第24話

《ライラを、頼む》


 もう一人の自分。こんな哀しい運命を背負って生まれた、人間としての───

 紫杏は瞳を伏せたままのライラを見た。

 幼い少女には酷な事実。本当なら記憶など戻る筈ではなかったのに。


《ライラ。お前だけは、幸せに》


 堅く瞑った瞳から、ぽろぽろと涙がこぼれ落ちる。まともに視線を合わせる事など出来なかった。


《もし、もう一度出会う事があれば、それは何かが起こった時だ》


 紫杏しあんは一度だけライラを抱きしめると、くるりと向きを変え、カルスの胸元にある生命石を指差した。


《人間達が『生命石』と呼んでいるその石は、我々龍や巫女達は『ブラッディ・ジュエル』と呼ぶ。死した後も僅かな魔力を残すのは、魂がまだ生きているからだ。次の生命に生まれ変わる為の魂が》


 そして。


《魂までも死する時、ブラッディ・ジュエルは鼓動を止める。まさに心臓。血が流れていると言っても過言ではないのだ》


 ブラッディ・ジュエル。


《私の体から離れたブラッディ・ジュエルは、ギルア皇家の血が流れる者を護る。そして、ここに連れてくる。だが、ここはただの地下ではない》


 皇宮の真下と言うわけではないのだ。いくら掘り進んでいっても、この場書に辿り着けるというわけではない。

 ここに辿り着けるのは、ブラッディ・ジュエルを持ったギルア皇家の血を受け継ぐ者達と、紫龍の巫女のみ。


《けれど永く続いたギルア皇家には、当然傍流も出来る。薄くなったとは言え、ギルア皇家の血は絶対だ。何らかの手段で石を手に入れた者が道を通る時もある》


 龍の力に興味を持った、皇家とは離れていった者達が。

 しかしそんな者達は、紫杏の元に辿り着く事が出来ない。ここは、異次元なのだから。

 目に見えている範囲がこの場所の全てという事ではないのだ。


《お前は直系の皇子だから次元の中で迷うと言う事はないが、一つだけ教えておいてやる》


 それはあの言葉の補足のようなものであった。


《龍の掴む宝玉に光り映る時、ブラッディ・ジュエルをその光の筋に入れてやれば良い。そうすれば、私の元に直接やってこれる》


 何かが起こった時、すぐにここに来られるように。

 本当は教えなくても良い事。二度と会う事は無いのだから。

 ただそれでも。

 予感がするのだ。きっとライラも感じている事。何も言わないのがその証拠だ。

 けれど、そんな事は決して起きないように願って。


《さて、そろそろ本当にお別れだ》


 ふぅっと遠くなる意識の片隅で、最後の言葉を聞いた。


《───おやすみ》





◆◇◆◇◆◇◆


 あれからもう九年。

 忘れていたのは、二人の願いがあったから。


(俺の命を、守りたかったからだ)


 何かが起こると、紫杏は知っていた。


「何故俺だけ総てを忘れていたんだ?」


 あの日の記憶だけ頭の中から消えていたのは、恐らく紫杏の力によるのだろう。けれどライラは何もかも知っていた。

 紫杏はライラの記憶を消さなかったのか?


《いや、ライラの記憶も消したさ》


 余計な記憶は哀しみを生むだけ。そんな事はよくわかっていた。


《ただ……時間も、距離も短すぎた》


 ライラが皇妃としてギルア皇宮に身を置いたのは十三歳の時。

 龍の庇護に満ちた場所にいる事、そして身に付けるのはブラッディ・ジュエルがはめ込まれた皇家の紋章。


《ライラはお前といる事で、常に龍の力を感じていたんだ。だから完全に力も記憶も封印してしまうには、もっと時間が必要だった》


 本当ならば彼らが皇位に就くのはまだ先の事だったのである。

 あの事故さえ無ければ。

 彼らの両親がまだ生きていれば、ライラの記憶が戻る事もなかった。


《記憶は皇妃になって間もなく取り戻したのだが、巫女としての力が戻ったのは───》


 その先は言われずともわかっている。トパレイズが目醒めたからだ。


「でもそれは、彼女の哀しみがあまりに深かったから───俺達が、止められなかったからだ」


 大事な人がいなくなる苦しみは、今回の事でよくわかった。生きていてくれるという事がどんなに嬉しい事か。


《救ってやってくれ》


 紫杏が言った。


《どの龍も、巫女も、私の大切な仲間だ》


 どんなに悪い事をしたとしても、その罪が償えるものなら。

 決して許せない事ではないから。


「もちろんです」


 憎むために生まれて来たのではない。どんなに辛く哀しい事があっても、幸せになれるように。

 ずっとそうやって生きてきた。

 そして多分、トパレイズにもわかってもらえる。こんなにも素晴らしい、龍のもう一つの命なのだから。


《───来る》


 辛そうに眉根を寄せた紫杏が呟いた。





 始まる。

 終わる。

 さて、それはどちらなのだろうか?


「多分、両方ねぇ」


 クスクスと笑って、トパレイズはギルア帝国の首都・ギリアの街を見下ろした。

 龍に庇護された、豊かな街。正式にギルア帝国となったのは今から八百年以上前の事だが、一度として涸れた事も溢れた事もない川や、人が生きていけるだけの食料を与えてくれる大地がその証だ。


「あの人がいないこの世界なんて───」


 何の意味もない。

 悦びや、幸せを感じる事など出来なくなった。

 心に渦巻くのは、憎しみのみ。


「さぁ、始めましょうか」


 永い悪夢が、ようやく終わる。この手で終わらせる。


「コウガ」


 自身の額にある黄玉と同じ輝きを放つ瞳。人にあらざる色を纏う者だけれど、心は愚かな人間達よりもずっと清らかで、優しい。

 私の願いを聞いてくれる。


「ギルア帝国に終焉を」

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