op.18

 幽鬼のようにゆらりと立ち上がった男を近くで目にして、初めてその異様さを肌で感じた。

 伸びっぱなしの髪も髭も遠目では黒い地毛にみえていたが、どうやら汚れが付着し塊となっていたために黒くみえていただけであって、所々白に近い金色の毛が覗いていた。

 何処かに正気を捨ててしまったような濁った眼は、不自然なほど青い。鼻梁もそれなりに高いときた。

 その特徴からして外国人の浮浪者である可能性が高かったが、何故真莉愛に絡む必要があるのか検討もつかなかった。


 ――偶々たまたま俺と歩いてた真莉愛を見かけて、気になって後をついてきたのだろうか――


 何がおかしいのか、男は壊れたようにヘラヘラ嗤い続け、その口が開かれる度に魚が腐ったような腐臭と、甘ったるい不快な臭いを辺りに漂わせた。

 浮浪者で、しかも薬物を使用してる可能性もある。


「なんだ。俺のこと覚えてないのかよ」

「なんだって?」

「真莉愛を連れて楽しそうに買い物に興じてたじゃないか」

「あの日って……もしかして、アンタあの日に俺を見ていた奴か」


 そいつは以前、真莉愛と買い物に行ったときに見掛けた不審な男と確かに似ていた。

 ただ、あの時よりもみすぼらしくなっていたので、すぐには気が付かなかったようだ。


「俺はお前のことをよーく知ってるぞ。何処で働いているのか、何処に住んでるのか、お前は娘にたかる蝿のような男だからな」

「娘だと……?」

「なあ真莉愛、お前の口から教えてやれ」

「この人は……」


 そんな馬鹿な、父親は数年前に失踪したはずでは――

 確かに真莉愛はそう言っていた。生きているかもわからないと。それなのに何故このタイミングで姿を現わしたのか――

 驚きと疑問が頭のなかを駆け巡るが、一向に答えはでなかった。


「この人は私のお父さんです……」

「だから言っただろ。他人のお前はこれ以上口出すな。これは

 そういうと勝ち誇ったような顔で見下ろしてきた。

「そうかよ。あんたが真莉愛を捨てたっていうクズな父親か。なんで今更のこのこ姿を現したんだ」

「お前に話すことなどない。消えやがれ」

「なっ――」


 男はポケットから鈍く光る小型ナイフを取り出すと、なんの躊躇もなく顔面すれすれを横に薙いだ。

 咄嗟に一本後ろに下がったことで刃の錆になることは間一髪免れたが、真莉愛が顔を青白くさせてこちらを見ていた。

「律人……顔が」

 頬に手を当てると、掌にベッタリと生暖かい血が付着していた。避けたつもりだったが、切先が掠めたようで切り傷からは血が滲んでいた。

「大丈夫だ。この程度掠り傷にもならない」

 ただ、店内の客は大丈夫とは言えなかったようで、

「うわぁぁぁ!ナイフだぁぁぁ!」

「嘘でしょっ!?逃げないと!」

「警察だ!警察呼べ!」


 常軌を失った人間の行動とはかくも短絡的なもので、鈍く光る切っ先をこちらに向け男は凄んでいた。

「お前は目障りなんだよ!俺の計画の邪魔になる奴は……とっとと死にやがれ!」

 向けられた刃先には、たった今斬られた俺の血が妖しく光っている。

 それまで傍観を決め込んでいたはずの客達は、突然の凶行にパニックに陥り、我先に外へ脱出しようとする客達で出入り口は寿司詰め状態となゆ。正面入り口から真莉愛を連れ出して逃げることは出来なかった。


 逆にそれまで興奮状態だった男は、ナイフの切っ先を俺から真莉愛に向け直すと、急に猫撫で声になり近寄ってくる。

「なぁ……お父さんも無理矢理連れていきたくないんだよ。お父さんの気持ちもわかってくれ」

「やだ、近寄らないで!」

「つれないこというなよ。今はたった一人の肉親だろ?お父さんの元に帰っておいで。お前は、」

「やめろ……それ以上薄汚い手で触るな!」


 男の視線が真莉愛に向いているうちに、昔していたときに覚えた関節技でナイフを持つ腕を抑え、枯れ木のような体を思いきり床に叩きつけてやった。今度はダメージなど度外視の攻撃だったので、男もひとたまりもないはずだった。

 全身のひきつれが燃えるように痛みを訴えるが、構うことなく馬乗りになって拘束を続ける。

 もし逃がしたりでもしたら、真莉愛の身にどんな危険が及ぶかわからない――なら、いっそ死んでも離すわけにはいかなかった。

 床に顔を沈めながらも狂ったように男は吠え続け、聞くに耐えない言葉を喚き続ける。


「鬱陶しいんだよテメェは!いつも娘の回りをちょこまかとうろつきやがって。せっかくあの女が死んで娘を取り返せるってのに邪魔すんじゃねぇ!」

「アンタ……さっきから勝手な事言ってんじゃ」

「いいよ律人。私から話すから」

「いや、しかし……」

「いいから、私に任せて」


 真莉愛は話を遮るように床に突っ伏す父親の前にしゃがむと、強い口調で父親であった男に告げた。

「勝手に借金作って私とお母さんを置いて出てったくせに……お母さんが死んだらまた一緒に暮らそうだって?何処でそのことを知ったか知らないけれど、素直にイエスって答えると思ってるの?とんだ馬鹿だね……アンタなんか父親じゃないよ!」

