op.8

「すっかすかだな……」

 驚くほど軽い財布にため息しか出ない。仕方なく硬貨を取り出す。掴んだ硬貨は百円玉三枚。

 なけなしの三百円を投入口に落とすと、吸い込まれる硬貨を見送りながら、つい数分前の自分の迂闊さを一人嘆いた。

「なんであそこで余計な一言を言っちまったんだか……」

 ほんの数分前に、つい口から漏れでた一言が厄介事を引き寄せてしまった。口は災いの元とはよくいったもので、面倒な奴の相手と無駄な出費に舌打ちをする。


 

 あれは数台のダンプカーを見送った後の事だった。何を考えていたのか、何も考えていなかったんだろうが、国道を行き交う車両を定点カメラのように見つめながら、無意識に独り言を呟いていた。


「今時の女子高生はナニをもらったら喜ぶんだろうな……」

「はい?」


 声量だって小さかったはずのただの独り言を、四、五メートルは離れたところで、同じく指示棒を左右に振って突っ立っていた小野口がその驚異的な聴力でもって聞き漏らさなかった。


「なんすか……今の不穏なワードは」

 直立不動の所作も忘れ、ずいと顔を寄せて近寄る小野口の眼には妙な圧迫感プレッシャーがあった。その迫力に思わず後ずさる。

「いや、何かの聞き間違いじゃないか」

 暑さによる発汗とは違う何かが、首筋から背中にかけて伝い落ちていく。


 無意識に思考を吐露してしまったことをすぐに後悔することになるが、よりにもよって相手が軽い性格で有名な小野口であることが致命的だった。

 絶好の機会チャンスを見つけたりと、狼狽したエモノの喉元に食いついてくる。

 そこからはピラニアの群れに襲われた手負いのヌーがごとく、為す術もなく身ぐるみを剥がされていったのはいうまでもない。

 外堀から埋められ、遂には本丸が陥落するにはそう時間はかからず、皮一枚になるまで俺のプライベートは丸裸にされたようなものだった。

 まさか真莉愛とのやり取りを、ものの数分でさらけ出すことになろうとは――



「はじめてまともに話せたと思ったら、なんすかその面白話は。よければ俺が相談相手になりますよ」

 スポーツドリンクでいいっす、と自動販売機を指さし催促する男に一睨みし、適当なスポーツ飲料を選択しボタンを押す。

 ガタンと勢いよく落下したそれを取り出すと、早く話の続きを聞かせろとでも言うようにニヤつく小野口めがけ投げつけてやった。



「で、その可哀想な女の子の笑顔がみたいって訳っすね」

「だからなんでそうなるんだ。さっきからいってるだろ。ただご飯を御馳走になってるからそのお礼をだな……」

「いや、言い訳が苦しいっすよ」


 ニヤニヤしながら鬱陶しい顔を向けてくるので、反論の一つでもと試みてはみるものの、そこは口で何枚も上手だった小野口に敵うはずもなく、ベンチに腰掛けると俺より先に投げ渡したスポーツドリンクを飲み始めた。

 一気に半分まで飲み干す姿は、CMのワンシーンのような飲みっぷりで清々しいほどだった。


「ていうか……女子高生に料理作ってもらってるって、なんすかその夢物語。しかも内容がまさかの恋バナなんてビビりましたよ。『あ、暑さにやられたのかな』って本気で心配しました」

「オイ、こいばなってなんだ」

「そんなの恋愛の話に決まってるじゃないっすか。どんだけ世間に疎いんすか。いやーまさか律さんがねー真夏に季節外れの春が来たって感じっすかね」

 別になにも上手いことは言ってない小野口の、あまりに堂々とした顔面を殴ってやりたかったが、そこは我慢した。


「なにを言ってるんだ。相手はただの子供だぞ」

「そのただの子供に料理作らせてる時点で、世間的にはまともじゃないってことっすよ。てか話を聴いてると、その子よっぽどクラシックが好きなんですね」

「ああ、まあな」

「だったらわかりきってることじゃないっすか」

「だから、なにがだ」

「あーもう。ほんと鈍いというかなんというか……こういうこというのは俺の性格キャラとは違うんですけど、その子きっと今でもピアノやりたくてしょうがないと思ってるはずっすよ。律さんの家で、その……ショパンすか?そのCDを聴いてるのも、きっと昔を思い出してからじゃないっすかねー。夢って捨てたつもりでも案外握ったままだったりしますしね」


 ――夢は握ったまま、か。


 そういう小野口は、自分の手を見つめながら語っていた。まるで自分も何かを諦めざるを得なかったような、そんな憂いを帯びた表情だった。


「まぁ、どうしようが律さんの勝手ですけどね。なにか進展があったら教えてくださいよ。でも手を出すのはさすがに条例違反アウトだから気を付けてくださいよ」

「なに言ってるんだアホが」


 くしくも全てをさらけ出すことになってしまったが、話を聴いていて、なるほどと思うところもあったのは事実だ。


 夢というのは、がむしゃらに追っている時はそれこそ太陽のように輝いているが、いざ叶わないと悟った瞬間――それまでの輝きを失い、ただの石ころに変貌してしまう。

 輝きが大きければ大きいほど、夢破れたときにただの石コロに成り果てた現実を直視するのは誰だって難しい。それこそ立ち直れないほどの喪失感を背負わなければならない。

 かといってその石コロですら、人は捨てることを躊躇ためらってしまう。


 それまでの情熱、費やした時間、栄光やら様々な記憶がかせとなり、握りしめた手から離すことを躊躇ちゅうちょさせてしまう。

 俺も、真莉愛も、そういう意味では似た者同士なのかもしれない。

 夢を諦めたと自分に言い聞かせたところで、本心を言いくるめることも出来ず、しっかりとその手に握りしめている諦めの悪い人間なんだ。



 ――悪いことは言わない。あなたには才能がなかった。それだけなの。


 またあの声が聴こえた。

 途端に息が苦しくなる。

 煙草を胸ポケットから取り出し、折れ曲がった最後の一本を吸いだすと声は遠ざかっていった。

 こんな過去の亡霊に追われてるような中途半端な俺でも、あいつ真莉愛にしてやれることなんてあるのだろうか――


 まともに伸ばすことも曲げることも難しい右手を眺めながら、引き攣ったまま離せなくなってしまった過去を、俺は一体どうしたいのか。真に捨てることを選択しなければ、いつまでたってもこのままなのではないのか。

 じりじりと頭を焼く太陽は、今年最高気温を記録した。

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