op.9

 今日もリビングには母の叱咤が飛んでいた。

「違う。まだ粗いわよ。何度も言ってるでしょ?ピアノは力まかせに叩けばいいってもんじゃないって。大事なのは鍵盤を叩く強さじゃなくて、速度スピードなの。むやみやたらに指を上下に動かしたって良い音は奏でられない。いい?指の力で弾こうとしてはダメ。鍵盤にたいしての突きは垂直である意識を忘れないで。手首の角度も必要以上に曲げないことを体に覚えさせなさい。あとスタッカートは指、手、前腕、上腕を同時に持ち上げること。わかった?」

「……はい!」


 小学六年生になり身長が急激に延び始めた頃、はやくも実力は頭打ちを迎えていた。

 焦りが体に無駄な力を生じさせ、指の一本一本が言うことを聞かなくなっていたのだ。

 コンクールの予選も書類審査で落ちることが多くなり、それまで下にみていた同世代の子供達や、年下の幼い子供が上位の成績を残すのがごく当たり前となっていた。

 運良く審査を通ったところで、遥か年下の子供が天才的な才能で審査員の目と耳を釘付けにしていく。そしてその瞬間に敗北を悟る。


 ――ああ。これが本当の才能なのか、と。


 アクセルをベタ踏みしてやっとこさ八十キロで走っている横を、鼻唄混じりに悠々と二百キロオーバーのスピードで抜かされていくような、堪え難い屈辱感を何度も舞台ステージで味わされた。

 ある時なんて、久しぶりに本選に出場できたと思ったら、ステージ袖で審査員に自分は辞退した子の代わりだと、あからさまに笑われたこともあった。

 何度も不甲斐なさに涙を流して、それでも必死に母の練習に喰らいついたのは、母のようなピアニストになるためだった。

 死に物狂いで鍵盤を叩き、才能で劣るなら努力で誰にも負けないように、と母の教えを血肉にするべく頑張った。



 ちょうどその頃、世界も、日本も、家庭環境にも変化が生じ始めた。

 海外の投資ファンドの倒産を発端に世界的な金融危機へと発展し、それまで好景気の恩恵を受けていた父の会社もその余波を受けてしまい、銀行からの融資を受けられなくなってしまう。

 すると売り上げも右肩下がりに落ちていき、それまで明るかった家庭もそれに比例するように照度を低下させていった。父と母の夫婦仲も冷めていったのは言うまでもない。

 昔はよく見かけた仲を確かめ合うような小競り合いすら、今では殺伐とした争いに変化してしまった。


「今は大変な時期だけど、ここが頑張りどころよ。今を乗りきればなんとかなるから……」

 練習中に度々母はそう口にしていた。

 その言葉を当時は額面通りに受け取っていたし、今直面している壁を乗り越えさえすればまだ成長できると本気で信じていた。

 その頃、我が家には弟が誕生していた。奏太と名付けられたまだよちよち歩きしか出来ない赤ん坊は、殺伐とした家庭の唯一の清涼剤もいってもいい。

 僕も奏太の自慢できる兄にならなければと腹をくくって、母の言葉を力に変えてより一層ピアノに向かっていた。


 ――ここが頑張りどころよ。


 だけど、その言葉は母が自分にむけて言い聞かせていただけなのかもしれない。


 

 景気は一向に回復する兆しはなく、両親は両親で互いを罵り合う喧嘩が日に日に増え、とうとう暴力へと悪化していった。

 それと同時に母は外出する頻度が増えていき、僕と奏太を残しては夜遅くまで出掛ける日が週の半分を越えてくると、たまりかねて流石に母に訊ねた。

「どうしてお母さんは奏太を置いて出掛けるの?」


 本当は自分が一番出かけて欲しくなかったくせに、奏太をだしにして聴くと「お母さんもピアノのレッスンがあるから」と言っていた。

 服装はピアノのレッスンにしては華やかな花柄のワンピースだったり、普段つけることのない香水の匂いを漂わせていたりと、子供ながらに違和感を感じることが多々見受けられた。

 父はというと、「家事だけはやっておけ」と母に告げるだけで、それ以上は何も言わなくなっていた。


「行ってくるね」

 玄関から出ていく母の背中を見送る度に、腹の下の方に原因不明のモヤモヤが溜まっていく。

 奏太は訳がわからずただ泣くばかり。

 いつのまにか僕のレッスンも限りなく減っていった。たまのレッスンをしたところで上の空な母に嫌気も差していた。



「アァァァァ!」

「よしよし、良い子だから泣き止んで」

 母がいない間、置き去りにされている奏太の面倒は自分が見ていた。

 泣きじゃくる弟をやっとのことで寝かしつけると、リビングで昼間から酒に入り浸っている父に訊ねる。

「なんでお母さんは毎日出掛けるの?」

 ある日、学校でクラスメイトに好奇心を丸出しにして聞かれたことがあった。

「お前の母ちゃん浮気してるんだって?」

「……なにバカなこといってるんだよ」

「だって母ちゃんがいってたぜ。お前の母ちゃんが派手な服着て男と車に乗っていたって」

「それは……なにかの見間違いなんじゃない」

「母ちゃんいってたぞ、アメリカ人は色々んだってさ。なにがゆるいんだろな」


 そう言いながら笑うクラスメイトと、遠巻きにこちらの様子を窺っているクラスメイトの視線が気持ち悪く、結局その日は早退をした。

 迎えに来た母は息子を家まで届けると、その足で再び出掛けてしまった。

 やはり話に出ていた男のもとだろうか――出掛けたきり次の日の朝まで帰ってくることはなく、朝まで眠りにつくことはできなかった。



 息子の問いに父はすぐに反応することはなく、手元のグラスの中の氷を弄ぶように揺らすと、泣いているようにも笑っているようにも見える表情で答えた。

「さあな。今ごろ夢中なんじゃないのか」

「なに……それ」

「お父さんには、もうあいつのことはわからないんだ」

 吐き捨てるようにそう言いながら、飲み干したばかりの空のグラスになみなみとウィスキーを注ぐと一息にあおった。

 無駄に広いリビングに腐った臭いが充満していた。


 ――ピアノ以外のこととは一体なんなんだ。

 父にそれ以上尋ねることも出来ず、夜になってやっと帰宅した母に直接問いただしてみることにした。日を跨いでから帰宅した母の眼は据わっている。


「ねえ、お母さん」

「なに……今疲れてるから明日にしてちょうだい」

 母から甘ったるい臭いがした。

「あのね、お父さんがいってたの。お母さんが出掛けてるのははピアノ以外のことに夢中だからって、そんなことないよね?知らない男の人と車に乗ってどこかに行ったりしてないよね?」

 その言葉に顔を青醒めさせた母は、僕を残して二階の寝室へと向かっていった。

 直後に父との罵り合いが始り、暫くするとボストンバックを抱えた母が玄関に戻ってきた。

 その瞬間、とても嫌な予感が頭をよぎった。

 脱ぎっぱなしだったヒールを履き直す母の腕をとって懇願する。


「ねえお母さん!こんな時間に荷物なんて持ってどこに行くの?嫌だよ!行かないでよ!」

「ごめんね。お母さんはもう律人のお母さんじゃなくなるの。本当にごめんね……」


 出ていこうとした母は、一度だけ思いきり僕を抱き締めると、外の暗闇へと姿を消した。

 母が戻ってくるまで待機していたのか、時間帯も考えないエンジン音が軒先から聴こえ、裸足で飛び出した僕は消えていくテールランプを見ているしかできなかった。


 それきり、母の姿を見ることは二度となかった――

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