op.6
膝にぽとりと灰が落ちる。その熱さに思わず手で振り払うと、蛍火のような僅かな火種が、深い暗闇へと落ちていった。
視線でその行方を追うと、その先にけばけばしい装いをした女性の姿が窺えた。
一昔前、いや
諦めると腰を下ろし、手すりに掴まって喚き始めた。
「いるだろー!助けろー!」
何時だと思っているんだあの女は――
深夜にも関わらず大声で喚きちらす母親の声に、いつの間にか静かに寝息をたてていた真莉愛は、飛び上がるように目を覚ました。
「もう……また酔っぱらって帰ってきた」
「あれが、お前の母親か」
短くなったタバコの先を見知らぬ女に向けると、真莉愛は暗い顔で頷いた。
「うん……あれがお母さん。あの、今日はありがとね」
そそくさと部屋を出ていこうとする背中に自然と声を掛けた。
「ああ、またこいよ」
その言葉を放ってから一人驚いた。
自分の口から再会を望むような言葉が出るなんて、歴代の彼女にすら告げたことはない。
言い間違いをしたのではないかとさえ思ったほどだ。
まさかの申し出に振り返った真莉愛は、しばし瞬きを繰り返して儚い笑顔で答えた。
「うん。またCD聴かせて」
そういい残し、今も叫び続ける母親のもとへと駆け降りていく。
一人残された部屋には、確かに今さっきまでここに他人がいた匂いがした。
汗が滴り落ちる。地面に落ちた滴の跡は一瞬にして姿を消した。今日も空には雲が見当たらず、これで一週間連続の猛暑日だった。
テレビ画面の向こうでは、お天気お姉さんが涼しげな顔で今日も酷暑となると告げていたのが腹が立つ。
「しっかし、こんな日に突っ立ってるだけなんてやってられないっすね」
今時の若者らしく、タメ口で小野口
やってられないのは同意だが、始まってまだ一時間も経っていないのにこの先大丈夫かと心配になる。
小野口は先週倒れて以来姿を現すことの無かった
「律さんって暗いっすよね。そんなんじゃ彼女もできないっすよ」
「
「へいへい。暑くて機嫌が悪いっすね」
「おい」
「あ、トラック来ましたよ。ほら仕事しないと」
またトラックがやって来た。運転席から顔を覗かせたのはあの時代錯誤の運転手だった。
「おー亘じゃねぇか。元気してっか」
「ウィッス!」
小野口は人の懐に入り込む要領だけは良かった。現場に一日で馴染んだと思ったら、出入りするドライバーとも仲良くなる荒業を目の前で披露し、驚かされたもんだ。
俺には到底真似できない。チャラチャラした格好も気にくわないが、こういう奴が可愛がられて必要とされていくんだなと思うと、やりきれない思いもあった。
「これでも飲んで午後も頑張れよ!」
「アザっす!あ、律さんのはないんすか?」
「あ?あーそいつは大丈夫だろ。ボーッと一日突っ立ってられんだからよ」
この扱いの差だ。また積載量を越える瓦礫を積み込むと、黒煙を撒き散らして去っていった。
ダンプが去っていくのを見届けると、小野口は表情をコロッと変えて渋い顔をさせる。
「あのオッサン口悪いっすよね。俺嫌いっす」
「まぁそう言うな。ああいう性格なんだからしょうがない」
「そうっすけど、律さんのこといちいちバカにするじゃないっすか。ああいう人間って生理的に無理っす」
「そのわりには親しそうに接してるじゃないか」
「あれは
その日の仕事を終え帰宅すると、いつものように自宅で缶ビールを飲んでいた。
あの日から一週間経つが、真莉愛の姿は目にしていない。別れ際に見せたあの消えてしまいそうな表情が頭から離れず、三十にして悶々とする日々を過ごしていた。たった二部屋先に住んでいるというのにやたら遠く感じる。
食欲もさらに減ってしまったようで、買ってきた大盛カツ弁当は手がつけられないまま放置されていた。
ふと、棚に置かれたCDに目が止まる。
ジャケットには鬼気迫る表情で演奏する男がアップで写されていた。
マウリツィオ・ポリーニ。十五歳でジュネーブ国際コンクール準優勝、十七歳でポッツォーリ国際ピアノコンクールで優勝、翌年十八歳でショパンピアノ国際コンクールで審査員全員一致で優勝と華々しい経歴を誇る天才。一躍国際的な名声を勝ち取るが、その後十年近く国際的な演奏活動から遠ざかる。その間も研鑽を積み六十八年に国際ツアー復帰に至る――
手にしたモノクロのジャケット写真を眺め、偉大な演奏者の姿に己を重ねた。
もし、俺が彼の半分でも才能を持っていたなら――いや、十分の一、百分の一でも才能を持ち合わせていたのなら、あんなことにはならなかったのだろうか――
気づくと無意識にCDケースから取り出してコンポにセットしている自分がいた。
真莉愛が再生ボタンを押したあの日から、自分の中で変化が起きていた。
海中で溺れているような、どれだけもがいても水面に顔を出せないような焦燥感――太陽の姿は向こうに見えているのに、この手は次第に海底へと沈んでいく。考えれば考えるほど思考の海の底へと落ちていく――
そのとき扉を控えめにノックする音が聴こえた。この家に届く郵便など督促状くらいだというのになんだろうか。
重い腰をあげ扉を開くと、目線の下に真莉愛が立っていた。その手には半透明のタッパーが握られていた。何やら良い匂いが漂ってくる。
「あの、晩御飯はもう済ませた?」
「いや、まだ食べてないが……」
咄嗟に嘘をついてしまったのはなぜなのか、テーブルの上には手をつけていない弁当があるというのに。
彼女は少し緊張した面持ちで両手をつき出す。
「よかったら肉じゃが食べない?久しぶりに作ったら作りすぎちゃって……あ、あのこの前のお礼も兼ねてだから、ってなんでそんな目で見てるのよ」
「いや、なんでもない。真莉愛はもう食べたのか?」
「あたしもこれから 」
「ちょうどショパンを聴いてたんだ。飯でも食べながら聴いていけよ」
「良いの?じゃあうちからお箸持ってくるね」
ショパンを聴きながら肉じゃかとはなんだと、我ながらおかしい発言だとは思う。思うが、辺りに漂う残り香はうんともすんとも言わなかった胃袋を収縮させた。
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