op.10

「律さん、律さんってば」

「ん……ああ、悪い。なんだ」

 意識が現実に戻されると、眼前に小野口の見たくもない顔が視界いっぱいに映りこみ、目覚めとしては割りと悪かった。

「なんだじゃないっすよ。急にぼーっとしちゃって全然反応しないんすもん。そろそろ戻らないと、また荒木さんからドヤされますよ」

「それは御免だな。戻るとするか」


 そういえば、荒木がいっていたはまだ有効だろうか――小野口にいわれたからではないが、アレを渡したら真莉愛が喜ぶのは間違いない気がした。

 飲み干したペットボトルをゴミ箱へと投げいれる――これが入ったら頼んでみるか。

 大きく放物線を描いたペットボトルは、小さくカコンと音をたてた。



 その日の仕事が定時を迎えたあと、現場監督の荒木に声をかけた。無論、世間話などではない。

 夕食のお礼として真莉愛にクラシックコンサートのチケットが渡せたらと思い、まだ手元にチケットがあるか確認するためだ。


「監督、話があるんですけど」

「ああ?なんだ珍しいじゃねえか……お前から話しかけてくるなんてよ。ゲリラ豪雨でも降ってくるんじゃねえか?」

 そういって下卑た高笑いをするのは、もはや定番だったので気にもしない。相変わらず一言も二言も多い男だけれど、これもチケットのためだと自分に言い聞かせて話を進める。

「先日話してたクラシックコンサートのチケットの件ですけど、あれってまだ生きてますか」

「チケット?……ああ、あれな。あれは残念ながらもう手元にねぇよ。昨日話しかけてたら、まだ間に合ったんだがなぁ。それにしても、お前みたいな唐変木が急にどうしたんだよ」

「いえ……別に……」

 密かに期待をしていたぶん、チケットが無いと聴いて、思った以上に落胆している自分がいた。


 ――そんなに喜ぶ顔が見たかったのか?


 嘲り笑う声がどこかから聴こえてくる。

 何をいってるんだ。タダで手に入れることが出来たら御の字程度の話だろ。

 馬鹿な考えを振り払い、ないなら買えば良いじゃないかと財布の中身を確認したが、縦に振っても横に振っても出てくるのはコンビニのレシートとゴミくらいなもんだった。

 先程ペットボトルを買って素寒貧すかんぴんになってしまった俺は、今日の晩御飯すら食うに困る身分だと改めて思い知らされる。

 子供一人喜ばすことも出来ない人間なのかと苦笑いをするしかなかった。


 ――そうだ、お前がしてやれることなんてそもそもないんだよ。


 ただの隣人でいるべきだ。もう関わるべきではない。その日は重い足取りで帰宅の途についた。

 どうしてここまで真莉愛に肩入れしようとするのか、いよいよわからなくなったきた。なんだか余計に疲れた気がする。



 その日は帰宅してからが大変だった。

 アパートに到着した直後、真夏だというのに尋常じゃない悪寒に襲われ、体の震えが止まらなくなり、手足が自らの意思とは無関係に痙攣が止まらなくなってしまった。

 怪我を除けば、これまで大病らしい大病は患ったことはないが、人一倍丈夫だと思い込んでいた体は、とうとう悲鳴をあげたようだ。

 タチの悪い夏風邪でも拗らせたのかと、解熱剤を飲んでも効果は示さず、朦朧とする意識で熱を測ってみると、小さな画面には四十一度と表示されていた。

 「これは、不味いな」

 布団を敷いてすぐに横になったが、体の異常は収まるどころ悪化していった。震えも痛いほど強くなっていく。


 そのうち枕元に何処いずこへ消えた母の幻覚まで見るほど様態は酷くなり、次第に暗く遠退く意識のなかで、若い姿のままの母がじっと俺を見下ろしていた。

 いっそこのまま起きることのない眠りにつけたら、どれだけ楽になれるだろうか――そう考えながらとうとう気を失ってしまった。




「酒持ってこい!律人!」

 六畳1Rの部屋は日当たりが悪く、一年中嫌な湿気が満ちている。中学校から帰宅すると、まずカーテンを開けるのが日課になっていた。

 昼間にも関わらずカーテンを閉めきっている父は、片手には二リットルいくらの格安焼酎を手にしていたが、それは既に空となっていた。


「またこんなに飲んで……」

「うるせぇ……俺の勝手だろ」


 以前はたいして強くなかった酒を、これでもかと胃に流し込み、肌はみるみる黒くくすむようになった。子供でもわかるほどにアルコール中毒へと陥っていたと思う。

 その手に握られている空きペットボトルは、確か昨日開けたばかりのボトルだった気もするが、指摘したところで聞く耳を持たないどころか、暴力に訴える父に最早かける言葉はなかった。


 現実から眼を背けるように、分厚い殻に閉じ籠って心に鍵をかけた父は、昔の真面目さも不器用な優しさも、完全になくしていた。

 母が出ていってから全てが崩れ落ちていくのは、あっという間の出来事だった。

 会社の経営状態はどこまでも下り続けるジェットコースターのようで、ついには不渡りを出すまでに至った。

 オフィスも家も抵当に入れていたために銀行に取り上げられ、抱え込んだ莫大な借金を返済するには自己破産という最後の選択を選ばざるを得ず、自家用車も高級家具も父の自慢の骨董品アンティークも、そして母の残していったピアノでさえも、一切合切関係なく手放さなくてはならなかった。


