op.15

 作業員の誰かが捨てずに置きっぱなしにしていた空き缶が、鉄板入りの安全靴の爪先で蹴られて派手に飛んでいく音が響いた。

 ベンチに腰かけ弁当を食べていると、せっかくのおかずが不味くなるようなツラが秋の陽の光を遮るように俺の正面に現れた。


「お前、近頃シフト増やしてるじゃねぇか。どうせなら他のヤツ入れて欲しいんだがな」

「金が必要なんですよ。なにせ不安定な職ですからね」

 最低限の会話に留め、視界に映らないようにする。

「へっ、ただ突っ立ってるだけで給料が増えるなんざ羨ましい限りだな。オラッ!さっさと仕事に戻れよ」

「……まだ休憩時間は残ってますけど」

「なんだとぉ?お前最近調子にのってねぇか?昔ならした拳でも喰らいてぇのかよ」


 本人としては精一杯威嚇しているつもりなのだろうが、凄まれたところで怖くもなんともない。ただ、今日の荒木は一段と虫の居所が悪いらしく、なにをいっても機嫌を損ねてしまうので対応に困り果てていると、他の作業員も遠巻きに様子を眺め、面倒なことはするなよと、視線で訴えていた。

 誰も好き好んでこんなところでトラブルを起こしたくはない。


 ご自慢の啖呵が無視されたと勘違いした荒木は、いいことを思い付いたとでもいうようにニタニタと笑っている。こういう顔をするときは大抵ろくなことはない。

「そうだ。てめぇの派遣先にクレームいれてやってもいいんだぞ。そしたらお前は一発でクビだ。ザマァみろ」


 ――俺が、クビだと?俺が、テメェの小言をどれだけ我慢してきたと思ってるんだ。許せない一言に理性は簡単に吹き飛び、次の瞬間には荒木は地面に倒れ天を仰いでいた。

「て、て、てめぇ!殴ったな!」

「……くそ、やっちまった」

 右手の拳には血が付着している。荒木はというと、鼻を両手で押さえながら涙目で俺を睨んでいた。

 どうやら昔の武勇伝のメッキは剥がれてしまったらしく、あちこちから押し殺した笑い声が聴こえてくる。


「こ……この事はしっかりと上に報告させてもらうからな!これでお前はおしまいだ、バカ野郎が!」

 完全に頭に血が上った荒木は、もう話すことなどないとその場を離れようとしたが、俺の突発的な行動とはいえ、ここで職を失うわけにはいかなかった。

「それは、勘弁してもらえないですか」

 回り込んですかさず頭を下げるが、

「どの口がいいやがる!もういい、とっとと失せろ」と聞く耳も持ってもらえない。


 ――不味い、このままだと本当にクビになってしまう。


 そう焦ったとき、へらへら笑いながら小野口が近づいてきた。すると、気のせいか荒木の顔が少しひきつったような……。

「まぁまぁ~荒木さんも落ち着いてくださいよ」

「なんだよ……小野口。ちょっと黙ってろ」

「いやいや、そんな口聞いていいんすか?」

「は?お前、なに言って……」

、バラしてもいいんすよ?」


 小野口が短く告げたその一言に、それまで怒りで真っ赤に染まっていた顔が、まるで赤信号から青信号へと変わるように瞬く間に血の気をなくした。

「そ、それだけは勘弁してくれ」

 周囲の眼に人一倍気を配る男が、辺りを気にすることなく、すがりついてまで小野口に必死にナニかを懇願していた。

 普段は好き勝手に威張り散らしていた男と、同一人物には思えないほどの狼狽ぶりだったが、一番驚いたのは小野口の変化だった。


「なら、いちいち律さんに絡んでんじゃねぇよ。わかったか」

「は、はひぃ!」

 まるで息を吐くように口八丁で荒木を丸め込み、蝿を追い払うような仕草でしっしと手を振る姿は、俺の知っている軽い男の所作ではなかった。

「どうしたんすか?」

「いや、それは俺の台詞なんだが」

「ああ、荒木のことっすか?じつはアイツ結婚してる癖にキャバ嬢に入れ込んでるらしいんすよ。そんでその資金はサラ金から借りてるみたいで、それも限度額一杯。家計は火の車らしくて、バレたら奥さんにボコボコにされるって泣きついてきたって訳ですよ」

