op.5

 「はやく帰らないと!」

 今日も母さんの言いつけを守れたと、浮かれた気分で校舎を飛び出す。放課後の校庭はまだ同級生が遊んでいるなか、僕は学校が終わると一目散に帰宅していた。

 一刻も早く鍵盤に触れたい一心で、背中を押す春風に感謝をしながら駆け抜けていくと、寝ていた近所の犬が驚いて吠えかかってきた。


「ただいまー!」

 玄関を勢いよく開くと、まだ新築の香りが微かに漂う廊下を駆け抜け、母の声を無視して二階の自室へと向かった。

「先に手を洗いなさい!」

 腹を立てた母の怒鳴り声が階下から聴こえてくる。ベッドの上にランドセルを放り投げると、落下の衝撃で教科書がマットレスの上に散乱した。整理整頓などお構いなしに転がり落ちるようにリビングに駆け降りていくと、肩を怒らせて待ち構えていた母の姿があった。

 危ない。もう少しでお玉で頭を殴られるところだった。


「走るなって言ってるでしょ!何度言えばわかるの」

 またもや怒鳴り声が飛んでるが、今の僕にはそんな怒鳴り声など少しも耳に届かない。なぜなら約束をちゃんと守ったからだ。

「ほら、さっさと手を洗ってきなさい」

「はーい」


 洗面台で入念に手を洗いながら、特に指先は丹念に汚れを落とす。生まれもった長い指は父さん譲りで、しなやかな指先は母さん譲りの自慢の手だ。

 タオルで水気を拭き取り鏡に写る自分の顔をみると、幸せそうに笑っているもう一人の自分が頬笑み返してきた。

 母さんに見せるための答案用紙を手に取り、笑顔はさらに大きく花開く。


 

 リビングに向かうとカウンター越しに夕飯の支度をしている母の背中がみえた。一定のリズムでキャベツを刻んでいる。まるでエレクトーンのテンポに合わせて正確にキャベツをみじん切りにしている。

 ざくざくざくざくと、長年染み付いた感覚は料理にも活かされているようで、さながらキッチンがスポットライトが当てられた舞台ステージのようにみえた。

 ここな母さんの独壇場に違いない。


 外からの日差しが差し込むリビングは広さ二十畳ほどで、リビングには、わざわざ海外から取り寄せた革張りのソファ、一枚板の木製テーブル、大型ブラウン管テレビ、アールデコ調の棚には父が趣味で収集している、壺や茶碗などの骨董品アンティークの数々が、美術館のように寸分の狂いなく等間隔に配置されている。

 生真面目な父の性格がそのまま表れていると言っていい。


 当時父が経営していた不動産会社は、好景気の恩恵を受けて順調に業績を伸ばしていた。おかげで会社も大きくなり新築の家も建てられたし、以前は細々と続けていた趣味にもお金を割くことが出来たようだ。

 同年代の子供と比較しても比較的良い暮らしを過ごしていたのは確かだったし、僕も望んだものが手に入る環境に不満なんてなかった。

 多少の夫婦喧嘩はあったけど、トータルでは平和で幸福な時代だったと思う。


 お酒も煙草も吸わないほど潔癖な癖に、趣味のことになると人が変わる父と、質素倹約を信条とする我が強いアメリカ人の母は、一見相性が悪そうににみえて、その実小競り合いを楽しんでいる節があった。

 親の馴れ初めなんて恥ずかしくて聴いていられないけど、母は酔う度に話してくれた。

 父が渡米までして結婚の許しを得たというエピソードは、もう暗譜しているほどだ。


 それと、この部屋には母が嫁入り道具としてわざわざアメリカから空輸させたアップライトピアノがあった。

 細かい傷が多少はついてるものの、黒い光沢は顔がはっきり写り込むほど丹念に磨かれている。

 毎日愛おしそうな顔で磨くのが母の日課だった。そんな母さんに、ある日訊ねたことがある。


「どうして毎日磨いているの?」

「それはね、このピアノが宝物だからよ」

「宝物?」

「そうよ。お父さんがママのお父さんに結婚を許してもらうために、なんと二人の前でこのピアノを弾いてくれたことがあるのよ。人生で一度も触れたことがない鍵盤を必死に叩いて練習してねて……『僕は彼女のためならなんでもします』なんて宣言しくれたの。だからそれ以来このピアノは私の宝物なのよ」


 幼い頃に、誕生日プレゼントで祖母から買ってもらったピアノを、今も宝物だと自慢げに語る母はピアノに負けないほど輝いていた。

 暇さえあればピアノを弾く母を、普段は仏頂面の父は興味がない振りをしながらも、暖かい眼差しで見ていたのが印象的だった。


「お帰りなさい。テストはどうだった?」

 エプロンで手を吹きながら母さんから尋ねられた。色白で華奢な体に、まさか二つの顔があるなんて誰も信じないだろう。

「九十六点だよ。今月もクラスで一番だから、ピアノを教えてくれるよね!」

「あら、また一番だったの。律人はピアノのことになると本当に一生懸命になるのよね」

「だって母さんにピアノ教えてもらいたいんだもん。ねぇ、いいでしょ?」

「はいはい。約束だもんね」


 小学二年生の当時、母さんと約束をしていた。

 毎月テストで一番の成績をとったら、ピアニストである母から直接ピアノの演奏を教えてもらうと。

 ただし一番以外をとったら、その月は何も教えてもらえないという決まりだったので、もう半年近くはクラスで一位を維持していた。

 幼い頃から母さんが演奏する曲の旋律に心を奪われていた僕は、物心ついた頃から、漠然と将来は自分も当然のようにピアニストになると思っていた。子供ながらに既定路線当たり前だと疑いもせず。


 母は決して有名なピアニストではなかったけれど、静寂が包む舞台ステージ上で一人、会場全体に感動を届ける演奏者の顔を持つ母は、僕のの憧れでもあり目標でもあった。


「それじゃあ……そうね、ショパンの練習曲エチュードを練習しましょうか」

「エチュードってお母さんがよく弾いてる曲だよね」

「そうよ。ショパンの練習曲は、ピアニストに求められるべき技術が全て培われる偉大な曲で、レガート奏法に軽やかな演奏、滑らかなフレージング、リズムと音色に対する絶対的な感覚、そういった芸術表現を学ぶためのものでもあるの。もし律人が本気でピアニストを目指すなら、決して避けては通れない曲たちなのよ」

「そんな難しそうなの弾けるかな……」

「どれも難しい技巧テクニックが求められる曲ばかりだし、その技術も多岐に渡るけど、上手く弾きこなせるようになったら、そのときはきっと私より凄いピアニストになってるはずだから」


 そういって僕の頭を撫でながら母は微笑んだ。

「お母さんより凄い他人ヒトなんていないよ」

 あの時にみせた母の表情は忘れられない。困った我が子をみつめるような、なにか言いたいことを呑み込んだような、あの表情を。


「残念だけど、お母さんはピアニストとしては三流のレベルなの。まだ律人にはわからないかもしれないけど、お母さんより凄いピアニストなんて国内にも海外にも沢山いるのよ。でもね、ピアノへの想いは誰にも負けてないつもり。だから適当には教えないし、本気でピアノを習いたいなら、いずれはちゃんとした講師に教わらなきゃダメ。わかった?」

「うん……わかった」


 本当はお母さんにずっと教えてほしい――それはとてもいえなかった。

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