第2話
「どうして。どうして、そいつなんだ。お前はこの国が好きだろう⁉この〈龍の帝国〉が‼」
生まれた時からずっと暮らしてきた国である。
緑生い茂る森。甘く爽やかな水の流れる川。それらはどこまでも美しく、どこまでも人々に潤いを与えてくれる。
こんなに豊かで美しい国は他に無いと、幸せそうに語っていたライラ。
なのに。
「嫌いよ」
簡単にそう口にする。
「昔はどうあれ、今この国は私の自由を奪う鎖。好きになんかなれて?」
緑生い茂る森は荊の檻。甘く爽やかな水の流れる川は暗い底なし沼。
総てが自分に牙を剥く。自由を奪う。まるで羽を捥がれた天使のように。
「なれるわけがないわ」
ふっ、と息を吐き、皮肉な笑みをそこに浮かべてやる。
「それこそ、彼と一緒にいる程に」
カルスの顔から表情が消え去った。
側近達は何が何だかわからないという風に二人を見比べている。けれど声を掛ける事など誰にも出来なかった。
「どういう事なのかわかっていて、それでもそいつと一緒に行くと言うのか?」
「もちろん」
ふわりと微笑むライラを見たのは、それが最後だった。
「さようなら、偉大なるギルアの皇帝陛下」
首から皇妃の証であるペンダントを引き千切り宙に投げると同時に、彼女は後ろに倒れるようにして窓から身を投げ出した。
ペンダントは緩やかな弧を描き、硬く乾いた音を立ててカルスの足元に落ちる。
「ライラ─────ッ‼」
呼べば必ず返ってきた優しい声は、いつまで経っても帰ってくる事は無かった。
ライラが姿を消してから少しの後。控え目に扉が叩かれた。
ぼんやりと入室を許可してやると、一人の少女がゆっくりと入ってくる。
「失礼致します、皇帝陛下。何かございましたでしょうか?何やら少し騒がしく感じましたが」
さて、これは誰だっただろうか。
記憶の糸を手繰り寄せて、やっと思い当たる人物が浮かび上がる。
「トパレイズ、か」
つい一週間程前に皇妃付きの女官にした、くりっとした黒い瞳に厚めのパッツン前髪が特徴の、丸顔の少女だ。
「はい。あの、皇妃陛下はどちらに?ご一緒だと思っていたのですが」
側近達はギクリと体を強張らせた。
トパレイズがライラの所在を聞くのは当然だ。彼女はライラの世話をする為にこの皇宮にいるのだから。この部屋に入ってきた時点でそれはわかっている筈だった。だから止めるべきだったのだ。入る事を許可してはならなかったのだ。
これは側近達のミスである。
今、カルスに言ってはいけない言葉がある。言わせてはいけない言葉がある。
ギリギリの所で理性を保っているカルスには決して言わせるべき言葉ではなかったのに。
「この国にはもう、皇妃はいないんだ」
何も映さないカルスの瞳。愛と智の輝きを兼ね備えたエメラルドの瞳は、総てを拒否しているかのように昏く濁っていた。
「……陛下?今、なんと?それは一体どのような意味なのでしょうか?」
蒼白になりながらも、トパレイズはやっとの思いでその言葉を口にした。
「言葉の通りだ。もう、どこにもいないんだよ」
僅かに見えた横顔は、哀しそうに───それでも、微笑んでいた。
哀しすぎて、もう泣く事すら出来ない。
「そ、そんな……あぁっ!」
ふらふらと後ずさり、トパレイズは崩れ落ちた。顔を覆って、堪え切れない涙を流す。
けれど誰もそんな彼女を構う余裕など無かった。だから気付かない。それは涙を隠す為にした動作ではなかったという事を。
───こんなに上手くいくなんて。
口元には薄く笑みが浮かんでいる。
───良かったわね、ライラ。これであなたは憎まれる。そう、願っていたのでしょう?
◆◇◆◇◆◇◆
「ここがハーリーン?そういえば私、この国に来るのって初めて」
ハーリーン。ギルア帝国よりも南に位置する、ハリシュア王国の首都である。
ギルアではまだ少し肌寒かったはずだが、ここは丁度良い暖かさのようだ。
「そこまで遠くもないのに、今まで一度も来た事が無かったのか?」
ハリシュア王国とギルア帝国の間にはもう一つ国がある。とは言ってもそこはギルアの藩属国なので、完全なる隣国といえるのはここハリシュア王国だ。なのにそんな国に来た事が無いと言うのが、連れの青年には不思議だったようだ。
「まぁね。カルスは仕事で何回か来た事があるんだけど、私はタイミングが合わなくって」
余程ライラとの相性が悪いのか、訪問の機会はことごとく潰れている。今回のように無理矢理とも言えるやり方ででもなければ、もしかしたら一生その機会は無かったのかもしれない。
「ところで」
ハーリーンの市で買ったフルーツを齧りながら、ライラは隣の青年に目を向けた。
「どうやってあれ手に入れるつもり?」
同じようにフルーツを齧り、ライラと同じ茶色の瞳で前方を見遣る青年。
「紫杏?」
風で揺れる細い茶色の髪を押さえて、ライラはその視線の先を追った。
紫杏と呼ばれた青年は、ただじっと一点を見つめている。高台に聳え立つハリシュア王宮を。
ふ、と優しい笑みを浮かべ、ライラはバンバンと紫杏の背中を叩いた。
「⁉⁉⁉」
驚きの表情で振り返る紫杏に、口付けが出来る程顔を近付けて囁きかける。
「絶対取り戻してみせるから」
そして軽く頬に口付ける。
「こう見えてもこのライラちゃん、けっこう運がいいのよ?余程日頃の行いが良いのね」
暫く呆気に取られていた紫杏だったが、やがてクスクスと笑い出した。
「そうそ、それでいいのよ。あなたが負い目を感じる必要は無いのだから。あなたが暗い顔をしていると、それこそ私は酷い人間になってしまうわ」
「そんな事は!」
「ん?」
そんな事はない。そう言おうと思った。けれどそれが彼女にとって何の意味もない言葉だと知っている。
「なんでもない」
彼女が明るく笑い続ける限り、自分には何も言う権利は無い。少なくとも紫杏はそう思っていた。だから代わりに、精一杯の笑顔で抱き締めてやる。
「頑張ろう、な」
「うんっ」
子猫のようにごろごろと紫杏の腕にじゃれつく。彼女にとって、紫杏の温もりは何より自然なものだった。
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