op.4

 コンビニからの帰り道に、ふと少女の面影が頭をよぎった。こちらが一方的に話しかけていたとはいえ、仕事以外で赤の他人と言葉を交わしたのはいつぶりだろうか。

 少し出掛ける際には持ち歩いてもいない携帯電話――数年前に買って以来、ほとんどその役目を果たしてはいなかった。着信音も初期設定のままだし、アドレス帳には勤務先の電話番号と、もう掛かってくることのない元カノの番号が登録されてるだけだ。

 あとはごくたまに間違い電話がかかってくるだけで、コンビニの店員以外ほとんど社会との接点がない俺は、そのうち言葉すら忘れてしまうのでないかと危惧することもあった。


 最低限のやり取りをしていたごく少数の知り合いも、風の便りで所帯を持ったことを知ったり、気がつけば音沙汰がなくなって久しい。

 一人、また一人と去っていく希薄な人間関係をただ眺めているうちに、この傷だらけの手にはなにも残っていなかった。

 人並みの幸福すらも、このてのひらの中には微塵も存在しない。

 汗を拭い、片手に持つレジ袋を握りしめ、暗澹たる思いで帰宅を急いだ。



「帰ったぞ」

 扉を開くと、何を驚いたのか少女は慌てて居ずまいを正していた。じっと見つめられても本人は平静を装っているつもりだろうが、とっさに隅に置いてある棚から手を引っ込めたのがバレバレだった。

 それでも知らぬ存ぜぬを通せると思い込んでるのが、子供という面倒な生き物だ。


「おい……何勝手に他人の家の棚を物色してるんだ。悪いが見ての通り金目のものはないぞ」

 サンダルを脱ぎ捨て、買ってきた弁当とスポーツドリンクを少女の前に置いてやると、初めて異世界の食べ物を目にするような、キョトンとした顔で見上げていた。その眼は吸い込まれそうなほど綺麗なブルーの瞳だった。


「これは?」

 なにを言ってるんだ。

「お前の分だよ」

 そうとは思いもしなかったのか、ぽかんとした阿呆面を見せたのは一瞬で、すぐに顔を紅潮させて威嚇するように睨み付けてきた。

「は?なに言ってるの。そんなの誰も頼んでないし」

「腹を盛大に鳴らしてただろう。それとも食わないのか?」

「だから知らないし。あんたが買ってきたんだから勝手にすれば」


 目線を逸らしたところで、一度食欲を刺激させられた腹の虫は抑えが効かないらしく、空腹を訴える度に少女はしかめっ面で睨んでくる。

 その様子を見てると、コイツはまるで野良猫のような奴だなぁ、と改めて思った。それも仔猫の野良猫だ。



「いいから食え。残して捨てるのも勿体ない」

「……そうね。捨てるのは勿体ないしそこまでいうなら食べてあげる」


 言い訳の余地を与えてやると、箸に恐る恐る手を伸ばす。

 そういえば――昔、拾った野良猫も牛乳を与えときに同じような反応をしてたな。何処か懐かしく感じ、不器用な手つきでビニール包装を剥がしていくその手は、よくみると箸も持てなさそうなほど華奢な作りで驚いた。


 重力に抗うほどの力もないようにみえる繊細な指先だというのに、その細く長い五指には矛盾するような力強さエネルギーを孕んでいるように感じ、それを見た俺は全身鳥肌がたった。

 その手が、指が、複雑にうごめく度に、脳裏では静まり返った聴衆の前で一人、舞台ステージ上で優雅に白鍵と黒鍵を弾いている少女の映像が浮かんだ。

 白昼夢にしてはあまりに鮮明な映像はすぐに消えたが、俺は一体何を見させられていたのだろうか。


 ハッと顔を上げると、無言で弁当を頬張る真莉愛には気づかれてなかったようだ。まさか自分の手がまじまじと見つめられていたなんて知られた日には、どんな烙印を押されるかわかったもんじゃない。心からホッと安心した。

