第4話
「おいおい……」
呆気にとられて呟く国王の瞳に、その時確かに映った。
「なんだ?」
一瞬、ほんの一瞬。
完全に優勢の筈なのに、何故か泣き出しそうなその表情。自分自身でさえ気付いていないのかもしれない。相手に肘鉄を食らわせ、蹴り飛ばし、剣で叩き倒すその合間に。
苦しそうに眉根を寄せる。
何かを堪えるように唇を噛み締める。
「やめろっ!」
咄嗟に国王は叫んでいた。
辺りが静まり返り、驚いたライラも動きを止める。
「お前、名は?歳はいくつだ?」
真剣な表情で問い質してくる国王に、ライラはギクリとした。自分の素性がバレたのかと、そう思ったのだ。
前述したように、ギルアとハリシュアには交流がある。ハリシュア国王がギルア皇妃の顔を知っていたとしても何ら不思議はない。
だが二人は初対面だ。皇宮での正装姿ならともかく、現在の姿でそう簡単に判る筈もない。
「人にものを尋ねる時は、まず自分の名を名乗る事ね」
内心の驚きは微塵も出さず、ぴしゃりと言い放つ。別に名前くらいは知っているのだが、今迄の経過上素直に問いに答えるよりはこの方が良い。
ライラの態度に側近は再び怒りを燃やしたが、国王は静かに手で制す。
「良い。尋ねる方が先に名を名乗るのは礼儀だ」
何故か楽しそうに笑って、国王はライラに向き直った。
「私の名はヴァイネル・シェア・ハリシュア。この国の王だ」
無礼者と怒りもしない。正直ライラは戸惑った。何と言って良いのかわからない。
そんなライラに、ヴァイネルは再び尋ねる。
「歳は?」
うっ、と一瞬詰まるが、渋々口を開いた。相手がきちんと名乗った以上、こちらにも答える義務がある。
「十六よ」
ヴァイネルの顔色が変わった。
やはり何か感付かれてしまったのだろうか。
本当の年齢を教えるのはやはりまずかっただろうかと紫杏を見る。すると彼は大丈夫だとでも言う風に微笑んで見せた。
保険は掛けてある。
茶色の髪と瞳。絶世の美女と名高いギルア帝国皇妃は黒髪だ。そして世にも珍しいとされている完全な紫の瞳。
別人だと言い逃れは出来る。
「同じ、だな」
ポツリと呟かれた言葉。
(紫杏っ!)
どうしたらいいの⁉
態度は不敵、心で叫ぶ。
意外とパニックに陥っている彼女に、紫杏は苦笑しつつ助け舟を出してやった。
「何が同じなのですか?」
ヴァイネルはハッと我に返ったように紫杏を見た。どうやら先程の言葉は無意識だったようである。
「あ、あぁ、妹と───」
それ以上は言わなかった。代わりにじっと紫杏を見つめる。それが名前を問うているのだとわかった彼はすぐに答えた。
「紫杏───シアン・ジュエルと申します」
最初の『しあん』と微妙にイントネーションが違ったのを、ライラ以外は誰も気付かなかった。
ご機嫌な様子でヴァイネルは言う。
「お前達は不思議だな。国王の前だというのに、ちっとも物怖じしない。気に入ったぞ。私の王宮に来ないか?」
いきなりの申し出に、ライラは半眼で問い返す。
「それはどういう意味で?」
一国の王が女性を気に入り、自分の王宮に来いと言う。それがどういう事を意味するのか、当然彼女は知っていた。
「ふむ。なかなか頭の回転が速いな。そうだ。我が妃としてお前を王宮に迎え入れよう」
「陛下っ⁉」
側近が抗議の声を上げた。完全に興奮してしまっている。
「こんな身分も無い、しかも野蛮な娘をお妃様にするなんて断じてなりません!現在王宮にお住いになられている姫君方が何とお思いになられるか!」
「野蛮って何よ」
腕組みをしたライラが片眉を上げて抗議する。『身分の無い』は現在のライラに当て嵌まる事なので良いが、『野蛮』は聞き捨てならない。
「野蛮は野蛮だ。私や護衛兵を散々ぼこぼこにしたであろう。盗賊を捕まえたのだってただ暴れたかっただけなのではないか?ただ単なる喧嘩好きの、野蛮な女だ」
「ハイドッ‼」
ヴァイネルの厳しい声に、側近・ハイドは竦み上がり、ピシィッと背筋を伸ばした。
「我が国の民を守ってくれた者に何という無礼な事を言うのだ!」
「で、ですが」
「見ていて、相手をしていてわからなかったのか?あれは単なる喧嘩ではない。きちんと基礎から学んだ、立派な武術だ。体術まではわからないが、剣はスィード流。かなりの使い手だな」
喧嘩などという安っぽいレベルではない。
ハイドは何か言いたげにヴァイネルを見たが、結局は何も言えなかった。だがそれとこれとは別問題。
「先程の言葉は失言だと認めます。けれどこの者をお妃様の一人に加える事だけは認められません!」
「ちょっと」
話題の当人を無視して繰り広げられる討論に、ライラはうんざりした口調で割り込んだ。
「勝手に話を進めないでくれる?誰も妃になるなんて言ってないわよ。大体なんで私が好きでもないあなたの『数多い側室の一人』なんかにならなきゃいけないの」
これには皆驚いた。
王宮に勤める宮廷女官でさえ、女性には大変なエリート職であり『夢』なのだ。ましてや王の妃となれば夢のまた夢。特に一般人には余程の奇跡でもない限り叶う事の無い至上の夢なのである。そう、愛の無い婚姻でも良いという者が大勢いる程に。
それをいともあっさり拒否してしまったライラを、皆はまるで化け物でも見るかのような目で見つめている。
「はっはっはっ、ますます気に入った!けれどお前は一つ勘違いをしている」
きょとんとするライラに、ヴァイネルはそれはそれは楽しそうに告げた。
「『数多い側室の一人』ではない。私はお前を正妃として迎えると言ったのだ。
『なっ⁉』
見事にハモるその場の人間達。
思わず額を押さえて天を仰いだライラに、紫杏は何とも複雑な視線を向けている。
「まぁ、取り敢えず。今回の礼はしなければならないからな。王宮へは来てもらいたい。何か欲しいものはあるか?」
指の間からちらりとその姿を見、ニヤリと不敵な笑みで頷いた。
「では、一つだけ」
この国へ来た目的がある。
皇妃という地位も、愛している人も仲間も総て捨てて。
ただ一つの願いがある。
「ところでお前の名は?まだ聞いていないぞ」
隣に立つ紫杏を見上げてから、ライラはぽつりと呟いた。
「シスト・ジュエル」
紫水晶の瞳を持つ少女。
彼女の本当の姿。
それは、貴い
アメシスト。
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