op.7

「いただきます」

「どうぞ。口に会えば良いけど」

 箸を手に取り、真莉愛が持参した肉じゃがを口にしていた。

 コンビニの弁当以外の料理を口にしたのは久しぶりだった。手作りの料理なんてなおさらだ。

 箸でつつくと簡単に崩れるジャガイモは、味がよく染みて十代の子供が作ったとは思えない出来だ。お世辞抜きで美味しかったと思う――本当によく染みていて、体に沁みた。


「おいしいな」

 ポツリと呟いた言葉は素の言葉だったと思う。

「本当?良かった……」

 ホッとしたように微笑む彼女の指先には、絆創膏が貼られていた。本当は料理は得意ではないのだろう――うっすらと血が滲む指先を見ると、一人で台所に立ち、黙々と料理をする後ろ姿が脳裏に浮かび上がる。

 それは孤独を背負った小さな背中だった。


「あたしさ、お父さんが借金残して出ていったって話したよね」

 箸で人参をつつきながら語り始めた。

「そんな話をしてたな」

「あたしがまだ中学一年生の頃にね、馬鹿なお父さんが親友とやらの借金の連帯保証人になったんだ。そしたら案の定というか、まぁそうなるよねってオチなんだけど、その親友とやらにまんまと逃げられたの。一夜にして莫大な借金を背負わされて、さぁ困ったお父さんは何をしたかというと、私とお母さんを残して突然姿を消した……」

「それ以来、父親とは再会もしてないのか」

「うん。一度もね」

 会ったところでどうしようもないけどね、と無理矢理笑う顔は、きっと今でもやりきれない思いを抱えているようにみえてならなかった。


「どこに住んでるのかも知らないのか」

「うん。そもそも生きているのかさえ怪しいし」

「なんでそんな話を俺にしようと思ったんだ」

 箸がピタリと止まる。

「なんでかな……似た者同士、だからかな」

「似た者同士?」

「うん。律人のことはよく知らないけれど、でも昔なにかあったような暗い顔してるよ。私と一緒で誰も近づけようとしない雰囲気あったし」


 二人きりの部屋にショパンの『黒鍵』の旋律メロディが虚しく響く。それは一つでも黒鍵から指が外れたら全てが台無しになる曲。

 ヴィヴァーチェの指示通りのギリギリの綱渡りーーまるで人生のようだと思う。

 自らの意思ではどうにもならない人生の奔流に、時として足を踏み外し、そして溺れてしまう。

 何処かで踏み外してしまって元の生活には戻れなくなってしまった俺達に、まったく相応しい曲だった。


 ――なんだ、俺は真莉愛に同情していたのか?いや、違うだろ……俺はそんなことは思っちゃいない。


「これでもね、昔はそこそこ裕福だったの。オーストリア人の父と日本人の母の間に生まれて、幼い頃にピアノを習いはじめてコンテストで優勝したことも結構な数あるのよ。だけどお父さんが莫大な借金を抱えて家を飛び出してから全て変わっちゃった」

「借金はいくらあるんだ」

「たしか……一千万はあるってお母さんがぼやいてた気がする」

「一千万……」


 そんな金額なら自己破産した方がいいのではと思ったが、どうやらタチの悪い街金からもそうとう借りていたらしく、そんな状態で弁護士事務所に駆け込んだりでもしたら、どんな報復を受けるかわかったもんじゃないと悟った。

「貧しいのは辛い。高校の授業料もギリギリだし、欲しいものだって買えない。だけど、一番悲しいのは好きなピアノが続けられなくなったことかな……」

「真莉愛はピアニストにでもなりたかったのか」

「そうだね。昔はそんな夢を持ってた時期もあった。でも、もう叶わない夢なの。世の中には努力だけじゃどうにもならないことがあるんだってわかったし……。だからピアニストになるって夢は諦めた」



