op.11
眼を覚ますと、もう取り戻せない過去の夢をみていたことを思い出す。
まだ体力が回復しきっていない体は筋肉が消失してしまったかのように重く、起き上がることさえ困難だった。
「うっ……」
それでも無理に上半身を起こそうとすると、背中の引き攣れが悲鳴をあげ、煎餅布団に力なく倒れてしまう。思わず呻き声が出てしまった。
すると倒れた拍子に、
わを
確かすぐに意識がなくなったはずだと訝しんでいると、キッチンから小気味いいリズムで何かを切っている音が聴こえてきた。
それとぐつぐつと何かを煮ている音も。
腹の虫が盛大に鳴くと、俺が目覚めたことに気づいた彼女が振り向いた。
「あ、やっと起きた。気分はどう?大丈夫?」
「ああ……。それより、どうしてここに」
「ドアを何度ノックしても反応がないからさ。なんか嫌な予感がして、大屋さんに事情を説明して鍵を借りて部屋に入ったの。そしたら律人が酷くうなされて倒れてるんだもん。ビックリしたよ」
まさか真莉愛に助けられていたとは、夢にも思わなかった。
「そうだったのか……助かったよ」
「そうそう。あと胃に優しいおかゆも作ったから、よかったら食べなよ。最近ちゃんとご飯食べてなかったんでしょ」
そういいながら、責めるようにテーブルに起きっぱなしだった弁当を指差す。
「恥ずかしい限りだ……」
彼女の献身的な行為に、思わず俯くしかできなかった。
「どうしたの?もしかして、あたし余計なことした?」
情けなかった。他人との関り合いを避けてこれまで生きてきた俺は、結局一回り以上も年下の子供に助けられたではないか。
「いや、違う……違うんだ。ただ、俺はどうしようもない人間なんだなと思い知らされただけだ」
女子高生に心配されて、挙げ句の果てに看病までされるとは、俺はどこまで惨めな男なんだと自分に嫌気が差す。
――もう楽になっちまえよ。生きててもしょうがねぇだろ。
また誰かが囁いた。心の隙間から忍び込んできた甘言は、弱った体にいとも簡単に侵食してくる。
手渡されたお粥に塩が入りすぎていたのか、余計に塩辛く感じた。
「そんなこと言わないでよ。これでもあたしだって感謝はしてるんだから……。あの日助けてもらわなかったら、どうなってたかわからないんだし。だからね……困ったときはお互いさまでしょってこと。わかった?」
初めて会ったときは牙しかみせなかった彼女が、まさか俺に感謝しているといったことに驚き、気がついたら頬を涙が伝い落ちていた。
「ちょっと、今度はどうしたの?」
「いや、なんでもない」
外で鳴いている
もう夏も終わりが近づいている。
手作りの食事をすませて落ち着いた頃、俺は何を思ったのか自分の過去を真莉愛に話始めた。
日本人の父とアメリカ人の母の間に生まれたこと、母は売れないピアニストだったこと、母の姿に憧れてピアニストを目指したこと、母に逃げられたこと、どうしようもない父と守るべき弟を抱えて必死に生きていたこと。
包み隠さず話すうちに、体の内側にこびりついていた錆が少しずつ剥がれ落ち、いくらか心が軽くなった気がした。
誰かに過去の話をするなんて初めてで、唐突に重い内容の話を聴かされてさぞ引いてることだろうと真莉愛の様子を伺うと、眼に涙を溜めて話に耳を傾けていた。
まるで自分のことのように受け止める彼女をみて、思わず抱き締めたくなった自分の下劣さを恥じ、獣のような感情を押し殺した。
「そのお父さんと弟の奏太くんは、今はどうしてるの?」
ずきりと胸が痛む。だが今なら話せるかもしれないと、震える右手を押さえて話始めた。
俺がこうなってしまったあの日の続きを、そして夢の終わりを――
ピアノの練習を再開して一年、本調子とはいかないまでも想定の何倍も早く勘を取り戻していた。
有名音大を卒業している音楽の教師から、直接指導してもらえたことが大きかったのかもしれない。