 決して子供が好きとか、そういった類いの性癖はもっていないのだが――

 ふと、自分の手と見比べた。


 火傷の後遺症でまっすぐ伸ばすことも出来ない両手は、どうあがいても繊細な動きなど到底不可能な状態だ。

 思ったように動かせず、思い描いた夢は手に入らず、そんなことはもう十数年前から受け入れていたはずなのに、まさか見ず知らずの女子高生に現実をつきつけられるなんて――

 そんな泥沼の思考にまっていく自分に嫌気がさした。子供相手に何を嫉妬しているんだと。

 もう取り戻せない過去を、目の前の少女に見てしまった自分はまだ未練があるのだろうか。


「そういや名前は何て言うんだ」

真莉愛マリア……阿部真莉愛」

「その金髪と青い瞳は、ハーフか」

「うん。お父さんがオーストリア人で、お母さんは日本人」


 やはりな。純粋な外人とは雰囲気がどこか違うと思ったのだが、勘は正しかったようだ。

 部品パーツは外国製なのに、造形フォルムは国産車のような、上手くまとまってるようで、どこかちぐはぐな感じが否めないのが要因か。

 それでも客観的に見たら十分に美しい部類に属するとは思う。違和感を感じさせるのは、彼女にベッタリとまとわりつく何処か厭世えんせい感漂う雰囲気のせいなのかもしれない。

 ハーフという生い立ちも影響しているのだろう。


「俺は律人だ。雨音律人あまねりつと。ちなみに俺もハーフだ。父が日本人で母はアメリカ人だった」

「ふーん。全然そうは見えないけど。髪も黒いし、目も茶色だし」

「ハーフが全員美形だと思うなよ」

「確かに雨音さんは美形イケメンって訳ではないけど――」

「けど、なんだ」

 一拍置くと、なんでもないような顔で続ける。

「私はアリだと思うけどね」

「なに言ってるんだ小娘が」


 弁当を食べ終えた真莉愛は、それまでの態度から打って変わってバツの悪そうな態度で話を切り出した。

「お弁当の代金だけど……後日必ず返すので待ってもらえませんか?」

 畳に額をつけてそう言った。

 大人ではなく、ただの女子高生がだ。

「なに言ってるんだ。子供からお金を巻き上げるほど落ちぶれちゃいないぞ」

「ほんと?」

「ああ。お前には俺がどう見えてるんだ」


 ここで本当は缶ビールを買う代金が飛んでしまった、なんて事実を言うわけにもいかず、今日は先程の一本でやせ我慢をすることにした。

 たまには休肝日もいいかと無理矢理自分に言い聞かせるが、アルコールを寄越せと体はがなりたてている。



 話を聞くと、真莉愛の母親は朝は清掃のパートをして、夜は夜でスナックで働いているらしい。いつも鍵を持ち歩いてるらしいが、今日に限って忘れてしまったため、既に母親が外出した家に入れなくなり困り果てていたところを、どうやら俺が発見したわけだ。


「それならどこかで時間を潰すなり、職場に鍵を受け取りに行けばいいじゃないか」と話すと、「母親には職場には顔を出すなってキツく言いつけられている」と沈んだ顔で語った。

 どうやら以前、スナックに訪れた馴染みの客が、偶々たまたま店に顔を出した真莉愛むすめに歪んだ好意を寄せたようで、真莉愛はストーカー紛いの被害を被っていたらしい。

 ゆくゆくはその客の玉の輿を狙っていた母親は、それっきり蚊帳の外の扱いを受けたらしく、その事が延々と尾を引いていると教えてくれた。


 耳を疑うよう内容に、親子という関係を越えた醜い女の嫉妬がそこにはあった。己の願望のためなら実の娘にさえも牙を剥くのか……果たしてそれが家族と言えるのだろうか。

 家族がいない自分には想像も出来ない。

 そして実の父親は、莫大な借金を残したまま姿を消したらしい。今も昼夜問わず働いて稼いだ給料の大半が、右から左へと消えていく。生活は常に火の車だと嘆いていた。


「それに外に男を作ってるみたいだしね」

 残りの数少ない金はというと、どこぞのホストに注ぎ込んでいるらしい。満たされない心を金と引き換えに手に入れようとしたところで、蟻が入り込む隙間ほども埋まるわけでもないのに――

 ほんの僅かの生活費でなんとか遣り繰りしていると、真莉愛は投げやりにそう話した。

「お母さんは寂しい人なんだよ。誰かに必要とされなきゃ生きていけないの。昔は優しい人だったけど、今じゃ別人みたい。帰ってこない日だってあるしさ、きっと男の家を渡り歩いてるんだろうね」