「お、おい……父親に向かってなんて口を、うぐっ」

「父親か犯罪者か知らんが、続きは警察で話すんだな」


 耳を澄ますと、外から複数のサイレンの音が段々と近づいてきていた。

 店内にいた誰かが警察に通報したようで、焦った男は関節が極っているにも関わらず、なんとかこの場から脱出しようと狂ったようにもがいていた。

「くそっ!離しやがれ!」

「誰が……離すもんか。もう二度と離さない」

 暴れる体を押さえ込もうと力を加える度に、皮膚が千々に千切れそうになる。

 ほんの少しでも気を抜いたりしたら、冗談ではなく体がバラバラになってしまうほどの痛みだったが、痛みに抗ったほんの一瞬拘束が緩んでしまった。

 そのタイミングを男は見逃さず、警察が到着するすんでのところで腕の中からすり抜け、ナイフを振り回しながら従業員用出口から逃走してしまった。

「くそっ、覚えてろよ!」と捨てゼリフを残して――


 パトカーが到着する前に逃走を許してしまったのは痛かったが、直後に続々と警官が到着してその場にいた者は起きた経緯を話すことになった。

 俺と真莉愛は当事者として最寄りの警察署で連れられ、事情を説明することになったが、事態を重くみた警察は再び襲ってくる危険性有りと判断し、近所のパトロールの強化を徹底すると約束してくれた。

 同時に、児童課の刑事から「身寄りのない彼女は施設に預けるのが一番だ」と、至極当然の、全く有り難くもないアドバイスも受けた。


 長い取調べがやっと終わり、非常階段に設置された喫煙所で煙草を吸っていると、五十代後半に差し掛かる年齢だろうか、白髪が優勢の刑事に声をかけられた。

「兄ちゃん。悪いが一本くんねぇか」

「どうぞ……」

 煙草を一本くれねぇかと刑事に強請ねだられた経験は初めてだったが、火もないというのでついでにライターを貸してやると、数回旨そうに煙を吐いてから男は自らを権田と名乗った。


「その頬、痛そうだな」

「いえ、掠り傷程度ですよ」

「今日は署内がやけにドタバタしてたけど、あんた大変そうだね」

 たいして思ってもなさそうな声だ。

「ええまぁ……」

 どこまでこちらのことを知っているのか。たまたまばったりと喫煙所で会ったというわけではなさそうだった。

 言葉とは裏腹に、その目は老獪な刑事にありがちな鋭い目線で、その底が見えない暗さに思わず眼を逸らしてしまった。

 権田は自身の目付きが悪いのは職業病だと前置きをしてから話を続ける。

「老婆心ながら忠告しておく。定職にも就いていない三十路男が子供一人の面倒を見ようなんて、そんな軽々しく思ったりするなよ」


 たった今会ったばかりの権田とかいう男は、まるで心を読めるのかと思うほど痛い指摘をしてきた。

「そんな驚くこともないさ。俺は仕事柄色んな種類の人間と家庭を見てきたからな。あんたみたいな兄ちゃんも何人も見てきたよ。考えてることくらい顔見りゃわかるってなもんだ」

「すごいですね。俺なんて顔を見たところで相手がなに考えてるかなんてさっぱりわかりませんよ」

「そりゃ、あの娘さんのことかい?」

 本当に食えない刑事だ。

「……はい。やっぱ実の親子には敵わないですよ」

 しばらく黙りこくって煙を吐き出していた権田は、まだ半分も残っている煙草を吸い殻入れに放り投げると、ドアノブに手をかけた。

「血が繋がってない家族というのはな、いわば泥団子みたいなもんだ。ちっと力加減を誤ればこねてる間に割れちまう。そもそも上手くまとまるかもわからない。それでもあんた、諦めずに磨き続ければ、いつかは光輝くと思わないかい?」


 まるであの権田とかいう刑事はわざわざ俺と話す為に来たようにしか思えなかった。本当に食えない刑事だ。

 夜空を見上げるとちょうど雨も止み、視界が一気に開けた気がした。




 かのショパンは、実の父親のミコワイ・ショパンが亡くなったと知った際にそれは酷く塞ぎこみ、立ち直るまでには多くの時間と助力が必要だった話は有名だ。

 俺は一番辛いときに誰の力も借りれなかったが、真莉愛は違う。

 どんなに辛くても絶対に側にいてやろう――そう強く願った。


「泥団子だって綺麗に輝けることを証明してやる」

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