op.17

 外は稲光を轟かせて土砂降りが降り始めていた。

 真っ白な冷たい壁に四方を囲まれた病室で、真莉愛は一人重すぎる絶望を背負っている。

 消毒液と薬品の臭いが染み付いた部屋の一角には、電話で聞かされた内容が嘘なのではと疑ってしまうほど静かに眠る母親の姿があった。

 以前は彫刻刀で彫ったような深いシワが特徴的な顔つきだったが、今では綺麗にその皺は消え、刺々しかった表情筋はすっかり弛緩している。


 全てのかせから解き放たれたような安らかな顔を見つめ、もしかしたらこの顔こそが本来の素顔なのかもしれないと思うと、元は心優しかった母親も長年の心労で心身ともに醜い姿へと姿を変えていただけなのかもしれない。

 そう思う反面、一人残された娘はどういう気持ちで母に末期の水を与えていたのだろうか――

 時が止まってしまった二人を置いて、狂いなく時を刻み続ける時計に視線を落とすと、とうにコンサートは終演している時間だった。





「午後二時二十五分、お亡くなりになりました」

「そんな、お母さん……」

 息を切らせて病室に到着すると、ペンライトで瞳孔の対光反射の確認を終えた医師が、ちょうど死亡宣告を行っているところだった。

 医師から告げられた死因は脳内出血――出血箇所が脳幹であったことと、発見が遅れたことが致命的だったようで、救急車で搬送されたときには既に助かる見込みはなかったと告げられた。


 わずか数分の差で実の母親の死に目に会えなかった現実に、真莉愛はしばらく茫然自失となった。ベッドに横たわる母親のかたわらでじっと座っている姿は痛々しく、その姿をみて激しく後悔をした。

 もしも――コンサートに誘っていたりしなければ、まだ母親の死に目に会えたのかもしれない、と。

 もしもの可能性が俺を苦しめた。



 数十分後にスーパーの店長の小糸と、その上司のエリアマネージャーを名乗る男が到着した。

 廊下で顔を合わせるやいなや、人目もはばからずに廊下で頭を下げ続けられたのだが、当の真莉愛がもぬけの殻のような状態だったので、意味があるとは到底思えなかった。

 謝罪だけでは足りないと捉えたのか、不承不承といった口調でエリアマネージャーは葬儀にかかる一切の費用と、今回のを支払うという提案をしてきた。


 どうも話がこちらに都合よく進んだのは、おおっぴらに口にはしなかったものの見舞金の内訳にの意味合いも含まれていたからだろう。

 慢性的な人手不足を都合のいい人間に押し付けていたツケだ。以前に真莉愛から聞いていたから知ってはいたが、きっとそこを突かれるのを怖れたのだろう。週刊誌にでも出回れば経営の危機となる恐れもある。


 母親の死はこの金で黙殺しろと、真莉愛は札束で頬を叩かれるような気分だったにちがいない。

 だが彼女の将来のことを考えると、それが良いか悪いかではなく、初めから選択肢は一つしかなかったのだ。

 その見舞金を受け取らざるを得ない真莉愛とは対称的に、これで臭いものに蓋が出来るのなら安い代償だ、とでも小糸達は考えていたのか、ひとしきり謝罪をして帰っていく後ろ姿はいかにもホッとした様子が窺えた。



「なぁ、なんでも良いから食べておけよ。ほら、ステーキでもパフェでも好きなもの頼んで良いから」

 急に母親が亡くなったことで真莉愛は目に見えて憔悴し、自慢の金髪も力なく垂れていた。

 このまま誰もいないアパートに帰宅させるのも気の毒だったし、何をしでかすかわからなかったので、少しでも明るいところに行こうと柄でもないファミレスに立ち寄ったのだが、到着してからも一向に正面オレを見ようとしない。


