第18話
どこからか歌うような声が聞こえてきた。そしてそれが途切れると、ライラの目の前に剣が現れる。
影ですべてを見ていた
宙に浮かぶ剣を掴み、ライラはゆっくりと階段を下りていく。
「ラ、ライ……!」
思わず伸ばした手を、ヴァイネルは肩に触れる寸前で押し止めた。これ以上余計な事は出来ない。
もしもあの時、ライラの所へ行かなかったら。あんな事をしなかったら。ライラがカルスを刺すなんて事は起こらなかったかも知れないのだ。
これは、ライラが必死の思いで決めた事。少し関わったからと言って、口出し出来るものではなかった。
行き場のない手が、空を掴む。やりきれない想いが、胸の中をぐるぐると回っている。キュアリスも、ヒルトーゼも、きっと同じだ。
不気味な程静まり返ったホールに、コツコツとライラの足音だけが響きわたる。目指す先───カルスとの間に障害物は何もない。
剣を握る手に汗が滲み、心臓が激しく脈打っていても、ライラは顔にも態度にも出さなかった。残酷とも取れる薄い笑みを浮かべ、距離を詰めるだけ。
「剣を抜きなさい」
カルスの間合いの、一歩分外。そこからライラは言った。
「何故だ?」
不思議そうに首を傾げるカルスに対し、ライラはあくまで薄笑い。二人の心はまるで噛み合っていなかった。
お互いが何を考えているのか、もう少したりともわからない。
「抵抗してくれないと、面白くないでしょ?」
「殺せばいいだろう?」
投げ遣りな言葉。通常のカルスなら、決して口にする事は無いはずの。
「ふぅ、ん」
ぴくぴくっとライラの眉が揺れる。けれどそれは、苦しみのためでも、ましてや哀しみのためでもなかった。
シュッ!という風を切る音。それから僅かに遅れて。
ドカッ!
ライラはカルスを蹴っ飛ばしていた。手加減無しである。
「「ライラ(皇妃)っ⁉」」
驚いて声を上げたのはキュアリスとヒルトーゼだ。
ライラが命じられたのは、カルスを刺す事。蹴り飛ばす事ではない。そんな事をしたって、意味はないのだ。いくらやったところで、トパレイズはカルスを刺すまで許しはしない。
ただカルスが苦しむだけなのである。
けれど。
けれど、だ。
それはあまりにもライラらしくて。カルスを殺さない程度に刺すと『本気』で決めた時よりも、手加減無しで蹴っ飛ばした『本気』の方が、何故か真実のようで。
そんな場合ではないけれど、わくわくした。たとえ次の瞬間、勢い良く刃を振り下ろしたとしても。
ザクッ‼
幾筋かの黒髪が床に散らばり、斬れたこめかみから血が流れ出しているというのに、カルスは瞬きすらせず、じっとライラの瞳を見つめていた。
「……なんなの、あんた?」
「殺せよ」
「っ!」
感情のこもらない声に、正直ぞっとした。カルスには、生きる気力がない。本当に殺される事を望んでいる。
(なんの、ために……)
そう思うと、何だか何もかもが腹立たしくなってきた。
「情けない」
吐き捨てるようにそう言うと、ライラはキッと顔を上げた。
「トパレイズっ!」
床に突き刺さった剣を握りしめ、カルスに覆い被さった恰好のままライラは叫ぶ。
「あんたは私達が背を向けあったままなんて面白くないのでしょう?だったら黙って見ておく事ね!」
最高に面白くしてあげる。
そう言った彼女に、トパレイズは何も言わなかった。鼻先で軽く嗤っただけである。
「何故刺さないんだ?」
トパレイズを睨み付けていたライラは、下から聞こえてきた声に怒りの瞳を向けた。
「何故?」
保険はかけた。ここで心のままに言葉を紡いでも、カルスは死なない。もちろんやり過ぎなければ、の話だが。
少なくとも今の状況なら、トパレイズはこちらの方を気に入る筈だ。ライラがこれからしようとしている事の方を。
「それはこっちが聞きたいわ。どうしてそんなに情けないの?関係ないと言うのなら、私を殺してみせなさいよっ!『こんな最悪な女はいない』と罵ってみなさいよっ!」
いつだって輝きを失う事のない紫の瞳が、みるみるうちに涙で潤んでいく。
「死ぬなんて……殺せなんて言わないでよっ!私が本気であなたを殺したいと思ってるなんて、絶対に言わせないんだからっ!」
何年一緒にいるんだ、と。少しくらい離れたところで、何が変わるのか、と。カルスが言ったのだ。
「ライラ……?」
手を伸ばせば触れられる距離。そこにいて、流れる涙を拭ってやるのは当然だった。
泣いているせいか、ライラの頬は熱い。指に触れる湿った感触が、忘れかけていた何かを思い出させる。
「泣くなよ」
そうだ。嫌いになんてなれない。どんなに傷付いても、傷付けられても、愛しくてたまらないのに。そしてそれは、ライラも同じだと知っている。
知っているのに、どうして忘れていたんだろう。自分の哀しみにだけ目を向けて、ちっとも考えようとしなかった。
こんなにも自分を求めて涙を流す、強くて弱い、ライラの心を。
「ごめん……」
片手で身を起こし、もう片方の手でライラの髪を絡め取る。そのまま引っ張るとも言えない強さで引き寄せると、カルスは自らの唇をライラのそれと重ね合わせた。
その瞬間、頭の中で何かが弾けた。刹那に浮かぶ、ある日の不思議な出来事。
「おっと、そこまでだ」
ひょいっと紫杏はライラを抱き上げた。絡めていたライラの髪が、するりと指をすり抜けていく。
「行くぞ、ライラ」
抵抗も返事もしないライラの体を抱いたまま、紫杏はその場から姿を消した。後に残るのは、微かな呪文の余韻だけ。
(シアン?)
カルスは呆然と呟いた。
何なのだ、これは。この、まるでパズルのような感覚は。
駒は全部出揃っている筈なのに、それが上手く合わさってくれない。どこに行けばいいのかわからず、同じ場所をうろうろしているようだ。
(でも……)
ヒントは見つけた。パズルを完成させる鍵は、自分が握っている。
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