「どうして……お前がそんなこと知ってるんだよ」

「それは……俺、こういうもんすから」

 財布から一枚の名刺を取り出すと、慣れた手付きで俺に差し出してきた。


「小野口……探偵事務所?」

「そうっす。しがない探偵をやってます」

「ちょっと待て。頭が追いつかない。お前は俺と同じ交通誘導員じゃないのか?」

 頭を掻いて申し訳なさそうに答える。

「騙すつもりはなかったんすけど、これも依頼だったんすよ。荒木アイツの奥さんから旦那が浮気してないか調査してくれって依頼があったんすけど、これがなかなか用心深くて困ってて。そんじゃ仕方ないって仕事先に潜り込んで、やっとあの汚ねぇ尻尾を捕まえたんすよ」

「だけどよ、お前荒木を脅してたよな。それってなんだ……依頼主との守秘義務ってやつには抵触しないのか?」

「奥さんには適当に伝えておきますよ。どうせ吹けば吹き飛ぶような探偵事務所っすからね。つつかれたところで痛くはないっす。実はあのコンサートのチケットもそれで頂いたんですよ」

「はぁ、なんだかお前のことがよりいっそうわからなくなったよ」

「演技派なもんで。あ、あと老婆心ながら忠告しておきますけど」

 ポケットから取り出したタバコを咥えると、神妙な面になった。

「なんだ」

「こんな仕事続けたところで、給料は雀の涙っすよ。真莉愛ちゃんのことを本気で手助けしたいなら、流石にあの母親の言いなりになってちゃダメだと思います」


 それじゃあこれで、と業務時間にも関わらず小野口は去っていった。それっきり現場に姿は現すことはなく、残りのバイト代も受け取らなかったようで俺が預かっていた。

 その日以来、怖いくらいに荒木の態度は軟化したが、相当に太い釘を刺されたらしい。元はと言えば自業自得だが。



 ある日のバイトの帰り道、小野口に言われたことをふと思い出した。

 確かに奴のいう通り、いくらシフトを増やしたところで大した金額にはなりはしない。

 それは百も承知だった。だが、他に選択肢がない俺には体を動かすことでしか稼ぐ手段がないのだからしょうがない。


 あの日――真莉愛と共に買い物に行った時に気づかされた。

 あの街を歩いている若者の数が、一体どれ程いたのか知るよしもないが、少なくとも周囲にいた同世代の顔は程度の差こそあれ、俺にはとても幸せそうに写った。

 誰もが当たり前のように掴んでいる幸せは、俺にはとっくに手に入らない代物だったが、隣にいる真莉愛は同年代だというのにその幸せの一欠片すら手にすることが許されない。

 その状況が酷く歯痒く、とても悔しい思いをした。


 それからだった。血の繋がりがあるわけでもない彼女をどうにかしてやりたいと思うようになったのは――

 もっといえば、少しでも笑ってほしいと願っていたのかもしれない。

 毎日のように悩んで、その帰り道でも答えは出ずにアパートの前まで辿り着くと、また今日も玄関前には会いたくない奴が立ち塞がっていることに気が付き、思わずため息が溢れた。


 いつものように真莉愛の母親が煙草をふかしながら突っ立っている。

 喫煙所かなにかと勘違いしているのか、俺の部屋の前にはいつからか吸殻が山のように棄てられ、それを片付けるのが日課となっていた。

 まだ向こうは俺の姿に気づいていないようだが、今日はいつもよりイライラしているのが、口から吐き出される煙の量と、癇に障るヒールの音から推察できる。悲しいがその程度には癖は把握していた。


