presto con fuoco

「おはよう」

「いただきます」

「行ってきます」

「おかえりなさい」

「ただいま」

「おやすみなさい」


 どれもごく普通の、当たり前に家族と交わされる言葉。今日もどこかで交わされる挨拶。誰しもが一日の始まりから終わりまで無意識に口にする言葉達。

 無意識だからこそ、人は意味を考えない。考えようとしない。だからこその無意識なのだけど、挨拶ってとても不思議だと思う。

 その当たり前の言葉を、私はずっと一人で言ってきた。一人で言い続けてきた。

 お母さんは大体明け方にスナックから帰宅するから、私が起きた頃には眠りに就いている。


 吐き出される言葉に意味はなく、鳩時計の鳩のように決まった時間に決まって言うだけの言葉――それ以上でもそれ以下でもなかった位置付けの言葉達は、口から放たれても何の色も持たず、熱量もなく、世界で一番無味無臭な空気へと変換されていく。


 学校という閉鎖的な環境は、大人が思ってる以上に階級カーストが生まれ易く、昔は子供だった大人は次第にその事実を忘れていってしまう。

 私のようなな生徒は、決して上位の生徒とは口も利けない。利こうとも思ってはいないけど、誰も寄ってこないものだから自然と話し方も忘れてしまう。


 それならいっそ、貝にでもなれたなら――なんて柄でもないセンチメンタルな気分になることも始めのうちはあったけれど、そのうち本当に貝になってしまった。

 殻を閉じて、音を遮断して、光を遮断して――そうしていくうちに何も感じなくなっていた。

 時折音楽室から漏れ聴こえてくる下手くそなピアノの音だけは聴こえていたけれど。


 お母さん――あなたも私さえいなければ、もっと楽な人生を送れたのかもしれないのにね。

 一人なら、そう高望みさえしなければ遠くまで羽ばたけたはず。それなのに、私という荷物を背負ったばかりに重みに耐えきれなくなって海へと墜落してしまった。

 その海は酷く粘り気のあるタールの海で、もがけばもがくほど羽は役割を果たさず、次第に体は光の届かない海底へと向かって沈んでいってしまう。

 暗く、冷たい、真っ黒な底に――


 お母さん――あなたはいったいどれだけの事を諦めたんですか?

 今となっては想像することも叶わないけれど、子供の私には想像もできないことかもしれないけれど、私は私でずっと後悔をしていたんだよ。

 父親だった唯一の男に棄てられてから、人並みの幸せも、平凡な人生も、幼い頃の夢も、誰しもが現在いまの延長線上にあると信じて疑わなかった未来あしたから、ことごとく目を背けていたんだよ。

 じゃないと、世界が眩しすぎて眼が潰れてしまいそうになるから――知ってる?暗いタールの海の底は、何の希望もない代わりに、それ以上の絶望もないんだよ。

 だから、一生殻に閉じ籠って息を潜めているつもりだった。



 律人に出逢うまでは――



 昔はあったかもしれない一家団欒の記憶は、時と共に色褪せ、劣化し、崩れ去っていったけど、もう手に入らないと思っていた暖かな世界を、あの日私に手を差し伸べてくれた不器用なヒーローは、笑っちゃうほど不器用にそっと手渡してくれた。

 そいつは、私なんかと比べ物にならないくらいに辛い人生を歩んできた癖に、いつも自分の事よりも私の事を優先してくれた。

 最初は安い同情かと勘ぐっていたけど、考えてみるとやっぱ同情心で動けるほど器用な人じゃなくて、いつも悩んで悩んで、それが間違ってたとしても気持ちを向けられること自体がとても嬉しくて、次第に心が満たされていった。

 少しずつ暗い水底から海面へと浮上していった。


 なのに、人間って欲深い生き物で、私はいつの間にか律人の気持ちまで欲していることに気が付いて、その浅ましさに愕然とした。

 そんな気持ちになったことはかつてなく、恥ずかしくて、悶えて、苦しくなって、穴があったら頭から飛び込みたいほど、一人の夜は暴れる心臓を抑え込むのに必死だった。


 本当の気持ちにハッキリと気づいてしまったのは、律人が私の父親になると告げた時だった。

 あのときの私の気持ちといったら……陳腐だけど嵐のように荒れ狂っていたと思う。

 父親になんかならなくてもいいから、どうか私の側にいてください――と、今さら神様に願ってみたりなんかして、眠れぬ夜を過ごしていた。


 でも、どんなに願ったところで律人はきっと私の想いに気づくことはないだろう。

 だって、父親になろうとしてる男性が、娘として見ていた女性から特別な眼で見られてるなんて誰が思う?

 だから、だからこそ律人には父親になんてなってほしくなかった。


 思い出したけれど、案外私って欲張りな性格をしていたんだ。思い出したからこそ、もう我慢はしたくない。

 手に入れられるものは、なんだって掴み取りにいってやる。

 もし、神様が大事そうに抱えて私に譲ってくれないのなら、無理矢理にだって奪ってやるんだから。


 だから、私の前を歩かないで、どうかお願いだから、私の隣を歩いてください。


 一歩先を歩く背中にそう願って――

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