op.1

 暴力的なまでの太陽光線が、容赦なく無防備な顔面を殴り付けてくる。

 非力な人間はただじっと堪え忍び、鼓膜を破るようにけたたましく鳴く油蝉あぶらぜみが、頭上を飛び回りながら人を小馬鹿にするように小便を撒き散らしながら飛んでいった。


 今年の夏は高温注意情報が発せられるほどの異常気象のようで、仕事上仕方なく着用している警備服の下では、今も絶え間なく恐ろしい量の汗が流れ落ちていた。

 通気性がほぼ皆無の制服は、まるでサウスーツを着込んでいるのかと錯覚するほど過酷なものだった。

 紺色の制服は汗がにじみ、汚ならしい黒へと変色している。変色の度合いが疲労度と比例するというわけだ。



 コンクリートブロックや瓦礫を荷台一杯に載せたダンプカーが、土煙をたたせて真横を通り過ぎて行く。

 明らかに過積載であるが誰も口を出さない。いつもの平常運転だからだ。いちいち気にしてたら仕事にならない。


 頭上からこぼれ落ちる拳大の石礫いしつぶてを器用に避けながら、向かってくる車両を止めてダンプカーを車道へ誘導する。

 すると、一台のダンプカーの運転席から、リーゼントにねじり鉢巻という時代錯誤な出で立ちの運転手が、顔を覗かせこちらを睨み付けていた。


「こんなクソ暑いなかご苦労なこったな。無理して長袖を着なくても半袖が用意されてるだろ」

 半袖になれない理由を知っているにも関わらず、敢えて嫌みったらしく話しかけてくるところが腹が立つが、今に始まったことではない。

「早く車道に出てもらわないと後続車に迷惑がかかるんで」

「ふん、つまらねえ野郎だな」


 こういうときの便利な常套句言い訳はちゃんと用意してある。

 精神状態は肉体にも影響を及ぼすし、早々にあの男を視界から消さなければ、この灼熱の苦しみが倍以上になって体を蝕んでいく。

 最悪倒れてしまうので早々に立ち去ってもらって正解だった。


 研修で最初に学ぶ直立不動の姿勢を保ちながら、あからさまに時間を気にしていると受け取られないように腕時計を盗み見ると、時計は十三時を表示していた。

 まだ昼休憩から一時間も経過していなかったことに愕然とし、そんな馬鹿な、と項垂うなだれたくなってしまった。


 時間が止まっているのかと思うほど時は遅々として進まず、残りの勤務時間を考えるとほとほと嫌気が差したが、だからといって好き勝手に辞めるわけにもいかない。

 社会の底辺で暮らす俺の生活がかかっているのだから仕方ない。


 また到着したダンプカーを機械的に誘導する。敷き詰められた砂利が十トンの重さに耐えきれないように揺れ、爪先から頭の天辺まで振動が伝わるせいで昼に食べたぶっかけうどんを戻しそうになった。

 頭もくらくらするし、立っているのもしんどい。どうやら軽い熱中症にかかってしまったようだ。


 こうなったのも先週倒れて以降姿を現さないモヤシ男のせいだった。

 結局追加のスタッフも派遣されず、当たり前のように一名体制で勤務に当たっていたせいで疲労はピークに達していた。

 休みもろくに取れない労働環境だが、それでも倒れては元もこもないので、現場監督に再度休憩を取っても構わないか確認をしに向かう。


「なんだとぉ?」

 慢性的な歯周病なのか、漂う息が猛烈に臭い。ガマガエルのような醜い男の荒木は、威張り散らすだけの能無し男だが、それでも現場監督でもちろん俺より立場は上だ。

 ことあるごとに「昔は暴走族の総長だった」とほざいちゃいるが、現場では誰もそんな与太話を信じちゃいない。

 それどころか、よく若い連中に馬鹿にされて顔を真っ赤にしてる光景なら目にするが。


 案の定、休憩の話を持ちかけられた荒木は、わかりやすく嫌な顔をさせて悪態をついた。

「あのなぁ。おたくらは突っ立って誘導するだけの癖してなに言ってんのよ。学歴もなんも持ってないんだから、せめて立て看板程度の仕事はしてくれよ」

 学歴がないとハッキリと指摘され、それは中卒のお前もだろうがと禿げ上がった頭を叩いてやりたかったが、それはすんでのところで自重した。

 こんな男でも手を上げれば一貫の終わりと考えると、さすがに割りに合わなすぎる。


「いや、本当に具合が悪くなって」

「いいから戻った戻った。どのみち交代要員はいないんだから勤務時間いっぱいは働けよ」

 これ以上の説得は無理なようで、機嫌を悪くさせるか追い返されるのがオチだった。それよりも、残りの四時間ほどの勤務時間を、どうにかして無難に乗り越えようと思考を切り替えることにした。


