op.31

「やっとアイツ退院するのね」

「ですね。八ヶ月の入院は長かったです」

「こんな良い女を二人も待たせるだから、相当に罪な男よ」

「ですです。罪な男です」


 侑里さんは、時々軽口を叩いて私をリラックスさせようとしてくれる。

 初対面の時こそちょっと……いや、だいぶ怖かったけれど、時間をかけて知っていくと、不器用だけど優しい人だってことがわかった。

 律人が突然倒れてしまって、独りぼっちになってしまった私のことを嫌な顔ひとつせず、一切の面倒を引き受けてくれたんだから。


「アイツに出来て、私に出来ないことなんてないんだから」

 そう言ってはばからない侑里さんは、私が寂しくならないように最大限のサポートを尽くしてくれた。

 あの宇崎さんも、金銭面でサポートを申し出てくれたことは大きい。

 正直言って、律人の人生を狂わせた張本人だと聴いたときには、そんな人の手なんか借りたくないと思ったし話もしたくないと思った。

 自分でも手の平返しが甚だしいと思うけど。

 だけど冷静な侑里さんに、「使えるものは親の仇でも利用してしまえばいい」と、至極現実的な格言を頂いたことで、それなら利用してやろうと思えるようになった。



 この街に今年も冬がやって来て、初めて律人は退院が認められた。

 あの日、救急車で運ばれた律人は急速に容態が悪化して、一時は昏睡状態にまで陥った。

 医師から宣告された病名は――結核――それも重度の。

 医師がそう宣告しながら見せるパソコンの画面には、胸部X線検査を受けた律人の肺の写真が大きく写し出されていた。


「結核って、昔の病気じゃないんですか?」

 結核という病名は知っていた。あくまで単語としてだけど。それにとっくの昔に根絶した病気だと認識していた私に、医師は首を横に振る。

「残念なことに、現在でも世界では三大感染症の一つとされています。日本でも年間二千人以上の方が亡くなっている病気なんです。ここを見てください」


 医師がカーソルを合わせて指し示す箇所は、周囲の黒色の画像とは異なり、もやもやした白い影で覆われていた。

 医師曰く、そこは肺胞が結核菌に侵されている部分だという。

 さらに治療を困難とさせていたのは、結核菌に感染したことで生じた敗血症性ショックだ。急激な血圧低下が引き起こすダメージは、各臓器に相当なダメージを及ぼす。

 肺結核を発症した患者が敗血症性ショックを併発することはまれなようで、そのぶん治療が困難を極めるらしい。

 つまり、助からないことも覚悟しなくてはならいということ――


 医師の話を聞いているだけで、私は気を失いそうになっていた。

 それに引き換え、後ろで立って聴いている侑里さんはやっぱり大人で、私が聴けないような事も臆することなく医師に尋ねる。


「先生。それで、アイツは、律人は治るんですか?」




 あの質問から二ヶ月。医師さえ治る見込みが立たなかった病魔と、律人は一人懸命に闘った。

 身体中を管という管で繋がれ、幾つもの峠を越え、やっと数値が安定したと判断されてICUから結核病棟へ移ることができたのだ。

 継続的に服用してきた抗結核菌薬の効果が現れ始めたのが、その三ヶ月後。

 他人に保有菌を感染させる恐れが無くなったと診断され、リハビリで落ちきっていた体力を回復させてから、計八ヶ月の長い闘病生活を今日やっと終えた。


