op.29

「あーあ……雨降ってきちゃった」

 受験勉強が一段落ついていた頃、窓ガラスを叩き始めた音に嫌な予感がして外を眺めると、案の定大粒の雨が降り始めていた。

 確か天気予報では晴れだって言ってたような。お天気アナの言うことなんてあてにならないもんだ。


「そうだ!律人ったら傘持っていってないじゃん」

 風邪っぽい症状をみせる律人を、無理矢理に病院へ行かせてはいいものの、傘なんて持って出掛けてないはずだった。

 玄関に向かって確認すると、やはり傘立てには主に置いていかれた傘が置きっぱなし。


 時計を確認すると、出掛けてからおよそ二時間は経っている。そこまで混みあっていなければ、もう診察を終えて帰ってきてもいい時間だけど、その律人はまだ帰ってきていない。

 せっかく送ったメッセージも、律人相手だとすぐには既読がつかないことがままあるので、全くあてにはならなかった。


 もしかしたら突然の雨に困って雨宿りでもしてるかもしれない。

 「そうだ」

 迎えに行って、もし途中で律人に会えたら……そのときは相合い傘とかしちゃったり、と密かに期待をすると、普段なら憂鬱以外の何者でもない雨が、物事を前向きに捉えるだけでそう悪くはないと思える。

 なんて便利な思考回路だろう。


 そうと決まれば、急いで律人を迎えに行こう――着替えだけしてドアノブを掴んで回そうとしたそのとき、急に扉が外側へ開かれ、思わず前につんのめって倒れそうになった。

 見上げると、傘もささずに帰ってきた律人の虚ろな視線とぶつかる。が、その眼の焦点は虚ろだった。

 前髪からしたたり落ちた滴が、足元の床に染みを作っている。


「どうしたの?びしょ濡れじゃん」

 目の前の律人は、バケツをひっくり返したように濡れ鼠になっている。

 可哀想に体は震えていた。季節外れの雨に打たれたせいか、体が冷えきっているようだった。

 ――なにか、おかしい。

 いつもなら、決まって「ただいま」の一言を言う場面で、なにも言わずに玄関に立ち尽くす律人を心配しつつ、急いで持ってきたバスタオルで飼い犬にするように頭を拭いてあげると、顔が真っ青なことに気がついた。

