op.2

 現場と自宅の中間に位置するコンビニで、定番の缶ビールと鮭弁当を購入してから帰宅した。

 いつも買っている特盛カツ弁当がなかったので仕方なくの消極的選択だったが、ここ最近は肉体の衰えに拍車がかかっている気がする。

 加速度的に、いや、指数関数的に老け込んでいるのかもしれない。同僚から一回り老けてみられることもある。


 夏も冬も関係なく風雨に晒され続けていると、人は巨木のように表面がひび割れ、そして荒々しくなっていく。

 表面だけならまだ救いはあるのかもしれないが、体の内部も確実に衰えていることが問題だった。

 体力は確実に衰え、神経は磨耗していくばかり、内蔵は悲鳴をあげ、あちこちが軋む。どれも自らの不摂生が招いた結果だが、この一夏を乗り越えられるかどうかすら不安に感じるくらいに、胃袋は脂身を受けつけなくなっていた。


 今年のような異常気象の年は、特に体力がもたない人間から現場を去っていく。定年後に再就職した爺さんが踏ん張っている横で、二十代の荒々しい若者がドロップアウトしていく光景もそう珍しくはない。

 決して他人事ではなく、明日は我が身のこの世の中でいつまでこの仕事が続けられるか――それが最大の懸念だった。


「先のことよりも今のことだな」

 来年どうなっているか、そんなことは想像できないし、仮にできたとしてもしたくはない。もう何年も将来とやらに期待はせずに惰性で生きているのだから。

 通りかかった公園から、子供のはしゃぐ声が聴こえた。時期的に夏休みだろうか、水着袋を振り回して遊んでいる。


 今の自分の立っている場所と、子供達が立っている場所はあまりにも遠すぎた。手を伸ばしても届かない――あまりに遠すぎる場所に来てしまったことを嫌でも痛感させられる。

 無邪気に子供が走り回る光景を眺めていると、近所の住民同士がなにやらこちらを窺ってはヒソヒソと会話を始めたので、そそくさとその場から離れることにした。

 どこまで逃げても、あの日の後悔はついてくる。


 突きつけられた現実に鉄の足枷を嵌められた気分だ。みえない鎖を引きずるように歩いていくと、ようやく住まいのアパートに辿り着いた。

 築四十年は過ぎたであろう1K四万の安アパート――ここまで古いと、むしろ映画のセットに見えてくるから不思議なものだが、大袈裟なほどに老朽化が進んでいる外観を眺めていると、突然横から声をかけられた。


「ああ、あんたかい」

 気配などまるで感じさせず、いつも陽炎のように姿を現しては消えていく。常に竹箒たけぼうきを持ちながらアパートを眺めていた婆さんは、このコーポ堂島の大家である。

「大家さんですか、どうも」

 これまで特に会話らしい会話などしたこともなく、する間柄でもなかったので声をかけられらと些か気まずい雰囲気が流れた。

 それじゃあ、そう適当に挨拶をしてその場を離れようとすると、面倒なことに会話はまだ続く。


「とうとう一階全室空いちまったよ」

「はぁ、そうなんですか」

 その報告を受けたところで、まあそんなとこだろうと特に疑問には思わない。このご時世に好き好んで倒壊寸前のアパートに住む変人も、そうそういないだろうし、もう少し金額を上乗せするだけでもっと人間らしい生活を送れる。

 ようは、脛に傷を負ったような連中が集まる吹き溜まりのような場所なのだ。

 このコーポ堂島は。


「あんた、適当に聞き流してるだろ。悪いがアパートここはそう長くもたないよ。あたしも、このアパートもね。もう年だから上物うえは潰して土地は売りに出そうと思ってる」

「そんな……ここを潰されると困りますよ」


 そもそも部屋を借りようにも、身元保証人もいなければ定職にも就いていない。金も信用もない後ろ暗い男が簡単に住まいを見つけられるほど、この国は優しくはないことは周知の事実。

 不動産会社に出向いたところで微笑みをもって門前払いされるのがオチに決まっている――


 どこを探したってこんな怪しげな輩に気前よく部屋を貸し与えるほど大家もそうはいないだろう。

 半年前まで暮らしていたアパートなんて、事前通告もなく追い出されてしまった。

 そして今では駐車場になっている。一度見に行ったら住んでいた部屋の跡には高級車が一台止まっていた。


「そうはいってもね、こちとら雀の涙のような家賃収入と年金で慎ましく暮らしてる身なんだよ。いっそ出てってくれた方が助かるってもんだ」

「ここを追い出されたら住むところがなくなります。なんとか考え直してもらえませんか」


 大家としてはただの通告だけで終わらせる腹積りだったのだろう。荷物をまとめて出ていきなと。

 それが思わぬ抵抗をされたものだから、しわくちゃの顔をこれでもかと皺だらけにさせた。


「あんたはまだ若いんだ。ちゃんとした職を見つけられるさ」

 そんな無責任な言葉だけ残し、去っていってしまった。ちゃんとした仕事とはなんなのだ――俺だって、俺だってなれるものなら――



 今日はとことんついていないな……。

 余計な時間をくったせいで缶ビールはとうに常温となっていた。これでは飲めたもんじゃないと溜め息をつく。

 錆がびっしりと浮いた階段を昇ると、多少のふらつきを感じたが、足場のボルトが緩んでいるせいだろうか――

 だが、今はそんなことを考えることすら煩わしく、一刻も早く自室に戻りたかった。戻って塞ぎこみたかった。


 大粒の汗を流し階段を昇り、「201」と殴り書きされた扉の鍵を開けようとポケットをまさぐっていると、視界におかしな物体が写りこむ。

 二部屋隣の「203」の扉の前で、透き通るような金髪が印象的な少女が膝に顔を埋めるように体育座りをしていたのだ。

 

「なんでこんなところに……」


 その少女は汗で透けたワイシャツにゆるんだリボンをぶら下げ、青空のようなチェックのスカートを履いていた。

 装いは女子高生の夏服のようだったが、いかんせん座っている場所が酷だった。

 夕方とはいえ西陽が猛威を振るう鉄板の上で座ってるものだから、尋常じゃない量の汗をかいている。

 透けたワイシャツの下から覗く若々しい水色を見てしまい、奇妙な罪悪感を覚えてしまった。


 このアパートの住人だろうか――

 こんな倒壊寸前の住居に住む女子高生がいることにも驚いたが、なぜ少女はこんなところで座っているのか理由が気になる。

 少女はこちらの存在に全く気がつかないようで、一度たりとも視線を向けようとしない。


 身も蓋もない言い方をすれば、最初から少女に気がつかなければ良かったと、僅かに後悔した。変な罪悪感も感じたくはなかった。

 針が胸に刺さったような痛みを誤魔化し、そっと扉を閉じ鍵を閉める。

 扉を閉めきる直前に横目で少女をみたが、やはりこちらを見ることはなかった。

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