 その間、私はずっと悔やんでいた。どうして律人の容態が悪化するまで何も気付いてやれなかったのか。それが悔しくてたまらなかった。

「しょうがないよ。結核に気づいたときには重体になっていることが多いって先生も言ってたでしょ」

 隣では侑里さんがいつも優しく寄り添ってくれる。この人の存在は大きいなと、改めて思った。

 私一人では、きっと気が動転して救急車すら呼べなかったかもしれない。きっと最悪な未来が訪れていたことだろう。



 一方、宇崎さんとは入院直後のやり取り以降、直接の連絡は取り合っていない。

 律人がいないところで余計な心配をかけたくなかったし、進路希望も日本の音楽大学に進むつもりだと担任には伝えていた。

 実技対策に関しては、正直今年の入学試験は難しいと思う。それは致し方ない。だから来年度の受験に向けてお金を貯めようと決めていた。

 幸い、高校を卒業すれば時間は生まれるし、アルバイトくらい屁でもない。そうしたらピアノの講師も見つけられるだろう。

 ピアニストになる夢には少し遠回りになるかもしれないけど、そうすればいつまでも律人の側にいれる。


 侑里さんに進路の相談で打ち明けた際、てっきり賛成してくれると思ったら、「あなたがそれでいいなら、私はなにも言わない」

 そう言うだけで話は途切れてしまった。

 少し冷たく感じたのは気のせいかな。




 病院に辿り着くと、律人は一階のロビーで先に待っていた。久しぶりの再会に手を振って駆け寄ろうとすると、隣に立つ男の姿を見て駆け出した足が止まる。

 律人を支えるように立っていたのは、まさかの宇崎京介だった。

 ――なんで宇崎さんがここに?

 なにかと忙しい人だから、てっきりオーストリアに帰ってると思っていた。彼には金銭面で助けてもらっていた手前、不躾な質問をするのも気が引ける。

 そんな私の気持ちを汲み取ってくれたのか、侑里さんが代わりに尋ねてくれた。


「失礼ですが、どうしてここに?」

 その声色には、突き刺すような棘が孕んでいる。きっと、怒ってるんだ。私よりも優しい人だから。

「それは――」

「いい。俺から話す」


 宇崎を遮るように近づいてきた律人は、私と話がしたいと覚束無い足取りで近寄ってきた。今までで一番真剣な、とても大事なナニかを覚悟したような顔で。


「そう。なら二人っきりでちゃんとケジメをつけてきなさい」

 運転は出来るでしょ、と侑里さんは車のキーを律人に投げ渡す。

「助かるよ」

「お互い様でしょ」


 律人ったら、二人きりで話したいことってなにかしら。まさか!?こ、告白だったりして。

 車内で二人きりになると、恥ずかしいほど顔が熱くなる。久しぶりに大好きな人の体温を隣で感じ、お風呂の中を揺蕩うような心地好さで心は満たされていた。


 ――そっか。これが幸せなんだ。


 ただ運転中の会話というと、やれ学校はどうだ、後藤とはどうだ、侑里は面倒ではないかとか、そんな話題ばかり。

 告白なんて雰囲気は一切なくて、単身赴任から帰ってきた父親みたいに、終始当たり障りのない会話を終始繰り返すばかりだった。

 そんな空気に、私はちょっとだけ落ち込んでいた。いや、退院したことは素直に嬉しいし、一緒にいれるだけで幸せなのは間違いないのだけれど、果たして私の想いを律人は理解してくれる日は来るのだろうかと、少しセンチメンタルな気分に浸る。

 アピールが足りない?私から言わないとダメ?

