op.16

 たまたま立ち寄ったファミレスの店内には、甲高い声が飛び交っていた。日曜ということもあり子供連れの客が目立つ。

 親の言うことを聞かない子供らは店内を走り回り、周囲の迷惑を鑑みない騒ぎ声があちこちのテーブル席から絶え間なく聴こえる。

 外の景色はいつの間にか闇が支配していた。次々と通り過ぎてゆく車のヘッドライトは眩しく、つい目を細めた。

 ノーヘルメットで疾走していくバイクの集団をぼんやり眺めていると、好き勝手生きている若者達に無性に腹が立ち、お前らの幸せを少しでも目の前の彼女に分けてくれないかと、行き場のない憤りを感じていた。


 騒々しい爆音と真っ赤なテールランプがようやく過ぎ去り、苛立ちを紛らわそうと煙草を口に咥えると周囲からの刺々しい視線を感じた。

 ここが喫煙席でないことを思い出す。

「ちっ……忘れてた」

 テーブル席の向かいでは、おろしたてのワンピースを着た真莉愛が俯いてソファに腰かけている。

 何も語らず、時折聞こえてくる鼻を啜る音を耳にする度、まるで自分のことのように胸が締め付けられた。

 あまりの悔しさに奥歯が砕けてしまうほど強く噛み締め、もし神様とやらが存在するのなら、その首根っこを力一杯締め付けて、力の限りぶん殴ってやりたい気持ちでいっぱいだった。


「あの、ご注文はお決りでしょうか?」

 恐る恐るウェイトレスが注文を伺いに来た。席に案内されてから二十分以上も経つというのに、注文の一つもせずに黙りこくってるもんだからそろそろ店長あたりが痺れを切らしたのかもしれない。

 厨房の方に目を向けると、奥で店員同士がこちらをチラチラ盗み見しながら話をしているのが確認できた。それで合点がいった。

 ――なるほど、俺達はな客に見えてるのか。

 無遠慮な視線は腹立たしかったが、それよりも今現在のこの状況をどうにもしてやれない自分に一番腹が立つ。

 これまでの人生で、自分が無力なことを思い知らされることは多々あったが、今日ほど適当に生きてきたことを後悔した日はなかった。



「あの……ご注文がお決まりになりましたら、そちらのボタンを押してください」

 沈黙に耐えきれなくなったウェイトレスは、ボタンに責任を押し付けてそそくさと離れていく。

 相変わらず真莉愛は俯いている。テーブルの上に置かれたメニューを見ているようにも見えるし、もしかしたらこれからの身の振り方を考えているのかもしれない。それとも――とっくに絶望しているのかもしれない。


 不幸とは突然訪れるものだけど、これじゃあ、あまりにもあんまりだ。

 かけてやる言葉も見つからず、ポケットの中に入れっぱなしだったチケットを握り潰し、今はただ側にいてやることしか出来なかった――





 都心へ向かう電車のなかで、彼女は鼻唄を歌いながら揺れに身を任せていた。

 買ったばかりの黒いワンピースはデザインも含めて大人っぽく、それを見事に着こなす真莉愛は普段の三割増し程度には可愛く見えた。

 もちろんそんなことは伝えるつもりもないし、こっ恥ずかしくて本人には言えやしないが。


「本当に嘘みたい。まさかプレゼントしてくれたチケットが、あの宇崎京介のピアノコンサートだなんて夢にも思わなかったよ」

「そうか、良かったな」

「良かったなって……あの世界の宇崎だよ?生で聴けるんだよ?なんでそんなに落ち着いてられるの?」


 恥ずかしながら現在のピアニスト界については無知もいいところで、今日のコンサートもどんなピアニストが演奏するかも知らなかったし、調べようともしていなかった。

 真莉愛が楽しんでくれたらそれで良かったので、甘んじて小言は受け入れていた。


「その宇崎って奴は有名なのか」

「宇崎京介を知らないなんて信じられない」

「悪かったな、無知で」

 これ見よがしにため息をつくと、頼んでもいないのに自慢げに宇崎について語り始める。

「宇崎は、日本人では数少ない生粋のショパン弾きショパニストなの。どのコンサートでも頑なにショパンのみを演奏して、どんなに頼まれても他の曲は演奏しないんだってさ。しかも学生の頃にはショパン国際ピアノコンクールを最年少で優勝してる天才なんだよ」