 悲壮感漂う会話を無理やり笑顔で締めた彼女の表情は、言葉とは裏腹にとても夢を諦めたようには見えない苦しさが覗いていた。

 夢も、感情も、圧し殺した作り笑顔なのは、社交性がない俺にだってわかる不器用なものだ。

 自分も夢を諦めざるを得なかったからこそわかる苦しみ――真莉愛をみていると、何故こうも心が掻き乱されるのか、少し理解出来た気がする。


 真莉愛を見ていると、また胸が苦しくなった。

 自分の感情に振り回されることはとても辛く、だからこそ蓋をしてきたというのに――

 俺は、俺は一体どうしたいんだ。



 外から甲高いヒール音が階段を昇ってくる音が聴こえてきた。どうやら真莉愛の母親が帰宅したようだが、時計はまだ二十一時を過ぎた頃だ。

 いつもより相当早い帰宅に疑問を懐く。

「こんなに早く帰宅することはあるのか」

「まだお店も開いたばかりだし、抜け出すことはないはずなんだけど……」


 ふらつくような足音は部屋の前を通過していった。手すりや壁にぶつかりながら歩いているようで、素面しらふの状態でないのは確かなようだった。

 店はどうしたのかなど、とても真莉愛の前で言えない。彼女も何かを察したようで再び俯いてしまった。


「真莉愛ー!また男の部屋にいんのかい!」

 外からとんでもない叫び声が聴こえてきた。

 慌てて飛び出した彼女を見つけるやいなや、実の娘に対して聞くに耐えない言葉で罵詈雑言を浴びせる。

「あんた、私が働いている間にいーい身分じゃないか。ええ?男と乳繰り合ってどんな気分だい」

「……何言ってるのお母さん。変なこと言わないでよ。この人はそんな人じゃ――」

「友達一人いやしないあんたのことだ、どうせ優しくされてコロッといったんだろ?」

「だからそんなんじゃ……」


 血の繋がった娘に対して言っていい言葉ではない。聴いてて沸々と怒りがこみ上げてきて、思わず二人の前に姿をさらけ出した。


「あんた、さっきから聴いていればなんだよその言い草は。言っておくがあんたの娘には指一本触れちゃいない。それよりもこの時間は職場で働いてるはずじゃないのか?娘を貶して自分は酔っぱらって帰るなんて……いいご身分なのはそっちだろ!」

 女は俺の言葉にただでさえ赤く染まっていた顔をさらに紅潮させ、犬のように吠えたてた。

「あ、あんたには関係ないことだろ!うちの家庭の問題だ!ほらっ、あんたもさっさと帰るよ!」

「わかったから大きな声出さないで……近所迷惑だよ」


 なおも喚き続ける母親を部屋に押し込めるように帰宅する彼女の姿は、正直言ってこれ以上ないほど傷ついていた。

 真莉愛の手前、口にこそ出せなかったが、こんな時間に酔っぱらって帰ってくるくらいだからスナックでの勤務態度はよくないのだろう。

 そのストレスを紛らわすために娘に辛く当たる。そんな負の連鎖であることは嫌でも想像できる。

 結局それ以上声をかけることも出来ず、ただ背中を見送ることしか出来なかった。彼女との心の距離が開いてしまったような、そんな虚無感に襲われる。


 以前に真莉愛の母親と顔を合わせたことがあったが、その際もまるで犯罪者を見るような目で見られた。

 一言声をかければ、「娘をたぶらかしてなんのつもりですか?」と、それはそれは不信感を煮詰めたような、一切の反論の余地もない口調で返されたことがある。あれは酷く堪えた。

 だが、それもやむを得ない。まさか娘が一回り以上も年上の、それも素性も知れない男の家に上がっているなんて知ったら、世の母親は大層不安に思うのは間違いない。

 真莉愛が事情を説明したことで警察沙汰にはならなかったが、最後まで信じてはもらえなかったことは悔やんでも悔やみきれない。



 玄関を閉じ室内に戻ると、台所に置かれたままのタッパーが目に入る。

「ああ、すっかり渡しそびれてしまったな……そうだ」


 タッパーを手に取ると、一つのアイデアが浮かんだ。

もしかしたら少しの慰めになるかもしない。

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