 やっぱり私のことは娘としか見ていないのかな……。



 今日に至るまで私の願いは大きくなるばかりで、くしくも街はクリスマスを迎えていた。

 世界で一番幸せが溢れる日――外の景色に目を向けると、いつの間にか病院から離れた港街まで辿り着いていて、港には旅の途中に寄航した巨大なクルーズ船が停泊していた。

 海に面した公園は金色のイルミネーションで輝き、恋人達は互いに身を寄せあいながら、幸せそうな顔で今という時間を噛み締めている。

 そんな様子を硝子ガラス越しに眺めていると、奥歯にものが挟まったような歯がゆい気持ちになってしまう。

 私もあんな風に律人と歩きたい――そう思う反面、どうしても両立できない夢も願ってしまう。

 二つの願いを秤に掛けた天秤は、頼りなくゆらゆらと揺れ動き、どちらか一方に傾くと戻らなそうで、それが今の私にはとても恐ろしい。


「さぁ、着いたぞ」

 律人の声で現実に引き戻され、先に降りた律人の後を追うように車から飛び降りると、そこは聖夜の港街を一望できる公園だった。

 海から吹き上げてくる風に心がさらわれてしまいそうになる。


「なぁ、昔ここが日本で一番の港だったことは知ってるか」

「え?うん。それくらいは知ってるよ」

 一応は受験生なんだから舐めてもらっちゃ困る。

「ここから、昔のご先祖達は長い時間をかけて海を渡っていったんだ。自らの大きな夢を叶えるためにな」

「……何を言いたいの?」

「これ、クリスマスプレゼントだ」

「え?」


 クリスマスプレゼントなんか用意する時間なんてなかったはずなのに、上着の内ポケットから一枚の封筒を取り出して渡してきた。

 一見ただの茶封筒。見た目からは何が入っているのかわからない。

 恐る恐る受けとって中身を確認すると、取り出したそれは一枚のチケットだった。

 いつか貰ったようなコンサートのチケットではなく、オーストリアまでの片道チケット。

 出発日は、十二月三十一日――残り一週間を切っていた。


 律人が出した答えに気がつくと、視界がぼやけて、膝から崩れてしまいそうになる。とてもじゃないけど正面を見ていられない。

 現実を直視できない私は、足元に視線を落としながら声を振り絞る。


「どうして……?やっぱ、私のこと嫌いになった?」


「そんなわけないだろ!」


 思わず顔をあげてしまうほど、律人は大声で叫んだ。そして気がついてしまった――おかしいよ。どうして私より先に泣いているの?


「一緒にいたくないだって?俺がそんなこと思うはずないだろ。本音を言えばな……片時だってお前と離れたくないんだよ。今だってそう思ってる」


「じゃあ……どうして?」


「入院してる間によーく考えた。何が正しいのかを。足りない頭でな。だけど、どれだけ考えても、真莉愛には俺の叶えられなかった夢をその手で掴んで欲しかったんだ。それには宇崎について行くのが最善、最短のルートなのは間違いない。そのチケットも宇崎に頼んで入手してもらった。あいつにチケット代を払わせるつもりなんてなかったぞ。俺の手で送ってやりたかったからな」


 もう、オーストリアじゃないとダメなのとは、とてもすがる雰囲気ではなかった。律人は、病床の中で、とっくに覚悟を決めていたんだ。


「あのね……私、律人のこと、大好きなんだよ」

「……ああ」

「一瞬だって離れたくないんだよ」

「……ああ」

「それでも、私を、私を突き放してまでも、夢を応援してくれるんだよね?」

「ああ」


 そっか。律人の気持ちはよくわかった。

 やっぱ私は甘えすぎてたんだ。

 律人は変わったよ。昔ならそんなこと絶対に言ってくれなかったもん。

 だから、私もその気持ちに応えないといけないと思う。

 辛いのは私だけではないんだから。



「わかった。私、オーストリアに行くよ」

 大きく頷いた律人の瞳からは、大粒の涙がボロボロと溢れている。

 案外泣き虫なんだなと、新たな一面を見せる愛しい人――もっと大好きになっちゃうじゃん。




 きっと私は、踏ん切りがつかなかっただけなんだ。

 背中を誰かに押してもらいたくて、だけど、いざ手を添えられると弱気になって、それを好きな人のせいにして、いっそのこと前に進むように蹴飛ばして欲しかったんだ。


 目元を手で拭うと、急に暖かい温もりに包まれて思考が停止した。視界は真っ暗。

 しばらくジタバタ暴れていたけど、どうやら細くなった律人の胸板に抱き寄せられていたようだ。

 人生二度目の抱擁に、体は緊張して固まる。



「わかったら、さっさとプロになって早く帰ってこい。そしたら、そのときこそ本当の気持ちを言わせてくれ」




 優しい言葉が降ってきた。雪の代わりに。

 周りに誰もいなくて本当に良かった。

 だって、こんな子供みたいに泣きじゃくる私の姿、誰にも見せられないもん。



 それからの日々は、あっという間に過ぎていった。いつもと変わらない日常――とは少し違う。自信を持って、真っ直ぐ前を向けるようになった。


 あの日に私と約束してくれたから。

 それだけで私は強く生きていける。


 そして、とうとう日本を発つ日を迎える。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る