 職を失い路頭に迷い、まだ幼い奏太を抱えて心神喪失となった父と共に暮らしていくのは、多感な時期の子供の人格を変えるには十分だった。

 そんな環境では、ピアニストになるなんて大それた夢はとうに消えていたが、それでも生きていけたのは奏太の存在が大きかったからだと思う。


 アルコールに溺れ、なにもしない父の代わりに奏太を保育園へ送り届け、家事その他を一身に引き受けて、帰りは制服を着たまま迎えに行く。

 最初の頃は保育士全員から怪訝な眼差しを向けられていたが、今は生暖かい憐憫れんびんの眼差しで迎えられる。

 おおかた、まだ子供なのに可哀想――とでも噂されているのだろうが、この時期には心が既に麻痺していた。ちょっとやそっとのことでは動かなくなっていたのだ。

 感情があるからこそ苦しむんだ、と自分の心に鍵をかけて、今を堪え忍ぶ選択を中学生ながらに選ぶしかなかった。


「こんにちは。奏太を迎えに来ました」

「ああ、律人くんこんにちは。あの、ちょっといいかしら」

「なんですか」

 いつも出迎えてくれる若い保育士が、気まずそうな顔で教室へと促した。

 早く奏太を引き渡してくれればいいのに、と思いながらも後をついていくと、教室では奏太が寝息をたてて布団で寝かされていた。ずいぶんと泣いていたのかまぶたは赤く腫れている。


「実はね、奏太くんお友達と喧嘩したの」

「奏太がですか?」

 普段は大人しくて自己主張しない子だと思っていた奏太が、喧嘩をしたと聴いてまず驚いた。

 そして次の瞬間、相手にもし怪我でも負わせたら――その考えに至り顔が青ざめる。

「あ、でも勘違いしないでね。とくに怪我をさせた訳じゃないから。それにあの年頃だとよくあることだし、相手の親御さんもそれは理解してくれてるから安心してちょうだい」

「そうですか……それなら良かったです」

「伝えておきたかったのはね、奏太くんは目を離すとすぐにピアノを弾きはじめるのよ」

「ピアノを……ですか」

「そうなの。勝手に弾いちゃダメって何度も注意するんだけど聞いてくれなくてね。それで今日も一人で弾いていると、お友達が一緒に遊ぼうと思って隣に来たらしいのよ。そしたら喧嘩になっちゃってね」

「そうなんですか。なにが原因なんでしょうか」

「話を聞くと『りっちゃんに笑ってほしいから』っていうのよ。なんだかそれを聞いたら怒るに怒れなくて。一応伝えはしたけど奏太くんを怒らないであげてね。あの子は人一倍優しい子だから」


 そういうと保育士はまだ寝ている奏太を優しく抱き起こし、僕に引き渡した。

 抱き抱えると少し、重くなっている気がした。

 奏太はりっちゃん、りっちゃんと、無邪気に笑いながら後をついてくる。どんなに不遇な環境でも満面の笑みでついてくる姿を見ていると、道を踏み外してしまいそうになる心が落ち着くから不思議なものだ。

 こんなことで自暴自棄になってなるものか、と余計な感情に蓋をして現実と向き合ってきた。

 恥を忍んで同級生の家を回り、夕飯の残りでもパンの耳でも恵んでもらおうと、小さなプライドを捨ててまで奏太のために生きた。


 親はいなくとも子は育つというが、奏太はこんな環境でもちゃんと育ってくれている。その事が嬉しかったし、自分の努力は無駄にはなっていないと実感できた。

 その奏太が、僕に笑ってほしいからとピアノを練習していると聴いて、その場で思わず涙を流してしまった。

 奏太を背負って歩いていると、とてもじゃないが我慢できない。人目をはばかるることなく大粒の涙を流す。

 この温もりを放してなるものか――唯一の宝物を両手でしっかり抱き締める。



 父は気まぐれにどこかへと出掛けることがある。大抵一日は家を空けることになるが、パチンコか競馬だろうが、どうせ当たりっこないギャンブルだと思う。

 そういった理由で家を空けている時間を見計らって、押し入れの奥に隠しておいたCDを聞く時間が増えていた。


 ショパン12の練習曲エチュード

 幼い頃から繰り返し聞いていた――そして母が置いていったCDを何度も何度も繰り返し聴き直し、音符を完璧に頭に叩き込むまで何百回と聞いていた。

 先生に頼んで誰に教わるわけでもなく音楽室のピアノの鍵盤を弾きはじめた。

 三年振りに触れた鍵盤は、生まれて初めて触れたときのように重く感じ、硬い音しか響かなかったが、そこからは昔の自分を取り戻すようにひたすら弾いた。


 一日休むと勘を取り戻すのに三日かかると言われるピアノを、三年のブランクもある自分が本来の実力を取り戻すまでどれだけの時間がかかるのか――

 途方もない練習量が必要になるだろうが、再び胸に宿った小さな火を消したくはなかった。

 奏太のためにも、自分のためにも、ピアニストになるんだと己を奮い立たせながら一心不乱に弾いているうちに、次第に音楽部の生徒と話すようにもなっていった。


 最初は気味悪がって近寄ってこなかった名も知らぬ同級生達は、僕の演奏を聴いているうちに話しかけてくるようになり、さらに噂を聞きつけたクラスメイトとも親交をもつようになり、それまで関係を持とうとも思わなかった生徒とも話す機会が増えた。

 皆が皆、手を叩いて自分の演奏を誉めてくれたのかは嬉しかった。

 いつだったか、洗面所の鏡をみて気がついた。小さな鏡に写っていた自分の表情が、いくらか明るくなっていることに――そして、隣で奏太もニコニコ笑っていることに。


 奏太が隣で笑ってくれる限り、自分も隣で笑っていよう。そう心に決めた。

 それなのに、神様は僕たち兄弟のことをまともに気にかけてはくれなかった。

 結局、僕はなにもかも失うことなってしまったのだから――

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