op.23

「ゴホッ、ゴホッ」

「ちょっと、大丈夫?」

「ああ、ゴホッ……最近一段と寒くなってきたからな。風邪でも引いたんだろ」

「そう?でも無理はしないでね」

「ああ。行ってきます」

 


 そういえば――ふと先日の社長との約束を思い出した。例の一人娘と会うのは今日だったはず。

 なかなか筋肉痛が抜けることの無い体は、憂鬱な予定を思い出したことでより一層重くなり、今更ながらなんとか断れないだろうかと思案するも、いつの間にか会社に到着してしまった。

 


「だから、そんなつもりで来たんじゃないって何度も言ってるじゃん!変なことばっか言うんだったら、もう帰るわよ!」

「そんなこと言うなよ。もうすぐ彼も出社するはずだからさ」

 なにやら事務所の方から言い争っている声が聞こえる。それも刺々しい雰囲気を隠そうともしない声だった。

 今からこの空間のなかに入らないといけないのかと、考えるだけで気が滅入る。


「おはようございます……」

 意を決して事務所に足を踏み入れると、おろおろした社長とその対面に位置するソファに腰かける女性の後ろ姿が見えた。

「雨宮くんおはよう。ちょうどいいところに来た」

 あまみや?そう言って振り向いた彼女の顔は、驚きで固まっていた。俺も同様に固まっていたと思う。


「侑里……お前どうしてここに」

「え?律人?嘘……どうしてここにいるのよ」

「なんだ、二人とも知り合いなのか?」

知り合い程度で済むならどれだけ救われたことだろうか。

「知り合いっていうか……まぁ」

「いや、あの、ちょっと待ってくださいよ社長」

「は?社長って……お父さんが言ってた社員ってあんたのことだったの?」

「どうしたんだい二人ともそんな顔して。まるで昔のパートナーに遭遇したような顔だぞ」


 社長なりの冗談ユーモアだったのだろうが、笑って場を和まそうとしたのは失敗に終わった。それは見事に。

 社長の笑い声だけが薄汚れた事務所に寒々しく響く。まさかこんなところで彼女と再会することになろうとは夢にも思わなかった。

 もう二度と会うことはないはずだった相手が、目の前で同じように驚き固まっている。

 まさか社長の一人娘とやらが、元カノの前園侑里だったなんて――運命の悪戯どころでは済まされない。




「はあ……まさかお父さんに嵌められるなんて夢にも思わなかったわ」

 パワーウィンドウを少し空けて、ヴィトンのシガレットケースからメンソールを一本取り出すと、こちらに確認もせずに吸い始める。

 その気だるそうな横顔も、こめかみを中指で押す癖も、昔と何ら変わっていない。

「なにちらちら見てんのよ。わき見運転なんかしないでちょうだいよ」

「はいはい。すみませんね」

 そのキツい性格も健在のようだった。


「ところでさ。なんでアンタがうちの実家で働いてるわけ?実家が酒屋営んでるなんて教えたこと無いでしょ」

「変に邪推するなよ。たまたまだ。求人雑誌の片っ端から電話をかけてたら、たまたま取り合ってくれたのが社長なんだよ」

 まるで俺がストーカー紛いのことをしてると思っているのだろうか。疑いの視線を投げ掛けてくる。


「ふーん。それにしてもアンタが正社員になってるとはね。記憶の彼方に飛んじゃってたけど、再会したら忌ま忌ましい過去を思い出しちゃったじゃない」

 どうしてくれるのよ、と理不尽なことを好き勝手に言ってくれる。

「……」

「なによ。黙っちゃってさ。これじゃああたしが悪者みたいじゃない」

 だから鼻から煙を出すなよ。


「あの頃はすまなかったな」


「……へ?」

 おい。シートに灰を落とすな灰を。俺が掃除するんだぞ。

「だから、あの頃は迷惑かけてすまなかったなって言ってるんだよ」

「……なんか悪いものでも食べたの?」

「なんでそうなるんだよ。俺はただ――」

「ああもういいわよ。別に根に持ってる訳じゃないし。それに……あたしも悪かったといえば悪かったもんね」


 そう――別れる直前の二人はなんでもかんでもぶつかっていた。侑里はこんな性格だから、一度噛みつくとなかなか離さない。だから俺も必死にひっぺがそうと躍起になって、結果二人ともボロボロになる。

 そんな生活を送っていれば自ずと破局への道筋は最短ルートで敷かれていき、ある朝置き手紙を残して侑里は出ていった。


 自分でエアコンの設定温度を上げたくせに、硝子ガラスがが内側から曇り始めると、今度は暑いといって上着を脱ぎ始めた。

 細く華奢なうなじがチラリと横目に写り、時と場所もわきまえずにベッドの中の記憶を思い出してしまい慌てて掻き消した。


「あちゃぁ……雨降ってきたね」

「どうりで寒いわけだ。この先の駅までで良いんだよな」


 侑里は度々時間を作っては、父親が一人きりで過ごす実家に家事も兼ねて顔を出しているようで、最寄り駅までのアッシー代りになってやったのだが、駅についても直ぐには降りようとしない。

「ねぇ。アンタ最近彼女でも出来たの?」

 唐突な質問に一瞬戸惑ったが、そんなもんいやしないと伝えると、妙に勝ち誇った顔でドアを開いた。


「そりゃそうだよね。ていうかアタシ以外の女が出来て人生やり直そうって気になられても、それはそれで腹立つし」

 またね、と言い残して改札口に向かう侑里を見送ると、最後の言葉に引っ掛かった。


 ――またね?


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