「そんな一角ひとかどの人物だったとはな。そいつは何歳なんだ?」

「えっと、確か四十八歳かな」

「四十五歳……。二十年前で二十五歳か」

「どうしたの?」

「いや、なんでもない。それより真莉愛のクラシックの知識はオタク級だな」

「なにそれ、誉めてるの?貶してるの?」

「誉めてるんだよ」


 コロコロ表情を変える真莉愛をからかっていると、ポケットのなかで携帯電話が鳴り響いた。

 迷惑そうな乗客の視線が集中し、慌ててポケットをまさぐる。

 普段電話がかかってくることが少ないことが災いし、乗車する前にマナーモードに設定するのを忘れていたようだ

 こんなタイミングで電話をかけてきたのは誰だと画面を確認すると、そこには知らない番号が表示されていた。


「馬鹿ね、なにしてんのよ」

 咎めるように小声で尋ねてきた。

「それが、知らない番号なんだ」

「知らない番号?」

「ああ……」

 普段なら間違い電話だろうと無視するはずだが、妙な胸騒ぎを感じたので迷惑は承知で小声で電話に出る。

「もしもし」

「あ、雨宮さんのお電話であってますか?」

「ええ、そうですが……。どちらさんですか?」

「私、阿部眞由美さんのパート先のマルシンスーパー店長の小糸と申します」

「……スーパーの店長が私になんの用で」

「用と言いますか……えっとですね。眞由美さんになにかあったらこの電話番号に連絡をしろと伝えられてまして……」

「はぁ」


 真莉愛の母親の勤め先からという不審な電話に、まず最初に警戒心が働いた。

 以前連絡先を無理矢理聞かれたことがあり、奪われるような形で教えてはいたが、実際に向こうから連絡がくることはなかったので教えたことすら忘れていた。

 もしかしたら勤務時間中にトラブルでも起こしたのではと勘繰ったが、小糸という男は何を慌てているのか、しどろもどろな様子で話が要領を得なくて困る。

「落ち着いてください。なにがあったんですか」

「あ、あ、あの……落ち着いて聞いてくださいね。実は――」

 お前の方こそ落ち着けよといいたくなったが、その後に続けて言った内容に耳を疑った。


「――そうですか。はい。わかりました。これから向かいます」

「ねぇ、どうしたの?」

 通話が切れると、無言で真莉愛の手を引いて到着した駅で降り、駅前のロータリーに停車していた一台のタクシーに駆け寄った。窓ガラスを叩いて暇そうに寝ていた運転手を起こすして行き先を告げる。

「名雲病院まで、急ぎで頼む」

「ちょっと、さっきからどうしたの?急に電車降りちゃってさ。それに病院ってなんなの?」

 行き先を突如変更されたうえに、何処に連れていかれるのかわからない不安感が、彼女の両眼にありありと浮かんでいた。


 隠しようもない事実をどう伝えるべきか――迷ったすえ、一呼吸おいて正直に伝える決断をした。


「さっき、お袋さんの勤め先から電話がかかってきたんだ」

「スーパーから?なんで律人に」

「真莉愛のお袋さんには俺の連絡先を伝えてあったんだよ。そんで何かあったら俺に電話しろと店長に伝えてたらしい……理由は知らないけどな。だが今はそんなことはいい。実はな……勤務時間中にお袋さんが倒れたんだ」

 店長はそれだけ俺に伝えた。俺も詳しいことはなにも聞かされてはいない。ただ、急ぐ必要があったことは事実だった。


「……お母さんが?何処で?無事なの!?」

「まだ正確なことはわからない。つい先程搬送されたようだからな。どうやら運が悪いことに人目につかないバックヤードで倒れていたらしくて、病院へ運ばれたはいいが……意識不明らしい」

 思い返せば、度々頭痛を気にしていたような素振りを見せていたか、まさかこんなことになるとは予想もしていなかった。

「そんな……最近頭痛が辛そうにはしてたけど、今朝まで普通に会話してたんだよ?それが、どうして……」

 途端に顔を覆って涙する真莉愛の肩を抱き、落ち着かせようと試みるが、それが功を奏することはなかった。

「いいか、落ち着け。俺にも詳しいことはわからないし、勝手な想像はできない。まずは病院に着いてからだ」

「そんな……お母さん」


 病院に向かう途中、真莉愛のお気に入りの黒いワンピースが、母を弔う喪服のように見えてしまい思わず目を背けた。

 空には鈍色にびいろの雲が低く立ち込めていた。


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