「これなんて旨そうじゃないか。どうだ?」

 メニューを広げ、やり慣れていない笑顔で尋ねた。いつもなら喜んで飛び付きそうな提案にすら首を横に振る。

「食べたくない」

「でもな、今日一日ずっと食べてなかっただろ。何か腹に入れとかないと――」

「食べたくないって言ってんじゃん。それともなに……?親のいなくなった可哀想な私の保護者のつもり?」

 そう言い返す尖った口調と鋭い眼は、まるで初対面の頃とそっくりな冷たさだった。

 俺が保護者なんかになれないのは自覚していたし、最初からわかっていたことだが、それでも言葉ナイフはやすやすと心に刺さる。深々と。


 俺は自覚していたつもりなだけだったのかもしれない――さかしくお利口な振りをしてまで真莉愛の側にいて、そのくせ憧れ夢見ていたんだ。こんな自分でも誰かの役に立てるのではないかと。

 ただ、母親を亡くしてドン底まで落ち込む真莉愛の姿をみて悟った。

 あれだけ酷い扱いを受け続けていたにも関わらず、真莉愛のなかでは母親が唯一の理解者みかただったんだなと。

 他人の俺が誰かの役に立とうなんて土台無理な話だったんだ。


 これ以上話しても余計に拗れるばかりだと予感し、もつれる糸を断ち切るように卓上のボタンを押す。



 結局ドリンクバーを二つ注文して、気分が落ち着くとポップに書かれていたハーブティーとコーヒーをカップに注ぎ入れテーブルまで運んでいる途中、それまで嫌でも聴こえていた子供の騒ぎ声が少なくなっているのに気がついた。


「やあねぇ……なにあの人」

「あのおじちゃんだれ?」

「ダメよ……。見ちゃいけません」


 なにやらテーブルの客達が、息を潜めて会話をしているようだ。不審に思い店内をぐるっと見回すと、視線の先で真莉愛が見知らぬ男と揉めているのを目にした。

 ファミレスでナンパかよ、と瞬間的に頭に血が昇ったが、それにしては男の身なりがあまりに粗末だった。

 髪と髭は伸ばしているというより、伸ばしっぱなしといったほうが正しく、昔のヒッピーのような薄汚れた格好をしている。

 どうやら相当にようで、隣の席に座る客は顔をしかめて迷惑そうに男を眺めていた。


「最初はグー、ジャンケンポン」

「うわぁ、俺かよ」

「よし行ってこい」

「頑張れよー」


 近くでは店員がじゃんけんをしている。どうやら負けた者が男を追い出す罰ゲームをかけてるようだが、それが裏目と出た。


「お客様……当店でそのような行為は」

「ああ?なんだよ」

「あ、あの、ですから、当店で他のお客様のご迷惑」

「うるせぇ!黙れ!」

「あぐ……ちょ、なにふるんでふかぁ」


 まさか自分が暴力行為を振るわれるなど微塵も思っていなかったのだろう。

 憐れな店員は振り向き様の裏拳を顔面に叩き込まれ、無様に床に転がった。

 痛そうに鼻を抑える手の隙間から血が勢いよく溢れている。前歯くらいは折れたのかもしれない。


「いいから一緒についてくるんだ!」

「やだ、離してよっ!」

 嫌がる真莉愛を無理矢理連れていこうとする男の暴挙に、とうとう我慢の限界を迎えた。いくら彼女に煙たがられようが迷惑と思われよえが、見逃すわけにはいかない。

 見立てだと男は俺より身長タッパは十センチ以上あるようだが、服の上からでもわかるほど痩せ細っていたので力は無いとみた。

 手にしたトレイを投げ捨てて駆け寄り、膝関節を後ろから思いきり蹴り抜き、崩れたところを髪を思いきり掴んで床に押し倒すことに成功した。

「嫌がってるのがわからねぇのかよ。ナンパなら他所よそでやれ」

 倒れた男はゆっくりと立ち上ると、呪詛を吐くように呟いたのを聞き逃さなかった。


「全部お前のせいだ……」

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