op.3

 急いで冷凍庫に突っ込んだのはいいものの、期待したほど冷やされなかった缶ビールのプルタブを開けると、出口を求めた泡が勢いよく飛び出し畳を濡らした。


「くそ……ツイてないな」


 ツイてない日というのは、とことんついてないもので、慌てて畳の上にこぼれた泡を拭き取っていると、背中の引きれが悲鳴をあげた。

 子供の頃に負った火傷の痕は、今も思い出したように牙を剥くことがある。こういうときの対処法は、ただじっと痛みが引くのを待つ他なかった。


 いつになったらこの痛みは引くのだろうか――

 年月を経る毎に、痛みが収まるどころか、いたずらに痛みが酷くなっていくような感じさえする。もしかしたら一生消えることはないのかもしれない。

 痛みを誤魔化すように残ったビールを飲み干す。温い液体が粘膜を伝い胃袋落ちていった。


 やたら煩い自己主張の強いエアコンは、何十年前の機種なのか想像できないほど古臭く、動いているのが奇跡的な骨董品アンティークである。

 今にも壊れそうなファンの音が精神を不安にいざなうが、次第に冷気が部屋を包んでいき、室温の低下と共に心に平穏が訪れる。

 このエアコンが壊れてしまったら――

 そんなことを考えると寒くもないのに鳥肌が立った。


 アルコールを口にしたものの、暑さにやられたせいで食欲はまったくわかない。体もダルいので横になりながらテレビのチャンネルを変えると、顔も名前も知らない芸人が視聴者に向けてネタを披露していた。


 ――互いが互いをどつき合っているだけじゃないか。

 何が面白いのかさっぱり理解できないが、これが今の流行りなのかと興味のない画面をぼんやり眺めながら、そんなしょうもない感想を懐く。

 心を殺して、他人に興味を持たないようにひっそりと生きてきた。自分だけが世界から置き去りにされているような感覚を覚えたのは、いったいいつ頃だろうか。

 何を見ても、何を聞いても心動かされず、本当に俺はこの世界の住人なのかと、夜も寝れずに悶々と過ごす日々が長らく続いていた。

 大事なものは全て両手からこぼれ落ちていった自分には、それでも良かった。ただ、あの金髪の少女を見たとき――不快なほど胸がざわついた。


 テレビの向こうでは、件の芸人が観覧客に大いに受けていたようで、満更でもない顔をしていた。

 缶の縁に残った苦い滴を舐めとる。

「何が面白いのやら……」

 やはり俺には理解ができなかった。

 そんなことを考えているうちに、いつの間にか眠りへと落ちていった。




 目を醒ますと、窓の外は夜のとばりが落ちていた。民家の灯りが暗闇を照らしている。つけっぱなしだった腕時計は二十時を表示していた。

 あまりの不快感に首筋に手を当てると、掌にべったりと汗がまとわりついた。

 どうやらまたしてもエアコンの電源が勝手に切れていたようだ。タイマーもないのに勝手に切れたということは、これは本格的に故障し始めたサインなのかもしれない。


 買い換えるか、それとも扇風機でも買ってきて耐え忍ぶか――どちらにせよ金がないことにはどうにもならず、とりあえず窓を全開にして外気を取り込もうとしたが結果的にそれは悪手だった。


 「暑い……」


 連日連夜続く熱帯夜は、慢性的な睡眠不足を加速させていた。夜になってもいっこうに気温が下がる気配すらしない外気は、サウナ風呂に足を一歩踏み入れたような息苦しさをもたらす。

 即座に窓を閉めてエアコンの設定温度を最低まで下げた。こうなると故障やら電気代節約と言ってる場合ではなく、ファンの唸り声に耳を塞ぐしかできなかった。


 すっかり眠気も覚め、再び缶ビールを飲もうと手にしたが、あいにく先程のが最後の一本だったことに気づき大きな溜息をついた。

 コンビニまで汗をかいてまで出向くか、それとも諦めてさっさと寝床につくか――

 二者択一に頭を悩ませたが、あの喉ごしの快楽には打ち勝てず、思いきってサンダルに履き替えて外に出ると、微かだがほんの小さなうめき声が聴こえた。



 まさか夏だからといって、そう都合よく幽霊など出てくるわけじゃあるまいし――そういい聞かせながら声のする方へ顔を向けると、まだ明るい時間に「203」の玄関前に体育座りをしていた少女が、その場で倒れているのを発見してしまった。


「おい、大丈夫か」

 異様な光景に思わず声をかけてしまったが、少女はその声にまるで反応を示さず苦しそうに喘いでいた。

 化粧っ気のない顔は真っ赤に染まり、恐る恐る額に触れるとかなりの熱をもっていることが伝わった。医者にかからずとも熱中症にかかっていることはすぐにわかった。

 まさか俺が部屋に戻ってからもずっとここに座っていたのだろうか。そんな馬鹿な……あり得ない。と自らの考えを打ち消す。なぜここでじっと座ってる必要があるというんだ。どう考えてもおかしいだろ。


「おい大丈夫か、返事しろ」

「うるさい……放っておいて」

「阿呆か、こんなところで倒れられても困るんだよ」


 そうだ、放っておけばいいじゃないか。

 この誰とも知らない少女の言う通り、何故手を差しのべようとしているのかが理解できなかった。


 ――償いのつもりか?そんなことしたって弟は帰ってこないというのに。


 誰かの声が聴こえた。そんなんじゃない。

 誰にもこの光景を見られませんように――必死に祈りながら、衰弱しきった少女を抱き抱え、なんとか自宅へと運びいれることに成功した。

 やっと気が抜けたのか、名も知らぬ女子高生は畳の上で意識を失うように寝てしまった。



 ――そんなことしてなんになる。償いになるとでも?負け犬が他人に施してやれることなんてあるわけないだろ。


 また声が聴こえた。

 そうだ。俺は負け犬だ――そう自分に言い聞かせ、一先ず少女の額に濡れたタオルを当ててやる。



 暫くすると少女は目を覚まし、自分で歩ける程度には熱も下がったようだ。ほっと、落ち着いていたことに安堵する自分がいた。

 少女は目を覚ますと辺りを見回し、恩人である俺から距離をとると、「あの……寝てる間に変なことした?」なんて言ってくるので呆れてものも言えなかった。

 お前みたいな子供ガキに欲情するほど落ちぶれてはないと反論すると、それはそれでムカつくと意味のわからないことをぶつぶつ呟いていた。

 全くもって接し方がわからないかま、とにかく回復したのならそれでいい。


「よし。どこも異常がないようなら、さっさと家に帰れ」

「それは無理……帰れないし」

 そう言ったきり少女は石のように黙りこくってしまった。なにか不味いことでも言ったか?

 ただでさえ人付き合いなどしてこなかったのに、一回り以上年下であろう少女への接し方などわかるはずもなく、その間も少女はその場から固くなとして動こうとしなかった。

 よくよくみると少女の眼は、昔の自分と同じ眼をしていた。

 あれは、希望を失った光のない眼だ――

 まだ高校生くらいの年齢なのに、諦念ていねん漂う眼から視線をそらすことができない。


「なあ、なんであそこにずっと座っていたんだ」

「……」

 相変わらず人の質問に答えず、どうしたもんかと困り果てていると返事の代わりに腹が鳴る音がさえずった。

「なんだ、腹すかしているのか」

「……うるさい」

 やっと口を開いたと思ったら今度は顔を背ける始末。どうやら厄介な捨て猫を拾ってしまったようだと自らの運の無さを嘆きつつ、あれほど嫌だったコンビニへと向かった。

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