agitato
朝から微熱と咳が止まらなかった俺は、近くの病院へと訪れていた。季節の変わり目だからだろうか、待合い室には多くの患者がマスクを着け、じれったいように自分の番を待っている。
母親に連れてこられた小さな子供なんかは、早々に退屈に屈し、あちらこちらへと騒がしく駆けていた。
かくいう俺も既に問診票に記入してから、かれこれ四十分以上は待たされていた。やはり家で大人しく休んでいれば良かったと後悔したが、後の祭り。
俺の体調を心配した真莉愛が執拗に説得をしてくるものだから、こうして病院くんだりまでやってきたのだが――
仕事に穴を開けるのは痛かったが、社長に病院へ行ってから出社すると伝えると今日はそのまま休んでて良いと告げられた。
いつの間にか労働に喜びを感じていた俺は、休むことがなによりつまらなかった。いっそ働かせてほしいとさえ思う。
「雨宮さーん。雨宮律人さーん」
あまりに暇すぎて舟を漕いでいたとき、ようやく自分の名前が呼ばれた。凝り固まった腰をほぐしながら診察室へ向かうと、そこで待っていたのは待ちくたびれた小一時間が馬鹿らしくなるほどの流れ作業だった。
簡素な診察室の椅子に腰を下ろすと、こちらも見ずに医師は診断を下す。
「風邪ですね。お薬を出しておきます」
「はぁ」
その一言で診察室から追い出されてしまった。
――やっぱり家で大人しくしてるべきだった。風邪薬でも飲んで休んでいたほうがまだマシだったな。
病院を抜けると、外はいつの間にか灰色の雲が低く垂れ込め、季節外れの冷たい雨が降っていた。せっかく五分咲きまで咲いた桜が散ってしまうのでは――ふと思いを馳せた。
朝出掛けたときには晴れていたというのに、今日はついてないな。
そういえば、出掛ける前にたまたまやっていた
占いのコーナーで、自分が最下位だったことを思い出す。きっとあの占いとニコニコ顔の女子アナウンサーが悪いんだ、と八つ当たりをしていると、病院の正面にわざわざ横付けしたタクシーから一人の男性が降りてきた。
俺よりは長身であろう男は、四、五十代くらいだろうか、いかにも高そうなジャケットと、雨にも関わらず白いスラックスを履きこなしている。俺とは明らかに違う人種だ。
傘を指してこちらに向かって来る男の顔は精悍そのもので、勘違いでも気のせいでもなければ、俺の方に確実に向かってきていた。
誰だアイツ……。
もちろん男に見覚えなどない、はずだった。だが一歩一歩近寄ってくる度に、記憶の底に沈殿していた
手を伸ばせば届きそうな位置で止まった男は、傘を閉じて自らの名を名乗り始めた。
「やっと会えた。私は宇崎京介という。君が、雨宮律人君だね」
「宇崎……?宇崎っていや、ショパン弾きのピアニストじゃないか。なんでこんなところに……いや、そもそも何故、俺を知ってるんだ」
突然現れた世界的なピアニストに、感動するどころか警戒心が勝った。頭のなかでこの男に対する
今にもナニか思い出しそうな――目の前の宇崎を見ていると、酷く心が揺さぶられ、不快な気持ちに体が支配されていくのを感じた。
「どうやら私のことは知ってるようだね。それなら話は早い。今日は君に話したいことがあって来たんだ」
「ちょっと待て、俺の質問に答えろよ。あんたは何で俺の事を知ってるんだ」
「私は君の事をよく知ってるよ。だって――君のお母さんを奪った男なんだから」
その瞬間、世界から音が消えた。
思考は停止したが、記憶は自動的に蘇っていく――そうだ、母とコンサートに出掛けるときは、決まって同じピアニストの講演だった。そして終演後の控え室に母は毎回通されていた。
戻ってきた母はいつも幸せそうな顔だった。
俺は廊下で母が出てくるのを待っていたんだ。
母が奪われたようでむしゃくしゃしていたあの当時の記憶が、昨日のことのように鮮明に思い出されていく。
「そうか……あの時のピアニストこそ昔のアンタだったのか。あの日にお袋を奪い去っていったのもアンタだったんだな。よくもまぁノコノコと姿を見せたもんだ」
事実を知ると、俺の頭は瞬間的に怒りで沸騰した。熱湯ではない。ぐつぐつと沸き立つ
俺と、奏太の人生をメチャクチャにした人間が目の前に存在しているというだけで、殺意が芽生えた。
「律人君。君からしたら僕は断罪されるべき男なであることに間違いはない。今さらだけど、本当は律人君も奏太くんの事も引き取るつもりだったんだが……それは叶わなかったんだよ」
「やめろ……今さらそんな話を素直に聞き入れるとでも思ってるのか?お前のせいで……俺が、俺と奏太がどんな目に遇ったのか、お前はわかって言ってるのか!」
「虫ががよすぎることは重々承知している。ただ、妻は君達の事を忘れた日はない。それはわかってほしい。そもそも結婚しようと告げたのは私なんだ。私のことは煮るなり焼くなり好きにすれば良い。その覚悟で今日は伺ったんだ」
「ちっ……この糞野郎が。そもそも何処で俺の事を知った。誰かに聴いたのか」
「良ければ、場所を変えて話をしないか」
宇崎が周囲に目配せするので、つられて周囲を見回すと、遠巻きにこちらの様子を伺っている患者や看護士達が、俺と眼を合わせるなり途端に顔を逸らした。
宇崎の提案に乗るのは癪だったが、病院で面倒を起こすのは避けたかったので停車したままのタクシーへと乗り込むことにした。
「どこに向かってるんだよ」
宇崎の口からは誰しもが知る有名ホテルの名が飛び出した。
「出来れば人目につかないところで話をしたかったからね」
首都高に合流し、目的地のホテルへと向かっている途中、一言「すまなかった」と謝罪してきた。
「実は、もう十年ほど前から、君のことは探していた。でも足取りがなかなか掴めなくてね。下手な探偵を雇えば、時間も金も浪費すると思って自分で探していた」
結局時間はかかったけどね、と苦笑いをした。
その自分勝手な理由に再び怒りが再燃する。宇崎にとって俺も奏太も、まるで恥ずべき汚点のような物言いに、殴りかかろうとする腕を抑えるのに必死だった。
「はっ、そりゃ数々のご経歴にケチがつくのは避けたいよな。幼い子供から全てを奪っていったんだ。それがどうして俺を探し出そうとした?罪悪感でも感じたのか?」
「……あの当時、私はあまりにも愚かだった。自分のことばかり優先して、律人君の家庭を壊してしまったことは見て見ぬ振りをした。それは万死に値すると思う。人の不幸の上に成り立つ幸福など、所詮紛い物にすぎないのにな……」
宇崎はバッグマラー越しに運転手に視線を送る。
「続きはホテルに到着してから話そう」
今日は厄日どころではないな――ラジオから流れる事故情報を耳にしながら、途中長い渋滞にはまり身動きが取れずにいた。
人生一寸先は闇。どこに奈落が待ち受けているかわかったもんじゃない。
隣の宇崎は何を考え、何を伝えようとしているのか。これから聴くであろう話の内容を俺は知るよしもないが、一つだけ確かなのは、今日の俺はツいていないということだ。
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