coda

「パスポートは持ってきたか?」

「うん」

「他に忘れ物はないか?」

「大丈夫だって。何度も確認したから」


 国際線の出発ロビーで、二人は出発わかれの時を待っていた。

 間もなく、その時がやって来る。お互いわかってはいたけれど、敢えて普段の調子を崩さずに会話をしていた。


「しかし、本当にあっという間だったな」

「うん……あっという間だった。一番幸せな時間だったよ」


 肘掛けに置いた手に、そっと自分の手を重ねてくる真莉愛に不覚にもドキッとさせられる。

 もう誤魔化さなくてもいいか。俺はずっと恋をしていたんだな。


「あの日、真莉愛と出会えて本当に良かったよ」

 恥ずかしげもなく本音が飛び出すと、目尻を細めて頷いてくれる。いつだって幸せは隣にあったんだ。


 空港まで送ってくれた侑里は、気を遣ってくれたのか、二人だけにしてくれた。

 俺にはもったいないくらいいい女性だ。

 最初から心の内なんて見抜かれていたんだからな。



 また搭乗案内のアナウンスが流れた。一緒にいられる時間は刻一刻と少なくなる。


「ねぇ、知ってる?」

 フライトボードを眺めながら尋ねてきた。

「何がだ?」

「ショパンってさ、一応は既婚者で子供もいて、最後は結核で亡くなっちゃうんだけど、奥さんと結婚する前に婚約までした人がいるんだよ」

「そうなのか」

 ショパンの曲は詳しくても、偉大な彼の半生はあいにく知らない。

「その人とショパンはね、お互い愛し合っていたんだけど、結婚直前になって彼女の両親に結婚を許してもらえなかったの」

「それは……ショパンもさぞ辛かっただろうな」

「でしょ。その女性がね、実はマリアっていうんだけど、ショパンと別れた数年後に別の男性と結婚するんだ」

 案外たくましい女なんだな。マリアは。

「そうだったのか。まさか真莉愛と同じ名前の女性がショパンと恋仲だったなんてな」



 出発便のアナウンスが、とうとう別れの時を告げる。立ち上がった真莉愛は、これで最後だから、とそっと抱きついてきた。

 気持ちを、ここに置いていくとでもいうように。


「その事を知ったときにね、まるで私と律人みたいだなって思ったの。結ばれない可哀想な二人だって。だけど、今はこう思うの」


 背中に回していた両手を離すと、キャリーケースに手を伸ばして数歩先で振り向く。


「離れ離れになってしまったけど、いつだって二人の心は固い絆で結ばれていたんじゃないかって。時代も国も全然違うけど、きっとあの二人もそう不幸ではなかったと思うんだ」

「……ああ。きっとそうだな。それに俺は結核で死ななかったし」

「確かに」


 そう。俺達はどれだけ離れようとも心は繋がっている。そう思えば、どんな困難だって乗りきれる気がした。


「そろそろ行かないと」

「ああ、その前に、これを」

「これって……ポリーニのCDじゃん。律人の大事な宝物でしょ?」

「お守りに持っていけ。そいつはきっと、真莉愛を助けてくれるから」



 どこかで観たようなドラマの別れ方だなと、柄にもなく茶化す自分がいる。

 そうでもしないと、これから未来に向かって旅立つ彼女に、カッコ悪い姿を見せてしまうそうになるから。

 だから、自分にできる精一杯の笑顔で見送ることにした。



「じゃあね」

「ああ、頑張ってこいよ」







 あっという間に小さくなっていく機体を、その姿が眼で捉えられなくなるまで追いかけた。

 太陽が眩しい。目が霞んでしまう。

 もう、我慢はできなかった。

 止めどなく溢れる涙は、風に吹かれて飛んでいく。

 悲しくないと言ったら嘘になる。

 だけどそれ以上に嬉しくもある。

 名付けるなら――そうだな。

 明日への希望、なんてところか。

 やっぱ格好はつかないな。





 その夜は、久しぶりに都会の居酒屋で一杯飲んでいた。

「ただいま」と、つい言ってしまう一人の部屋には、まだまだ慣れるのには時間がかかる。暖を求めるように自然と人の多い街へと繰り出していたのだ。

 想い出を肴に飲む酒は、喉をヒリヒリ焼いて下っていく。昔の俺と比べれば、蝸牛カタツムリのような速度でちびちびと飲んでいただろう。

 熱燗を二合程飲んだところでトイレに立つと、二つの足は少し覚束なかった。思い返すと、酒も煙草も止めて久しい。


 会計を済ませて外に出ると、服の隙間から這い寄る寒さに身震いをした。コートの襟を立てて寒さをしのぐしかない。

 そういえば、都心でも初雪が降るとか降らないとか言ってたな――

 それなら体が冷えきる前に家路につこう。

 そう思い、駅に向かって歩き始めたそのとき――背中に何かがぶつかった衝撃を感じた。

 何が当たったかはわからない。だけど、妙にそこだけが熱かった。熱さは痛みに変わっていく。


「なん、だ、これ」

 背中に手を当てると、手のひらには溢した覚えのないトマトジュースがベッタリとついていた。もしかしたらケチャップだろうか。そんなもん記憶にないんだが……。

 よろめきながら振り向くと、そこにはいつぞやの浮浪者が、ナイフを握りしめて立っていた。その刃は真っ赤に濡れている。



 ――ああ、これって、俺の血なのか。



 背中に当てた手は自分の血で染まっていた。

 そかで初めて刺されたことを理解する。



「ハ、ハ、ハハ、ざまぁみろ!」

 狂ったように嗤いながら、男は夜の街へと姿を消していった。



 ――クソ、すっかりあの男のことを忘れていた。



 まさか、この期に及んで危害を加えてくるなんて、想像もしていなかった。ずっと俺を狙っていたのか――だとしたら、恐ろしいほどの執念だ。




 俺の一瞬を狙った犯行は、大晦日で賑わう雑踏の中ではさして目立たず、走り去る男に迷惑そうな顔で振り返る程度にしか、通行人には認識されていなかった。

 もし、気づかれていたとしても、これは手遅れだが。



 アスファルトの上に点々と残していった血の跡は、俺が立ち止まるまで途切れることはなかった。体からゆっくりと、確実に魂が抜けていく。例えようもない喪失感が教えてくれる。

