ふたつの夢を追いかけて
きょんきょん
別れの曲
すれ違う通行人が、こちらを見ては視線を逸らす。いかにも日本人らしい反応だ。 時折声をかけてくる奇特な奴もいたにはいたが、それには首を振って丁重に断っていた。
「いつか困ってる人を見かけたら、その時にまた声をかけてやってください」
何を言ってるんだろう。変なやつだ――
そう思われたかもしれない。だが構わない。去っていく背中に、その時が来たら思い出してほしいと切に願った。
たった一言、たったそれだけで救われる人間もいるのだから――
振り返ると見知らぬ誰かと肩がぶつかる。舌打ちをして去っていく人はどことなく早足だった。
世間はとっくに師走を迎え、行き交う人々はやはり急いているように見える。
皆、待ち人がいるのだろうか。
街のあちこちに未だ点在するクリスマスのイルミネーションと、春物の服を見にまとった寒々しい出で立ちの巨大ポスター、これから迎える新年を今か今かと期待する街全体の雰囲気が、絵の具のように混ざりあって独特の猥雑さで街中を彩っていた。
一歩一歩アスファルトを踏みしめながら、真莉愛と過ごした一年半を思い出す。
彼女と出逢うまでの惨めな負け犬の人生を、出逢ってから過ごした鮮烈な日々を、馴れないことにあたふたと戸惑いながらも、そんな自分が嫌ではなかった感覚を、必死に悩んで選んだプレゼントに喜んでくれたあの笑顔も、俺のことをあたかも自分のことのように悲しんでくれたあの優しさも――
ふと、雑踏の中からか細い鳴き声が聴こえた気がした。
それは弱々しく、今にも消えてしまいそうな、そんな声だった。
鳴き声の張本人を探し歩くと、雑居ビルの間に生まれたほんの少しの
「なんだ、お前も一人ぼっちだったのか」
逃げおおせる力もないほど衰弱した仔猫を抱き抱え、コートの中でゆっくりと暖めてやる。少しずつだが震えは収まっていった。
「そろそろ向こうに着いた頃かな」
灰色の壁にもたれ掛かると、力が抜けてそのまま地べたに座り込んだ。
コートの袖を
時差を計算すると、ちょうど
脳裏には、大勢の観客の前で手足を交互に出して歩く、それは大人びた彼女の姿が浮かびあがった。
力になるかわからないが、ささやかながら応援しよう――真莉愛に教えてもらったメールを慣れない手つきで打ち込み、夜空の向こうに送信した。
半開きの口から喘ぐように漏れでる白い吐息が、姿を現しては消え、現しては消えていく。
その感覚は次第に長くなっていき、周囲の音までも遠ざかっていくように消えていった。
すると、どこからか鐘の音が聴こえてきた。ビルの谷間に反響し微かに耳に届いてきたようだ。
「そうか、もう年が開けたのか……」
鼻先になにかが触れたので見上げると、ビルの隙間から覗く夜空からゆっくりと粉雪が舞い落ちていた。初雪だ。
手をかざすと掌に落ち、体温で溶けていく。その粉雪は不思議なことに温かくて、冷えきった体の内側をゆっくりと解かしていった。
外は十二月の極寒だというのに、全身はまだ来ぬ春に抱かれてるように心地よく、なんの
すると、幻覚だろうか――真っ暗な夜空の向こうが輝いてみえた。あれが楽園というやつだろうか。
感じたことのない多幸感で視界がぼやけていく。
そうだ。俺は幸せの真っ只中にいる。
「真莉愛……お前を救ったと思っていたら、まさか俺が救われていたとはな」
胸元で震えていた仔猫は、一鳴きするとするりとコートから脱げだし、あっという間に何処かへ走り去っていった。
もう、大丈夫なようで安心した。
胸ポケットからくしゃくしゃになった煙草を取り出し、久しぶりの煙を味わう。
思った以上に湿気っていて、こんなにも不味かったのかと驚かされた。
アスファルトで火を掻き消し、襲ってくる睡魔に身を委ねていると、八ミリフィルムの映画のように出逢った日から別れの日までが思い出されていく。
本当にどうでもいいことや
駄作にはならなかっただろうか。
いや、胸を張って言えるだろう。
最高の人生だったと。
そうやって変わるきっかけを与えてくれた彼女に、遠い日本から
――真莉愛の人生に幸あれ。
彼女が舞台で輝く姿を想像しながら、男は祈りを捧げた。
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