いつの間にか僕は音楽部の一員になり、自然と笑顔で会話できるほどに昔の自分も取り戻していた。友達もできた。慕うべき恩師もできた。
母が出ていってから、初めて感じる幸せに一時の安息を手にいれたが、その瞬間はあっという間に訪れた――
その日もいつものように音楽部の活動を終えて保育園に向かっていた。
少し部活が終わるのが遅くなっていたので、もしかしたら奏太の機嫌が悪くなっているかもしれないと、そう案じて急いで園に向かっていた。
「なんだろ……火事かな?」
数台の消防車が、サイレンをけたたましく鳴らし通りすぎていく。
不必要に神経を逆撫でるサイレンの音が嫌に耳に残り、遠ざかっていく緊急車両の群れを見送る。
「おっと、ぼさっとしてる場合じゃないや」
こんなところで道草を食ってるわけにはいかないと急いで奏太を迎えにいくと、顔を青醒させた先生が園内をうろうろしているのに気がつき、声をかける。
すらと、こちらに気がついたようで慌てて駆け寄ってきた。
「なにかあったんですか?」
「あのね……律人くん」
いつもと様子が違う。敷地内に入ったときから
、保育園を包む空気が慌ただしいことには気がついていたが……。
「あのね……落ち着いて聞いてちょうだい」
まるで酸欠になったように次の言葉が出てこない先生を不審に思っていると、先生の口から恐ろしい言葉が飛び出てきた。
「奏太くんが……奏太くんがどこにもいないの」
「奏太ー!どこにいるだー!返事してくれー!」
「奏太くーん!どこー!」
僕と保育士総出で近隣を探し回った。
途中から110番を受けた警官も途中から加わり捜索に当たったが、子供の足で移動できる範囲をしらみ潰しに探したが、いっこうに見つかる気配がなく、時間だけがいたずらに過ぎていく。
堪えかねた僕は先生に問い詰めた。
「なんで誰も奏太を見てなかったんですか!」
「こんな事態になるなんて……本当にごめんなさい……。ただ、最低一人は保育士が園児の様子を見ている決まりになっているんだけど、その子がお手洗いに行ってる隙にどうやらいなくなってたみたいなの」
そんな言い訳を聞きたいわけではなかったが、ここで問い詰めたところで奏太が帰ってくるわけもなく、悔しいが捜索に戻ることにした。
「本当にごめんなさい……。今日は奏太くんの誕生日だというのに」
保育士の言う通り今日は奏太の四歳の誕生日だった。奏太を迎えに行ったら、その足でなけなしのお小遣いを使って誕生日ケーキを買いにいく予定だったのに……。
それなのに、どうしてこんなことになってしまうのか――
罰を与えられるようなことをしたつもりはないというのに、人生はいつも決まって急転直下する。
「なんだか、焦げ臭くないかしら……」
その時、突然立ち止まった保育士が呟いた。
確かに風に乗って焦げ臭い匂いが漂っている。そう遠くはないなと思っていると、再びサイレンを鳴らした消防車が横を通りすぎていった。
「何処かで火事かしら」
今はそれどころじゃないだろ、といいたくなったが、数百メートル程先に黒い煙がもうもうと上っているのを目にした瞬間、言葉にできない焦燥感に襲われた。
もしかしたら、先程通りすぎていった消防車は――
「あ、律人くん!」
誰に言われるでもなく僕は家事の現場へと駆けていった。
心臓が破けそうなほど走った。現場に近づくにつれ、木材を焼く燻された煙が向かい風に乗り、嫌でも粘膜を刺激する。
それでも構わず進んでいくと、仰々しいほどの数の消防車とパトカーが道を塞ぎ、面白半分に集まった野次馬たちが行く手を阻んでいた。
「すみません、退いてください!」
自分よりも大きな大人たちを押し退けて、人の群れから押し出されるように飛び出すと、目の前には生き物のように暴れまわる炎に焼かれている我が家があった。
幾重にも真っ赤な蛇が絡み合うように、全てを等しく焼き尽くす光景に言葉を失った。
遅れてやってきた先生のもとに、息を切らせてやってきた別の保育士が耳元でなにかを伝えている。それを聞いた先生は途端に表情をなくし、顔を蒼白くさせた。