 目の前の国道は今日もひっきりなしに大型車両が通り過ぎていく。マフラーからは大量の黒いすすが吐き出され、宙を舞う排気ガスの微粒子スモッグが目にみてたまらない。

 きっと肺の中はもっと悲惨なことになっているだろう。

 見上げた空はうんざりするほど快晴だった。


 出勤前に確認した天気予報では、確か女子アナウンサーが雲一つない快晴だと伝えていたような気がする。

 どんなに澄みわたった空を眺めても、この十数年、心にかかった暗雲を取り払うことはついに敵わなかった。きっとこれからも消えることはないだろう。


「オイ!誘導くらいしっかりしやがれ、ボケが」

「……すみません」


 とっさに振った誘導棒が掌から抜け落ち、通行人の足元へ転がる。頭上からは罵声と空の空き缶を投げつけられたが、まるで他人事のようにしか感じられなかった。

 誘導棒を拾うためにしゃがむと、思わず顔が歪んだ。しゃがむ動作が特に辛い。

 背中の皮膚が無理矢理引き伸ばされるので、玉のような脂汗がじっくりと滲む。つられて自分の顔も歪んだ。

 なんとか堪えて作業に戻るが、それからは仕事には身が入らなかった。


 どこで道を誤ってしまったのだろうか――生まれてきたことが最初ハナから間違いだったのだろうか。

 


 なんとかその日の仕事を乗り越えて帰り支度を済ませると、荒木が珍しく自分から声を掛けてきた。嫌な予感がする。

「おい。ちょっといいか」

「はぁ、なんすか」

 わざわざ声をかけてくるということは、何か口頭で伝えなくてはならないことがあるというわけか――もしクビならまた別の現場を会社に紹介してもらうだけだが――

クビを宣告されることと、ガマガエルをみなくて済むメリットを天秤で計っていると、思いもしなかった話題を持ちかけられた。


「お前が興味あるなんて思っちゃいないんだが、一応全員に聞いて回ってるんだ。クラシックコンサートとか興味あるかって?」

「はぁ……クラシックコンサートですか」

「ちょいと知り合いのツテで貰ったんだがよ。あいにくスケジュールが合わなくてな。本当はいきたいのは山々なんだが今ならペアで二万で譲ってやるよ。どうだ買わないか」

「クラシックですか、残念ながら興味はありませんね」

 ベートーヴェンもチャイコフスキーもドビュッシーもハイドンも、それどころかクラシックなんて高尚な音楽に興味などさらさらないくせに、いちいち見栄を張ろうとする荒木。

 そもそも譲ってもらったものを転売しようとしてる時点で底が知れる。


「まぁそうだろうな。あんたは指揮棒タクトじゃなくて誘導棒がお似合いだよ」

 わざわざ嫌みを言いに来ただけなのか、話はそれまでと高笑いして去っていく荒木の背中に会釈だけして現場を後にした。

 ――指揮棒なんて握ったこともないのは確かだけどな。


 その日も自宅まで徒歩二十分の道程みちのりを重い安全靴を引きずりながら帰宅していた。

 先日コンビニ前に駐輪していた自転車がどこぞの馬鹿に盗難されてしまったため、現在の移動手段は徒歩がメインなのが辛いところだ。

 被害届を出そうにも本来の持ち主の元カノは、新しい彼氏と愉しく過ごしているであろうから、盗難届も出すことが出来ず、かといって新しい自転車を購入するのも財布の中身は心許こころもとなかった。


 幸いなことに今の派遣先は自宅から比較的近いのが幸いだったが、別の勤務先を命じられたらそのときは今度こそ自転車が必要となるだろう。

 それまで多少の辛抱さえすれば次の給料が手に入る。

 そしたらギアが装備された自転車を買おうと心に誓った。

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