 正直話したくもない相手なのだが、退いてもらわない限り部屋に入ることもできない。素直に階段を登り声をかけた。


「どうも。そこ退いてもらってもいいですか」

 聴こえてるはずだろうに、女は聴こえぬ振りをして落とした煙草をヒールでかき消すと、新しい煙草に火を点け鼻から盛大に煙を吹き出した。

「あの――」

「三万」

 またか――と内心諦めに似た心境になる。

「なにボケッとしてんだよ。さっさと払いなよ」

 こちらを振り向き、顔めがけて吐き出した紫煙の向こうに覗く顔は、薄気味悪く歪んでいた。


「本当に真莉愛に使ってくれるんですよね」

 財布から差し出した札を引ったくるように奪うと、満足といった具合で返事の代わりに鼻から煙を吐き出す。

「約束だぞ。娘をしっかりと面倒見ると」

「なに言ってんだいあんた。うちの娘とやってんだろ?その料金と思えば安いくらいさ」

 ――こいつは何をいってるんだ?

 俺は自分の親父のことは今でも最低な人間だと思っているが、それ以上に目の前の女は親として、人としてどうかしていた。

 その言い方は自分の娘をといっているようなものだったから。


 ――どうしてこのような関係になってしまったのか。

 事の始まりは、真莉愛と買い物に出掛けた日、帰ってきた俺にこの女が提案をしてきたことから始まった。


「あんた、うちの娘をどうしたいんだい」

 夜中にも関わらず、遠慮なく扉を叩かれて無理矢理起こされると、アルコールの臭いを漂わせた女が立っていた。

「こんな時間に何の用だ……」

「いいから答えなよ。あんた、うちの娘のこと好きなんだろ……えぇ?」

「なにを馬鹿なことを」

「あんたは娘を女として見てる。そうに違いない。だったら、幸せにしてやらんと甲斐性なしってもんさ」

「だからなにをいって」

 母親は、無言で手の平を向けてきた。何をしてるんだと口にしようとした次の瞬間、

「五万」

「は?」

「毎週五万、あんた払いなよ。そうしたら娘も少しは楽が出来るかもねぇ」

 けたけたと嗤いながら提案する馬鹿女など、その場で無視シカトして部屋に入れば良いのに、足はクサビを打たれたようにその場から動かなかった。

「五万なんて、払えるわけないだろ」

 もし、少しでも金を支払えば――これからずっと蛇のようにしつこく付きまとわれることは間違いない。それなのに自然と手は財布から二万を取り出していた。


「なんだいその額は……あぁ、金がないのかい。なんなら今回はこの額で許してあげるよ」

「あんた……自分がなにやってるのかわかってるのか 」

 問いに煙を吐き出し答える。

「あんたこそタダで娘とヤれると思ってんじゃないだろうね。若いだけのアイツのどこがいいのか知らないけど、それなりの対価だと思って諦めな」

「ふざけるなよ!もし、その金を自分のために使ってみろ……そのときはどうなるか覚えておけ」

 自分でも驚くほど低い声で脅すと、女は腹立たしげに眉をひそめる。

「良いじゃないかい!あんたは金払えばうちの娘を好き勝手出来るんだよ。それよりどこまでヤったんだい?え?私の娘だからよっぽど――」


 それ以上下卑た言葉を聞いてられず、耳障りな声を遮るように扉を閉めた。


 本当にこれでいいのか――

 あれから金を渡すのは四度目だった。

 金を稼ぐのも一苦労だが、こんな形がこれからも成り立つなんて思ってはいない。

 もし真莉愛がこの事を知れば、どれだけ悲しむことか――

 それでも、今はこんなことしかできない自分が恨めしい。


 満足げに金を受け取った女は手にした三万を財布にしまうと、機嫌よく真莉愛が待っている部屋へと戻っていった。


 コンサートは明日に迫っていた

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