op.22

「お、おう。なんだお前辞めちまうのか」

「はい。ご報告が遅れまして申し訳ございません」

「いやぁ、辞めちまうなんて残念だなぁ。えっと……」

「雨宮です。もう覚えてもわらなくても結構ですけど」


 深々とお辞儀をして退職の挨拶を済ませると、荒木はひきつった笑顔で無い余裕を見せつけようと必死だった。

 あの一件以来、最後の最後までを出されなかったのは、よっぽど小野口にすえられたお灸が効いたからだろうか。

 表情から、内心では目の上のたんこぶがいなくなってせいせいしてると、容易に伝わる。


 これといって荒木に退職を伝える義理も必要もないのだが、これからはなるべく人と接しようと決めていたので、最後に退職する旨を現場監督の荒木を初め、大田原や同僚達にも転職する旨を伝えていた。

 すると同僚からは予想外にも温かく見送ってもらえた。交通誘導の人間なんて誰が辞めていっても気にも留められない空気のような存在だと思っていたが、どうやらちゃんと見てもらえてたようで、少し嬉しかった。


「これからだってときに残念だが、次の職場でも頑張れよ」

「ありがとうございます」


 人付き合いは相変わらず苦手だけれども、避けてるだけじゃ視界は開けない。今を変えるためにも目を見開いて世界を見渡さねばと誓った。



 それから一週間後、前園での仕事が始まった。

 配送は軽トラックで行うので、久しぶりに運転するマニュアルには悪戦苦闘させられたが、それに慣れさえすれば覚えることはそう多くはなかった。

 問屋から卸された酒類を注文通りに各居酒屋に配送する。午前中に配送する場合は無人の店舗に納品する必要があるので鍵が必要なのだが、その扱いに注意さえすれば決められた作業の繰り返しだった。

 ただ、躯には大きな負担を強いる作業が多いことも後から知ることになる。

 一つ二十キロはあろうかというビールの樽や、瓶ケースのような重量のある酒を荷台に上げたり下ろしたりする作業は、その一連の動作をとる度に背中のひきつれが伸ばされ、刺すような痛みが全身を駆け巡る。

 一店舗回るごとに、吐く息が白くなるような気温にもかかわらず、そこだけが真夏のように脂汗が止まらないことも多々あり、研修中は常に共に行動している社長もその様子を心配しては気を配ってくれた。


「本当に大丈夫かい?なんなら少し休んでも……」

「いえ、配送の時間を遅らせる訳にはいきませんので……」

 痛みをこらえるというのは、気性の荒い馬を手懐けることと似通っているところがあり、一連の動作を体に叩き込めば少しは痛みも緩和されることを知っている。

「だけど、無理は禁物だよ。この仕事は体が資本だからね。そういうわけだから今日の配送は私が変わるよ。雨宮くんは早上がりしていいよ」


 そう言うと、有無を言わさず自宅近くで下ろされた。社長の人柄は尊敬できるのだが、いささか過剰に心配されている節がある気がする。まるで子供扱いだ。

 自分だって病み上がりの体を酷使しているのは、こちらも薄々気付いているというのに。

 ――社長の生来の性格もあるのだろうが、やっと入社した人間がまたいなくなることを怖れてるのかもしれない。


 有限会社前園は、現社長の祖父の代から続いている老舗酒屋だが、繁盛していたのは先代までだったと助手席で淋しげに語っているのを隣で何度も聞いていた。

 マニュアル操作で手一杯だったので半分は耳を通過していたが、自らの代になってから近隣に低価格のチェーン店がオープンしてからというもの顧客は奪われっぱなしで、元々少なかった従業員も一人、また一人と辞めていってしまったとぼやいているのを聞かされていた。

「雨宮くんの給料は保証するから安心して」と、力無い口調で約束してはくれた。こちらとしてもキッチリ守ってもらわないと困るのだが。


「まだ研修期間中だけど、正直業務には何の問題もないよ。あとは体だけが心配だね」

「それは、なんとか誤魔化しながらやっていきますよ。この体との付き合い方も熟知してるんで」

 痛みは辛いが、この辛さが真莉愛の為ならばさして問題にはならない。

「本当に雨宮くんみたいな男性が跡を引き継いでくれたら万々歳なんだけどねぇ」

「いや、流石に社長は勤まりませんよ。そういえばお子さんっていらっしゃないんですか?」

 あまり他所の家庭に首を突っ込むのはしたくないのだが、話の成り行きで聞かざるを得ず、聞いてくれよと社長の話は次の配送先に到着するまで途切れることはなかった。


「実はね、うちは……まぁわかってるとは思うけど妻には先立たれてるんだよ。残されたのは病を患った私と、可愛い一人娘」

「その娘さんが跡を継ぐというのは?」

「ああ、うちの娘には無理だよ。なんだっけか、建築デザイナーとかいう職業に没頭してるからね。早く結婚しろとは口酸っぱく伝えてはいるんだけど、せっかくのお見合い話も断る始末で……。このままだと生きてる間に孫の顔を拝むのは叶わないかもしれないなぁ」

「はぁ……」

 やはりこの話題は藪蛇だったと後悔していると、思わぬ方向へと話の舵を切ってきた。


「そうだ。良かったら一度娘に会ってくれないか?」

「はい?」

 危うく急ブレーキを踏みそうになった。

「別に畏まって会う必要もないから、ちょっと顔を見せるだけでも――」

「いやいや、いくら社長のお願いでもそれは勘弁してください」

「そこをなんとか……伏して頼む。このままだと娘は仕事だけに生きる女になりかねん。どうか会ってくれるだけでもお願いできないだろうか」

 社長にそこまで頼まれて断るのも、後味がよくないかと思い仕方なく了承したが、本当に顔を合わせるだけだと念を押した。

 それに気をよくした社長は、いつもの倍の仕事量をこなしていたような気がする。


「はぁ……既に面倒くさい」

 今は結婚どころか誰かと付き合うことする考えられない。それが誰であってもだ。

 ――しっかりしろ。お前はあの日に父親になると誓ったはずだろ。


「あ、律人お帰り」

「ああ、ただいま」


 扉を開くと真莉愛が出迎えてくれた。そういえば――いつの間にか俺に笑顔を見せるようになっていたな。

 たったそれだけのことでこうも嬉しく感じてしまうのは、父親に一歩近づけたからだろうか。それとも――

 開けっぱなしの扉から冷たい師走の風が吹き込み、この暖かさが逃げ出さないように急いで閉じた。

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