第30話

黄架こうが


 ライラは静かにその名を呼ぶと、トパレイズの体を預けた。


「ラ、イラ……?」


 黄架に抱き上げられたトパレイズは、彼女の体の向こう側にいる何かを見た。否、正確には目が合った。

 それは、確実に自分達を狙っている。


「何、あれ……?」


 カタカタと体が震える。それ程までに禍々しい気配を、そいつは持っていた。


「恋人達の最後の逢瀬ぐらい、静観していてもいいんじゃなくて?」


 手の平に乗せていたバニスである珠を自分の背後に浮かせ、ライラは握った拳を左の手の平に押し当てた。


「嫌われるわよ?」


 スラッ、とまるで鞘から引き抜かれるかのように、ライラの手の平から剣が現れた。

 鼻先だけで嗤い、皮肉気に告げる。


「ま、最初から嫌われ者だけどねぇ?」


 真っ黒な黒い衣を頭からすっぽりと被ったそいつは、大きな鎌を持つ手に力を込めた。

 顔どころか体格さえもよくわからないそいつを、人はこう呼ぶ。


「し、死神……?」


 その大きな鎌を振り下ろし、人の命の灯を消し去る闇に属する神の一種。

 けれどそいつは。


「違う」


 背にトパレイズ達を庇い、じりじりと近付いてくるそいつから距離を取りながら説明してやる。


「死神と言えど神は神。一度死んで───そりゃあルール違反はしたけれど───きちんと死の世界に向かう魂を襲いはしない。しかも、龍王と黄泉の番人である黄龍に認められているのよ?」


 本物の死神ならば、定められた者の魂以外は狩らない。


「こいつはこの忘却の川でさえも消去しきれない程の欲望を持った、人間の成れの果て。死神にも、魔にもなれずに、無力な魂を貪り続けるモノ」


 力の源は、人間の魂。元は同じだった生き物の命を、死してまで生きると言う欲望に埋もれ、喰らい続ける。

 死神の姿を模しているのは、それでも神に近付きたかったからか。少しでも清い存在に還りたいと思ったからなのか、恐らくは本人でさえもわからない。


「魂、ヨコセ」


 耳に不快な、ザラザラとした声。声帯も既に壊れてしまっているようだ。


「いくら魂を取り込もうと、あんたはもう現世に還る事の叶わない身。それにこの魂は、私が絶対に守ると決めたの。だから、ねぇ?」


 自らの身に宿る龍の魔力で生み出した剣を構え、ライラは言う。


「諦めなさい、魂狩鬼ごんしゅき


 カタカタと魂狩鬼の持つ鎌が鳴った。


「タマシイ」


 カーブを描いた刃が高々と持ち上げられ、ライラ達に向けられる。


「寄コセェッ‼」


 ゴウッ!と唸りを上げ、魂狩鬼が飛び掛かって来た。ライラは両手で構えた剣でそれを受けるが、湾曲した鎌はライラの剣を越え、頬を切り裂く。

 互いの武器がぶつかった衝撃で、魂狩鬼の顔を覆っていた衣が後ろに落ちた。


「ひっ⁉」


 現れた顔に息を呑む。

 殆ど白骨化した頭蓋骨に所々皮膚が残り、それは紛れもなく神にも魔にもなりきれなかった人間の姿だった。


「黄架、今すぐ還りなさい!そして───」


 ふっ、と沈んだ体につられ、魂狩鬼の体が前のめりに傾く。その隙に背後に回り込み、ライラは背中目掛けて剣を振り下ろす。


「この世界への道を閉ざしなさい!」


 背中に剣が突き刺さったまま、それでも魂狩鬼は鎌を振った。自分の足が切断されるのも構わず、背後のライラを狙う。

 剣を手放し後ろに跳び、再び手の平から新しい剣を引き抜く。


「バニス、あなたも行きなさい。私が道を開く!」


 魂狩鬼には決して手を出す事が出来ない、本当の死後の世界への道。

 バニスは珠から人間の姿に変わり、言葉を紡ぐ。


《陛下、それではあなたは?この世界への道を閉ざしてしまったら、陛下は現世へ還れなくなります。私は一人で行けますから、どうぞ陛下も》


 クスッと笑ってライラは答えた。


「現世に紫杏しあんがいる限り、私には還る目印がある。大丈夫よ。それに」


 瞳を細め、前を見据える。


「魂狩鬼は一人ではない」


 魂を求めて彷徨う魂狩鬼は、黄泉の世界に幾人も存在する。此処にいくつもの魂が存在する事を知って集まってきたのだろう。


「さあ、みんな行きなさいっ!」


 頷いて飛び立とうとしたバニスが、突然振り返った。


《トパレイズっ!》


 名を呼ばれ、涙目でそちらを向いたトパレイズの唇に触れるもの。


《また、いつか逢える日まで……》


 止まらない涙を拭く事すら忘れ、彼女は何度も何度も頷いた。声を上げて泣く彼女の体を抱きしめ、黄架は走り出す。

 現世へ。


「ゴメンね」


 ぽつりと呟かれた言葉は、トパレイズに向けられたもの。謝れば謝るだけそれはちゃちなものに変わってしまうけれど。

 言わずにはいられなかった。


《僕は……》


 天への道へと進みながら、バニスは言う。


《陛下がそうやって言って下さるだけで、救われていたんですよ》


 バニスの声の余韻だけが、ライラの耳に残る。

 救われていた。

 その言葉がライラの心にどれだけの悦びを与えてくれるのか、バニスは知っているのだろうか。

 こんなに何もしてやれない自分が、ライラには辛かった。

 けれど。


(救われたのは)


 ライラ自身。

 バニスのたった一言で、これまでの辛い事も総てリセット出来たような気がした。





 ◆◇◆◇◆◇◆


「トパレイズっ!」


 ぐにゃりと歪んだ空間から、人型の黄架に抱えられてトパレイズが出てくる。ボロボロに泣き崩れているのに、それでもすっきりしているように感じるのは何故だろうか。

 二人が地上に降り立つと、出て来た穴はすぐに狭まり、消えてしまった。


「えっ⁉」


 カルスは驚いてそこに駆け寄った。出てくる筈の人間が、一人足りない。


「ライラ……?」


 ゾクリと背中が粟立つ。

 ライラの居る場所に繋がっている穴は、もう何処にもない。手を伸ばしてみても、掴める物は手応えのない空気だけ。


「冗談だろ?」


 これでは、ライラは存在すら消えてしまう。生きてきた時間も、育んできた総ての者達との関係も、何もかもが消えてしまう。


「紫杏っ!」


 くるりと向きを変え、カルスは紫杏の服を掴んだ。そのままガクガクと揺さぶって訴える。


「今すぐライラを呼び戻せっ!それが無理なら───」


 もう離れているのは嫌だ。姿が見えないだけで、怖くて、不安でどうしようもなくなる。


「俺を黄泉の国へっ‼」


 ライラが来ないと言うのなら、こちらから追いかけて行くだけ。

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