第5話
南の地方であるハリシュアは、やはり夏の暑さが相当厳しい。今はそれ程でもないが、これが真夏になったらと考えるだけでもうんざりする。
ここより北に位置するギルア帝国で生まれ育ったライラにとっては、あまり快適に暮らせる場所ではなかった。
「……あっづい……」
仮にも皇妃であった姫君がしてはいけないような顔で唸る。
そうしたら思いっきり嫌な顔で「やめろ」と言われた。
「だって、私、暑いの苦手」
ぽて、とバルコニーの手すりに顎を乗せる。
「じゃあなんでこんな所にいるんだ」
呆れたような調子でそう言いながら、
「噴水が近いから。蒸されて暑い室内より、水で冷やされた風の来るここの方が涼しいのよ。飛沫交じりの風ってけっこう気持ちいいし……ありがと」
頬から手が離れると、あんなに火照っていた頬から熱が引いていた。それだけでずいぶん楽になる。
「これくらいしかできないからな」
卑屈な心で言ったのではない。ライラと同じように、自分に出来る事をしているのだ。確かにもどかしいような悔しい気持ちが無いと言ったら嘘になるが、出来る事はあるのだから。
卑屈になっている暇も、必要もない。
「シスト」
和やかな雰囲気だった二人の間に別の声が入ってくる。ヴァイネル国王だ。
「───これは、ヴァイネル陛下」
答えるまでに一瞬の間があったが、〈シスト〉と呼ばれる事に慣れていないので仕方がない。
「何かご用ですか?」
優雅に立ち上がり、さっとドレスを捌く姿は何とも様になっていた。
一応王宮に滞在しているという事で、ライラは今きちんとお姫様仕様の青いドレス(つまり見た目が美しいだけの、動きにくいひらひらドレスだ)を身に纏っている。基本的に好きではないが、仕方がない。もう諦めた。
綺麗に結い上げられた髪と耳には、ドレスと同じ青色をしたバラの細工物が飾られている。
全体的に青くまとめられた姿からは冷たさをも感じられるが、彼女の笑顔の前では大した問題ではなかったようだ。どちらかと言えば、良いバランスである。
「あ?あぁ」
思わず見惚れていた自分に気付き、ヴァイネルはコホンと一つ咳払いをしてから話し始めた。
「大臣達が一度お前に会いたいと言っている。それで今夜宴を開く事になったのだが。あ、いや、そんな堅いものではなくて、本当に気軽に食事をしたりするものなんだ。で、大臣達はもとより、私の側室達も出席してほしいと願っている。シスト、出てくれないか?」
途端に嫌そうな顔になったライラは、くるりと身を翻した。歩き出しながら言う。
「それって私の事を試したいだけでしょう?それで恥でもかかせて追い出そうって魂胆じゃない。そんな見え見えの手に付き合う義理はないわ。私は妃になるつもりなんかこれっぽっちもな・い・の!」
しかしヴァイネルの方が上手だった。
「ふ~ん。お前は恥をかかされると確信しているんだ。負けると確信しているんだな?」
ぴたりとライラの足が止まる。
(あ、やられた)
ライラの隣で、紫杏がこっそり思う。
ヴァイネルは続けて言ってきた。
「結局、どこにでもいるただの女か」
立ち止まったままのライラの背中を見つめて、ぺろりと舌を出す。
彼女が普通の女だなどとは米粒程も思っていない。わざとだ。こう言えば彼女は宴に出席すると読んだからである。
ゆっくりと振り返ったライラは、かなりひきつった笑顔でこう言った。
「んっふっふ、じょーとーじゃないの。出席してあげるわよ。見てなさい。徹底的にお姫様を演じてあげる。非の打ち所のない完璧な、ね」
負けず嫌い。
彼女の性格をしっかりと見抜いていたヴァイネルの勝ちである。
(あ~あ)
厄介な事になったと溜め息をつく。
もちろん紫杏もわかっていた。ライラを上手く扱おうと思えば、適度にプライドをくすぐってやれば良いと。
やり過ぎると手痛いしっぺ返しを喰らう恐れがあるが、ヴァイネルもその辺の加減はわかる人間だった。
(仮にも国王だからなぁ)
一国を治める者は駆け引きにも長けていなければならないし、例え苦手だったとしても、関わる機会が多い分他の者達よりは上手である。
街が夜の闇に包まれる頃、ハリシュア王宮には目映い光が満ちていた。大きなシャンデリアが跳ね返すのがまた美しい。
溢れ返る光の中に身を置くのは、それに負けないように着飾って来た貴族の姫や、エスコートする男性達。そして大臣の一団。彼らとて自らを飾る事は忘れていない。
楽しく弾むおしゃべりだが、それは専らシストことライラの話題だった。ちらちらと入り口を見遣る瞳には、明らかに興味の色が輝いている。
と、その中の一人の姫が声をあげた。
「ねぇ、お着きになられたのではなくて?きっとあの方ですわ。ほ、ら……」
扇で隠していた口許が露わになる。扇を使う事さえ忘れてしまう程衝撃的なものがそこにはあった。
国王であるヴァイネルに手を引かれて入って来た、まだ少女と呼んでも差し支えのない一人の女性。
毅然と背筋を伸ばし、気後れする事なく前を見つめている茶色の瞳。真っ直ぐ背中に落ちかかる髪は、光を受けてゆらゆらと揺れる、まるで木漏れ日のようだ。
ドレスはやはり青だが、デザインはなかな可愛らしい。薄い布を幾重にも重ねた、深い青から淡い水色のグラデーションもだが、特に、袖口と裾に幾つか付けられた鈴が良かった。動く度にちりちりと軽やかな音をたてるのだ。
「皆、待たせたな。彼女が新しく私の妃になるシストだ」
そう紹介するヴァイネルでさえ、最初はあまりの美しさに目を奪われていた。
「シストと申します。国王陛下のお妃になるつもりはございませんが、暫くの間滞在させて頂く事になりますので、どうぞお見知り置き下さい」
と言って、優雅に腰を折る。誰も文句の付けられない位完璧なお辞儀だ。
それからもずっと、彼女は完璧だった。
歩き方やしゃべり方はもちろん、首の傾げ具合、視線の動かし方。媚びるようないやらしさは微塵もなく、まさしく気高い姫君である。
これにはさすがにヴァイネルも驚いた。彼の側近のハイドに至っては、真っ青になって、手に持ったグラスをおいおいと言いたくなる程ぶるぶる震わせている。
あれだけ「野蛮女」と罵っていたのだから当然の事だったのかもしれない。
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