 俺は、まもなくこの世を去ることを。



「さて、残された命で、何処へ行こうか」



 すれ違う通行人が、こちらを見ては視線を逸らす。いかにも日本人らしい反応だ。 時折声をかけてくる奇特な奴もいたにはいたが、それには首を振って丁重に断っていた。


「いつか困ってる人を見かけたら、その時にまた声をかけてやってください」


 何を言ってるんだろう。変なやつだ――

 そう思われたかもしれない。だが構わない。去っていく背中に、その時が来たら思い出してほしいと切に願った。

 たった一言、たったそれだけで救われる人間もいるのだから――


 振り返ると見知らぬ誰かと肩がぶつかる。舌打ちをして去っていく人はどことなく早足だった。

 世間はとっくに師走を迎え、行き交う人々はやはり急いているように見える。

 皆、待ち人がいるのだろうか。


 街のあちこちに未だ点在するクリスマスのイルミネーションと、春物の服を見にまとった寒々しい出で立ちの巨大ポスター、これから迎える新年を今か今かと期待する街全体の雰囲気が、絵の具のように混ざりあって独特の猥雑さで街中を彩っていた。


 一歩一歩アスファルトを踏みしめながら、真莉愛と過ごした一年半を思い出す。

 彼女と出逢うまでの惨めな負け犬の人生を、出逢ってから過ごした鮮烈な日々を、馴れないことにあたふたと戸惑いながらも、そんな自分が嫌ではなかった感覚を、必死に悩んで選んだプレゼントに喜んでくれたあの笑顔も、俺のことをあたかも自分のことのように悲しんでくれたあの優しさも――


 ふと、雑踏の中からか細い鳴き声が聴こえた気がした。

 それは弱々しく、今にも消えてしまいそうな、そんな声だった。

 鳴き声の張本人を探し歩くと、雑居ビルの間に生まれたほんの少しの空間すきま――人目につかない場所、暗く冷たいアスファルトの上に丸まった仔猫が体を震わせているのを見つけた。


「なんだ、お前も一人ぼっちだったのか」


 逃げおおせる力もないほど衰弱した仔猫を抱き抱え、コートの中でゆっくりと暖めてやる。少しずつだが震えは収まっていった。


 「そろそろ向こうに着いた頃かな」


 灰色の壁にもたれ掛かると、力が抜けてそのまま地べたに座り込んだ。

 コートの袖をめくると、時計は夜の十一時を指していた。

 時差を計算すると、ちょうどオーストリアむこうは午後四時辺りだろうか。

 脳裏には、大勢の観客の前で手足を交互に出して歩く、それは大人びた彼女の姿が浮かびあがった。


 力になるかわからないが、ささやかながら応援しよう――真莉愛に教えてもらったメールを慣れない手つきで打ち込み、夜空の向こうに送信した。


 半開きの口から喘ぐように漏れでる白い吐息が、姿を現しては消え、現しては消えていく。

 その感覚は次第に長くなっていき、周囲の音までも遠ざかっていくように消えていった。

 すると、どこからか鐘の音が聴こえてきた。ビルの谷間に反響し微かに耳に届いてきたようだ。


「そうか、もう年が開けたのか……」


 鼻先になにかが触れたので見上げると、ビルの隙間から覗く夜空からゆっくりと粉雪が舞い落ちていた。初雪だ。

 手をかざすと掌に落ち、体温で溶けていく。その粉雪は不思議なことに温かくて、冷えきった体の内側をゆっくりと解かしていった。

 外は十二月の極寒だというのに、全身はまだ来ぬ春に抱かれてるように心地よく、なんの痛痒つうようも不安も感じることはない。


 すると、幻覚だろうか――真っ暗な夜空の向こうが輝いてみえた。あれが楽園というやつだろうか。

 感じたことのない多幸感で視界がぼやけていく。き止められず流れ落ちていく涙は、間違いなく幸せの涙だった。


 そうだ。俺は幸せの真っ只中にいる。


「真莉愛……お前を救ったと思っていたら、まさか俺が救われていたとはな」


 胸元で震えていた仔猫は、一鳴きするとするりとコートから脱げだし、あっという間に何処かへ走り去っていった。

 もう、大丈夫なようで安心した。


 胸ポケットからくしゃくしゃになった煙草を取り出し、久しぶりの煙を味わう。

 思った以上に湿気っていて、こんなにも不味かったのかと驚かされた。

 アスファルトで火を掻き消し、襲ってくる睡魔に身を委ねていると、八ミリフィルムの映画のように出逢った日から別れの日までが思い出されていく。

 本当にどうでもいいことや些細ささいなことも、たった一年半で目眩めくるめく変わった己の人生が、過去の後悔の人生と紡ぎ合わされ、辿り着くはずのなかったエンドロールへと流れてゆく。


 駄作にはならなかっただろうか。

 いや、胸を張って言えるだろう。

 最高の人生だったと。


 そうやって変わるきっかけを与えてくれた彼女に、遠い日本からエールを届けよう。


 ――真莉愛の人生に幸あれ。


 彼女が舞台で輝く姿を想像しながら、男は祈りを捧げた。



「愛してるぞ……真莉愛」



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