 諦めたように淡々と話す真莉愛の顔が、一瞬昔の自分と重なって見えた。

 考えるから苦しくなる。ならいっそ思考を停止した方が楽になれる――そんな顔をだ。


「普段は飯くらいちゃんと食ってるのか」

「食れるわけないじゃん。母親が落としていく少ない小銭を握りしめてさ、スーパーで特売の商品を探し回る女子高生がいると思う?そんな女の子が満足に暮らせると思う?」

 スカートの裾を強く握って声を詰まらせる。

「すまないな。初対面で踏み込んだことを聞いた俺が悪かった。申し訳ない」

 今度は俺が頭を下げる番だった。荒木に頭を下げるよりかはずいぶん楽に下げられた気がする。

「いや、別に謝ってもらわなくても……」



 ――ごめんね、律人。お母さんはもう律人のママじゃないの。


 ふと、幼い頃の記憶が甦ってきた。

 記憶の底に沈殿していたはずの思い出したくもない過去の残滓ざんしが――

 どんなに忘れようともがいても、底に積もり積もった記憶の堆積物は、ふとした拍子で舞い上がる。

 見たくも聞きたくもない記憶を揺り起こして、

 一度舞い上がったそれらが静まるのは難しい。

 そんなときは、いつの頃からか煙草で誤魔化すのが習慣となっていた。


 初めは確か、小学生の頃に拾ったシケモクだっただろうか――それが今では立派なニコチン依存症だ。

 煙草を口に運び、乱暴に火をつけ煙で体内を満たす。こうして白煙で体を充たせば見たくない光景から目を背けられる。心を曇らせ、見えない振りをして、あとはじっと静まるのを待つだけだ。

 窓ガラスを開け放ち、夏の星座が輝く夜空に向け淀んだ空気を吐き出す。そうすることで心が落ち着きを取り戻していく。


 三本立て続けに吸ったところで、改めて気になっていたことを尋ねた。

「そういえば、帰宅したとき棚を物色していたが」

「ああ、あれね。勘違いさせてごめんなさい。別に私物を盗むつもりとかじゃないから」

「さっきも言ったが、盗むほどの価値があるものは残念ながらうちにはない。そうじゃなくて、何を見ていたんだ?」

「それは、あの……これが目に入ったから」


 真莉愛が指差したのは、我が家にある数少ない私物のCDだった。そうはいってもプレミアがついていたり、数量限定であるわけでもなく、お宝としての価値は一切ない。

 なんなら中古ショップにいけば、ワゴンでまとめてセール売りされているような代物だった。


「マウリツィオ・ポリーニ。ショパンの練習曲集だよね。あたしこれ好きなんだ……雨宮さんも好きなの?」


 ――律人は本当にショパンが好きね。


 止めろ……。

 また、過ぎ去った過去の声が聴こえた気がした。握りつぶされるように痛む胸を押え、とっさにうずくまる。心配した真莉愛が隣で腰を下ろして顔を覗きこんだ。

「ちょっと大丈夫?」

 気がつくと真莉愛の顔がすぐそこまで迫っていた。ゼロに近い距離で見た真莉愛の顔に、思わず見蕩れた。

「心配してくれるのはありがたいが、ここは女日照りの男の部屋だ。無防備に近寄ったら危ないぞ」

 意味がわからずポカンとしていた真莉愛は、数秒後に先程とは違う意味で顔を真っ赤にさせ、距離をとるように後ろに下がり威嚇していた。


「さっきの質問だが、ショパンが好きかといわれると……まぁ切っても切り離せない存在なのは確かだ」

「なにそれ。意味わからないし」

「それよりよく一介の女子高生がショパンなんて知ってるな。音楽の授業で習うのか?」

「これでも昔は裕福でね。その当時はピアノ習っていたの。ショパンは特に気に入ってて、ピアニストになるためによく練習してたんだ」

 もうそんな余裕もないけどね、と漏らしながらCDケースの縁をなぞる。


「真莉愛はショパンが好きなのか」

「うん。ワルツもポロネーズもノクターンもスケルツォも、幻想即興曲もバラードもショパンの曲はどれも好き。そのなかでも練習曲エチュードは全部好きかな」

 ショパンを語る時だけは表情を変えるようで、玩具を前にした子供のように輝かいていた。




「今日はお袋さんが帰ってくるまでここにいていい」

「え?いいの?」

「どうせ鍵がなければ入れないだろ。適当にテレビ見てるなりCD聴くなり好きに過ごしてろ」

「ありがと……」


 さっそく埃を被ったCDコンポにポリーニをセットし、再生ボタンを押す。

 四オクターヴを越えるアルペッジョが、滑らかに分散和音を奏でる。

 もう何年振りに耳にするだろうか――

 本当は何度捨てようと試みても捨てきれなかったアルバムは、今となっては好きだったのかどうかも定かではない。

 ポロアパートの一室に、懐かしくも心痛むエチュードが一曲目から朗々と流れていく。

 夜空を見上げると、何光年も先に瞬く星が当時の記憶を運んできた。

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