なにかの伝言だろうか――もしかして奏太が見つかったんじゃ。
しかし、次の瞬間に告げられた言葉は、淡い期待を打ち砕く非常な宣告だった。
「保育士の一人が……奏太くんのお父さんが迎えに来ていたって」
「え……父さんが?」
いつも家に引きこもっている父がそんなまめなことをするはずがない。
その瞬間僕はアパートに飛び込んでいった。もしかしたら、生きることに絶望した父さんが部屋に火を――
そんな最悪な想像をしながら、もしかしたら奏太を抱えて逃げているかもしれないと、小さな胸中には濁流のように様々な可能性が浮かびあがり、火の粉によって次々と焼かれていく。
背後では放水活動に専念していた消防士がナニか叫んでいたが、躊躇うことなく炎のなかに飛び込んでいった僕は、あまりの煙の多さに驚き灼熱の熱さに肌が焼かれていく痛みを感じた。
「父さんっ!奏太っ!」
たった六畳の室内は煙が充満してなにも見えず、少しでも煙を吸わないようにと這って移動すると、早々に倒れている父を見つけた。
その眼は既に光をなくし、だらしなく
そして、押し入れの前には奏太がなにかを団子虫のように丸まって倒れていた。急いで仰向けにして安否の確認をしたものの、父と同様に眼は曇り、既に息もしていないことがわかってしまった。
「奏太!おいっ!目を覚ませ!」
瞬く間に部屋中に火の手が回り、逃げ道も失った今、このまま一緒に業火に焼かれてしまおうか――そんな考えが頭をよぎった。
――そうだ、家族と一緒に死んじまえよ。
どこかから声が聴こえる。
そうだ、楽になってしまおう。
生きる気力を失いかけたその時、ふと奏太が何かを大事そうに抱えていることに遅れて気づいた。薄れゆく意識で必死に離すまいと握っていたナニかを剥がしとると、それはショパンのCDだった。
「なんで、こんなものを……」
支えきれなくなった天井が音を立てて落ちてきて、そこで僕の意識はなくなった。
それから二週間後、奇跡的に救出された僕は、集中治療室で死の境をさ迷い続けていたと説明を受けた。。
生き残ったものの全身に酷い火傷の跡を負い、鏡で見た自分の姿はミイラ男のようだった。
「それで……お父さんも、奏太くんも、助からなかったの?」
「死因は……親父も奏太も煙を吸い込んだことによる窒息死だとさ。煙草の火の不始末が原因らしいが、あっけない死に方だよな。どうしてあの日に親父が奏太を迎えにいったのかはわからないが、家族を失った俺の人生はあの日から落ちるとこまで落ちていったよ」
奏太を失ってからの人生は、荒れに荒れた。思い出したくもないほどに。
「そんなことって……」
「目覚めた俺の枕元には、俺と同じく奇跡的に残ったCDケースが置かれていた。俺は出ていった母の忘れ形見を、家族の命と引き換えに守ったようなものだ。壊してやりたいほど憎いはずなのに捨てきれなくて、こうして今も手元に置いているんだよ」
「そんな……そうとは知らずに勝手に聴いたりしてごめんなさい……辛かったでしょ」
涙を堪えて訊ねてくる真莉愛になんと答えれば良いかわからなかった。
その問いに辛くないと言えば嘘になるが、あのときと今では違う気がした。
赤の他人に「悲しみは時間が解決する」なんてありきたりな言葉でまとめられるのは真っ平ごめんだが、真莉愛と接している時だけはそんな言葉も説得力を持つ。
現にこうして過去を話すことができたのも、無自覚だろうが彼女のおかげかもしれない。
棚に置かれたCDをセットして再生ボタンを押すと、もう戻ることのない大切な日々が脳裏を駆け巡っていく。
「りっちゃんに笑ってほしいから――」
奏太の願いを忘れていた。
よろめく膝に力をいれて立ち上がる。
苦しいが、なんとか一歩を踏み出せそうだった。
まだ歩ける。奏太のぶんも
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