 血の気がないような――そんな訳ないか。


「ねぇ。どうしたの?具合悪そうだよ?」

「なんでもない。ちょっと風邪が悪化しただけだ……」

「病院にいってきたんじゃないの?とにかく今日は寒いから鍋にしよ。それとも食欲なかったら、別になにか胃に優しいものでも――」

「なぁ真莉愛」

 律人の声が、会話を遮る。初めて聴く、冷えきった声色で。

「なぁに?」

 自分の声が震えている。

「俺に、隠してることはないか」

「え?隠してることって……別になにもないよ?」

「本当にないのか」

「うん……何もないよ。どうしたのよ」

「じゃあ、どうして俺に隠れて宇崎とやり取りしてる。奴についていくつもりか」

「え……どうしてそれを知ってるの?」




 一ヶ月ほど前、後藤君に手渡された連絡先に、学校から帰宅した私は意を決してメールを送った。

 そのときは期待半分といったところで、返信が来ることは実際無いと思っていたし、別に求めてもいなかった。

 噂通りならきっと忙しい人だし、高校生相手に時間を割いてくれることなんて普通に考えたら有り得ないことだし。

 すると、ものの数分で宇崎本人から返信があった。まるで連絡が来ることを待っていたとでもいうような早さに驚く。



 君がショパンを演奏している動画を拝見させていただいた。その感想を是非伝えたいと思い、このような無作法をとったことをどうか許してほしい』


 まず、演奏技術云々の前に、君は恐らく長期的なブランクがあるか、それとも定期的にレッスンを受けてはいないように思えた。


 時に大きく離れた音に飛ぶ際にバランスが乱れたり、指示された音程に対するスピード感が欠ける部分もあったし、四オクターブの広がりの箇所は表現がまだ甘い。


 まぁ細かい点を挙げればキリがないが、そのマイナス点を帳消しにするほど、君の内に秘めた才能には目を見張るものがあるのも事実だ。


 わかっていると思うが、ピアニストは才能があっても誰に師事を受けるかが重要である。その才能を活かすも殺すも誰に教わるかで大きく変わってしまうのだ。残酷だがね。

 その点、君は伸び代しかない。それも私が知る限り、誰よりも余白が残っている。

 まだ世界の舞台で活躍している同世代には、大きく遅れをとっているかもしれない。だが、それは数年後には立場が逆転することを約束しよう。


 今はまだ技術は粗削りもいいところだし、自分の技量に振り回されている感は否めない。しかし、磨けば必ず光り輝くダイアの原石なんだ。


 もし、君にピアニストになる気があるのなら、是非とも、私の手で君を輝かせてはもらえないだろうか。




「嘘でしょ……」

 返信内容を数度読み返した私は、思わず倒れてしまいそうだった。

 心臓が高なり、五十メートル走を走った後みたいに呼吸が苦しくなった。嬉しさと困惑で胸が一杯になる。

 ちょうど受験対策で師事するピアノの講師も見つからずにいたので、正に僥倖ぎょうこうともいえるこのチャンスに即返信をすると、数分おいてから再び返事が返ってきた。



 実は、今年のうちに仕事の拠点を本格的にオーストリアに移すつもりなんだ。

 本業とは別に、友人たっての頼みで音楽大学で教鞭を振るうことになってね。

 残念だが、日本での大学受験の面倒を見ることはできない。


 その代わりになんだが、私と共にオーストリアに渡らないか。

 生活は下宿という形でも、一人暮らしでも好きに選んでもらって構わない。その選択を一人の人間として私は尊重するし、掛かる費用を一切サポートさせてもらいたい。


 ただし、君が『一人で来る』ことが条件だ。

 常に音楽に向き合うことが出来なければ、ピアニストとして大成はしないからね。




 ――海外?一人で?それじゃあ……律人と離れ離れになっちゃうじゃん。


 あまりに信じられないほどの好条件を提示されて、一瞬にして天に昇るほど舞い上がっていたはずの気持ちは、次の瞬間に地まで落ちた。

 律人と離れるなんて、有り得ない。

 どれだけ魅力的な条件でも、それが、ピアニストになる最短のルートだとわかっていたとしてもだ。


 そもそも、そこまで固執する意味がわからない。宇崎の真意を尋ねるためにメールを送る。


 再び返信が届くまでの間、もう一度考えた。

 ――本当にこの提案を蹴っていいのだろうか。この機会を逃せば、もう二度と巡り会えない話に違いない。お前の惨めだった人生を変える最大のチャンスだぞ。夢を諦めるのか?

 頭の中で悪魔わたしが囁く。

 もう一方の天使わたしも同じく囁く。

 ――何言ってるの。大好きな律人と離れ離れになってもいいの?宇崎についていったら何年帰ってくるのかわからないんだよ?それでも夢をを選ぶというの?


 あーうるさい!黙って!


 ごちゃごちゃ考えたところで、海外に渡る選択肢なんて最初から存在しない。それは、私の為に毎日頑張ってくれてる律人に対して失礼でもあるから。

 私の為に八方手を尽くしてくれている律人に、とてもじゃないけどこんな話は伝えられない。


 そうこうしている間に、宇崎から返信が届いていた。



 君の保護者にも、この話は伝えておいてほしい。

 これは君の将来に関わってくる話だ。

 返事はどうであれ、それだけはよろしく頼む。




 ――だから言えるわけないじゃん。






「ゴホッ、なんで教えてくれなかったんだ」

「それは……律人が知ったら心配するかと思って……」

「嘘だ……本当は俺に隠れて話を進めようとしていたんだろ」

「そんな、そんなわけないじゃん!私は、私はずっと律人と」

「もういい」

 やめて、それ以上は言わないで――

「どこにでも、好きなところにいっちまえ……」



 

 泣きながら雨が降りしきる街中を走っていた。行き先なんてない。行くところなんてどこにもない。

 胸が張り裂けそうで、立ち止まってしまえば、足元の大きな穴に真っ逆さまに堕ちていってしまいそうな、底がない絶望感に襲われていた。


 ――なんで、なんであんなこというの?私のことなんて、どうでもいいの?


 私は、禁断の果実に手を伸ばしてしまったんだ。馬鹿正直に宇崎に連絡を取ってしまったばかりに、大事な人も、大事な場所も失ってしまったんだ。


 もう、私に居場所はない。

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