op.30
つけっぱなしにしてあるカーラジオからは、くだらない情報ばかり垂れ流され、一人行き先もなくハンドルを握っていた私は、あてどなく車を走らせていた。
「あんなカッコつけて出ていった手前、アイツに会わせる顔なんてないわよね……」
アメリカ、ニューヨークを目指して旅立っていたはずの私は、現在日本の、それも自ら運転する車の運転席にいた。
それもこれも、向こうに到着して、さぁこれから新生活だと息巻いたタイミングで発生した、ウイルスによるパンデミックのせいだ。
せっかく見つけた働き口からはクビを宣告され、夢を追うどころではなくなってしまった私は状況が落ち着くまでは日本に一時帰国する決断をしたんだけど――
夢を追うと言って日本を発った私は、一人実家に置いてきた父のもとに帰るのも恥ずかしく、顔を出せずに今に至る。なんとも間抜けな夢追い人だ。現在はウィークリーマンションを借りて一時の借宿としていた。
「にしても酷い雨ね……ワイパーが役に立ちゃしないじゃない」
気分転換がてらレンタカーを走らせてはいたものの、突然降り始めた雨は土砂降りとなって、気分が晴れるどころか憂鬱さが増すばかり。
雨粒の中に辛うじて見えた赤信号にブレーキペダルを踏む。苛立ちを抑えるために煙草に火を点け深く煙を吐き出すと、そういえば禁煙車だったことを思い出してさらにうんざりする。
「あれ……?」
携帯用の灰皿に煙草を押し当てていると、歩道を一人の女の子が、ドラマよろしく傘も指さずに走り抜けていくのを目にした。
――こんな雨のなかでどうしたのかしら。
どうやらその子は泣いていたようだった。女の子が傘も指さずに泣きながら走ってるなんてどういうことだ。
非日常的な光景に、気がつくとハザードランプを点滅させ、路肩に車を寄せてから駆けていく背中に向けて声をかけた。
「ちょっと、そこのあなた。こんな雨のなかでなにしてんのよ」
掛け声に一瞬、スピードが落ちた気がしたけど、次の瞬間にはまたスピードをあげて駆け出すではないか。
「ああ、もう、手間とらせないでよ!」
もういい歳なんだから無茶させないで!久しぶりに錆び付いた太腿を酷使して、遠ざかっていく背中を追いかけ走った。
「ちょっと、待ちなさいって!」
息も絶え絶えに逃げる女の子に追い付き、その細い手首を掴まえると、その子は今にも消えてしまそうな顔で振り向いた。
全身ずぶ濡れで、全てを失ってしまったような、とてもじゃないけど若い子が出していい雰囲気ではない。見たところ、まだ高校生くらいだというのに。
まるで昔のアイツみたいな、この世に絶望しきった野良猫のようで、気づけば私はその子を保護していた。
車中、ずっと
端から見て人形のように整った容姿の彼女に、いったい何があって雨のなかを走っていたのか――まさか事件に巻き込まれたのか?
肩を震わすのは、寒さからなのか、それとも、何か大きなショックを受けたからだろうか。
もう少し人に優しく生きていれば、こういうときにかける言葉だって見つけられるだろうに。色々と遅い後悔をした。
帰国して借りた部屋は、誰かを招くつもりもなかったので単身世帯向けのウィークリーマンションで十分だったのだが、まさかうら若き女の子を招き入れることになろうとは、誰が予想できようか。男なら完全に事案だな。
濡れたままではいくらなんでも可哀想だったので、シャワーで体を暖めてもらってから部屋着に着替えさせ、ようやく彼女に本題を切り出した。
「さて、半ば拉致みたいになっちゃったけど、あなたの名前を教えてもらえないかしら」
「……阿部です」
「阿部、なにちゃん?」
「……真莉愛です」
うんうんマリアちゃんね。……ん?
「ねぇ、マリアちゃん」
「はい」
「変なこと聞くけど、雨宮律人って男を知ってる?」
まさかね。マリアなんてどこにでもいそうな名前だし……。
「……律人のこと、知ってるんですか?」
なんてことだ。彼女の名前を聞いた瞬間に嫌な予感はしたけど、まさかその予感が的中するなんて。こんな巡り合わせあるのか。こんな遺失物取得なんて初めてだぞ。
「知ってるもなにも、元カノだからね」
当たり障りのない程度に答えればいいものを、無意識に語気を強めて答えていた。
なにを私は対抗意識を燃やしてるんだ。元カノと名乗ってマウンティングでも取るつもりなのか。お前はいくつだよ。
元カノという一言に、マリアちゃんの虚ろだった眼に初めて光が灯り、私を真っ直ぐ見つめてきた。その眼は少女ではなく、一人の大人の女性のそれだった。
「そうなんですね……こんな美人さんだったんだ」
「やめてよ。本当の美人に言われるほど惨めなことないんだから」
「す、すみません……」
ちょっと嫌みったらしくいうと再び顔を伏せ、二人の間に沈黙が流れる。
たった数分のやり取りでわかった。
やっぱ私には見ず知らずの子供の面倒を見るなんて曲芸は、とても無理だ。息が詰まってしまう。改めてアイツの凄さに触れた気がした。
だけど、どうしてマリアちゃんは家を飛び出したのか――それを聞かない限りは私にできることなんてない。
「ねぇ、どうして雨のなかを走ってたりしたの?」
「それは……」
急いで聞き出してしまいそうな自分を抑えて、なるべく優しく尋ねると、途切れ途切れだけど事情を話してくれた。
嗚咽を漏らす背中をさすってやりながら、改めて私は「元」なんだなと実感させられた。
私が思っていた以上に、二人は思いあっていたらしい。だからこそ、本気で傷ついて、本気で泣けるんだろう。
あー羨ましいなんて思わないぞ。
「アイツも本気で言った訳じゃないよ。あんな性格だからさ、とにかく不器用なんだ。きっとマリアちゃんのことが大事だからこそ、思ってもいないことを言っちゃっただけだからさ」
私以上にね――と、心のなかで足す。
「でも……本当に嫌われちゃったかもしれないし」
「それならさ、私が一緒に確めてあげるよ。だからちゃんと真っ正面からアイツと向き合ってあげて」
「わかり、ました……」
「律人、お邪魔するよー」
自宅まで辿り着いたというのに、自分から扉を開く決心がつかないと駄々をこねる真莉愛ちゃん。
代わりに律人の自宅へと足を踏み入れたのだが、私の呼び掛けに返事がない。どういうことだ。
まさかの元カノの訪問に、驚いた顔くらい見せてくれるのかと密かに期待していたのに――そう勝手に憤っていると、奥の部屋から乾いた咳が聴こえた。
「なんだ、いるんじゃん」
ゴホッ、ゴホッ、ゴホッ
――ずいぶんとしつこい咳ね……。
「律人……?」
玄関で立ち止まっていた私の横を、ノロノロと通りすぎていくマリアちゃんは、部屋を覗くなり、世界中の不幸を煮詰めたような悲鳴をあげた。
「律人っ!律人ったら!」
「どうしたの!?」
奥に姿を消した彼女は、アイツの名前をひたすら叫んでいた。
嫌な映像が頭をよぎる。そんな、まさか――
慌てて彼女の後を追うと、 カーペットの上で背中を丸めて
「律人……目を覚ましてよ」
「救急車……救急車を呼ぶから、そのまま声をかけ続けてあげて!」
不幸とは、大きな口を開けて待ち構えている。
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