を撫でていく。

 普段と何も変わらない事なのに、何だか凄く久しぶりのようだ。それだけ、今まで周りを見ていなかったという事なのだろう。

 愚かな事だ。そう思う。


「シアン、か」


 恐らくは総てを知っている人物。

 最初こそ憎みもしたが、今は。

 今は───


「カルス陛下」


 呼び掛けたと言うよりも、何かを促すような。そんな風に名を呼ばれた。

 そのヒルトーゼの視線の先にいるのは、驚く程『紫』のイメージを持つ、黒魔法使い・シアン。ギルアの敵。

 知らず知らず体に力が入る。けれど数歩後ろに立つヒルトーゼは、何の変化も見せなかった。それどころか、あんなに彼を嫌っていたキュアリスでさえ、嫌悪の瞳を向けていない。

 蚊帳の外。

 そんな言葉が頭に浮かんだ。

 何故か自分だけが何も知らない。それが悔しかった。

 ライラが。自分が一番深く関わっている筈なのに。抱え込んでいるのは自分以外の人間達で。

 キュッと唇を噛みしめたカルスに、紫杏しあんは微笑みかける。


「陛下は、私の名を御存知ですか?」


 何を言っているのだろうか。名前などとっくに知っている。


「シアン・ジュエルだろう?」


 シアンは大きく頷くと、つい、と自分の口を指差した。


「お前っ!」


 彼のその動作だけで、カルスには何が言いたいのかわかった。緊張は一層強まる。


「隠さなくてもいいですよ。今なら、誰にも聞かれない。たとえトパレイズにも。その為に、わざわざあんな賭けに出たのですから」


 あの時の口付け。あれは一種の賭だった。

 直前のライラの言葉である程度の保険はあったけれど、それでも殺される確率は高かったのだから。

 愛し合う二人が口付けを交わす。それは今のトパレイズには、一番憎い事の筈。

 それでも、危険を冒した価値はあった。今の僅かな時間こそ、大事なもの。


「誰にも聞かれないって、一体どういう事だ?どうして俺に、これを渡した?」


 開いた手の平に、赤い石が乗っている。ライラと紫杏、二人の姿を変えていたあの石だ。


「返しただけですよ。力を込めてね」

「ちから?」

「そう、話を聞かれないようにと。もちろん短い時間だけですけれど」


 あの瞬間、ライラは口移しでこの石をカルスに渡した。己の持つ力を、総て石に移して。


「元は、皇妃のペンダントの石です。やはりライラとは相性が良いのでしょうね。ちょっとすり替えさせてもらいました」


 という事は、彼もライラも素知らぬ顔で嘘を付いていたという事だ。彼らは「ペンダントは返した。抜き取ってもいない」と、言い切っていたのだから。


「嘘と言うのは、必要な時もあるのですよ」


 飄々と言ってのける紫杏は、やっぱり一番の曲者だ。大変な事をあれだけさらっと流してしまうのだから間違いない。


「それで、お前は結局何が言いたいんだ?」


 この時にはもう、肩の力は抜けていた。『警戒すべき相手』という考えが頭の中から消えていたからだろう。


 たった数分の短いやり取りだけで、彼は相手を引き込む魅力を持っている。まるで、ライラと同じ様な。


「別に、私には何も用事はありません」


 ただ……


「今、ライラは起き上がれない程疲れています。それはもちろん、その生命石に力を込めたからですけれど」


 龍の巫女の意識を逸らす。

 言葉で言うのは簡単だが、実際にやってのけるには大変な力がいるのである。

 そこまでしてライラが伝えたかった事。気付かせたかった事。


「言葉には力が宿る。ギルア皇家の人間である陛下は、その事をよく知っていますよね」


 そんな事は確認するまでもない。だからカルスも答えなかったし、紫杏もそれを待っていたわけではなかった。


「ですから直接言葉にするわけにはいきませんが……」


 一つだけ。


「『生命石』のもう一つの呼び名を御存知ですか?」


 もう一つの呼び名?

 そんなものは聞いた事がなかった。今までずっと、『生命石』と教えられていたのだから。


「教えて差し上げましょう」


 ふ、と瞳を細めて紫杏は言った。


「ブラッディ・ジュエル、と言うのですよ」


 深紅の宝石は、まさに血の色。


「ブラッディ……ジュエル?」


 ハッと紫杏を見た時には、既にその姿はなかった。

 シアン・ジュエル。そしてシスト・ジュエル。

 これは何かの符号か。


(ブラッディ・ジュエル……?)


 目を見開いたまま、カルスは服を握りしめた。


(何だ?)


 何かが引っかかる。

 あのキスの時も、シアンも。そしてブラッディ・ジュエルという名も。

 ずっとだ。ずっと、もどかしいくらいに何かが引っかかっている。

 ───ワレ……リュ……オウ……ン

 とぎれとぎれの言葉。昔、どこかで聞いた筈の言葉がフラッシュバックする。


(どこだ?)


 カルスは髪をくしゃくしゃっと掻き乱し、眉間にしわを寄せた。


(思い出せ!)


 懸命に自分に言い聞かせる。

 もう総ての駒は揃った。後はそれを繋げるだけなのだ。

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