op.26
慌ただしかった師走は瞬く間に駆け抜けていき、冬の終わりと共に季節はゆっくりと春に移り変わっていく。
開花にはまだ早い庭の桜の蕾は、寒空の下でいまかいまかと咲き誇るその時を待っていた。
季節が移ろいでも俺の生活はさして変わらない。真莉愛の大学進学の為にがむしゃらに働くだけだった。
自堕落だった昔と比べれば、時の流れも全く変わるものだと感慨深くなる。
前園に就職した当初は、肉体的にも辛かった配送業務だったが、今では既存の配送ルートとは別に新規ルートも任されるようになり、微力だが配送の合間に近場の居酒屋などに顔を出すようにして、営業の真似事もしている。
病み上がりだった社長の体調も快報に向かいつつあり、会社の業績も回復傾向にあった。
社長からは常日頃よく頑張ってくれてるからと、月々の給料に色をつけてもらったりしていたので引っ越し費用は既に貯まっている。
その問題の引っ越し先も先月条件に合致した物件を見つけ、既に契約を済ませていた。
荷造りも済ませて、あとは転居を迎えるだけだった。
何もかもが上手く進んでいるつもりだった。
「それでご丁寧に転居の挨拶って訳ですか」
真莉愛を一人家に残した俺は、しばらく顔を見せていなかった大家の娘の自宅に出向いた。
「ええ。そういえば大屋さんの具合はどうですか?」
「ああ、あれはもうダメね。すっかり認知症が進行しちゃって、自分のことを幼稚園児だと思ってる節があるわね。実の娘のことも綺麗さっぱり忘れてるわよ」
どこか投げやりに語る。どうやら認知症が進行してしまった大家は、有料介護施設に入所させられたらしい。そこで相続分はいかほどあるのかと実家の財産を調べたところ、相続するはずの土地や建物に全くと言っていいほど価値のあるものが無かったと憤っていた。
どうやらコーポ堂島もその一つのようで、既に興味はなくなっているらしい。
憎まれ口を叩かれていた去年の夏には、こうなることは想像もしていなかった。大家の事など、ただの性格がねじ曲がった老人程度にしか思っていなかったし、事あるごとにちゃんとした職に就けと口煩く言ってきたのには正直
ただ、今になって思うのは、あれは大家なりの心配りだったんだろう。子供達に鬱陶しがられていた不器用な老婆は、そうやってアパートの住人と長年接していたのかもしれないと思うと、いたたまれない気持ちになる。
もういいかしら、と暗に帰ってくれと促されたため、俺は深くお辞儀をしてからその場を立ち去った。
背後で扉を閉める音が聴こえたちょうどその時、ポケットの中のスマホが急に振動したので取り出すと、画面には侑里の名前が表示されていた。
「もしもし。どうした」
「あのさ、今日時間ある?」
「今日?まぁ……なくはないが」
「じゃあ二十時、駅前のバー・アムールに来て」
そう言うや否や電話は一方的に切られた。こっちはまだ返事もしていないというのに、相変わらずの奔放ぶりに苦笑いした。
それにしても一体何の用なのか――
自宅に帰宅すると、がらんとした部屋の中央で一人黙々と勉強に打ち込む真莉愛の姿があった。
休憩がてら、コーヒーをミルク多めで淹れてやるのが癖になりつつある。
「受験勉強は捗ってるか。そういや進路はどうする。希望する大学は決まったか?」
「うん。やっぱ東京藝大がいいかなって考えてるよ。国立で授業料も安いし、それに引っ越し先からも電車で通えるしね」
真莉愛は自分がどうこうよりも、常に俺に金銭面で負担をかけまいと気を配ってくれていた。それはそれで優しさが嬉しくもあるのだが、もう少し頼ってくれてもいいと思うのは欲深いだろうか。
少し家庭に余裕が生まれても、真莉愛の姿勢に変わりはない。
いつだったか、特に深い意味もなく一人暮らしをするつもりはないのかと尋ねたときなんて、「そんなのお金の無駄!」と一喝されてしまった。
確かに今はどれだけお金があっても足りないのは事実だが、意地でもあの日受け取った三百万には手をつけるつもりはなかった。大学費用くらい俺が出してやりたかったから。
真莉愛が音大に進むと決意してから、こっそり東京藝大のことを調べたことがある。
すると、受験するには実技対策の為に講師に師事しなければならないと知り、さらに調べると一回のレッスンで数人の諭吉が飛んでいくことがわかった。
その
「そうだ。今夜は少し出掛けてくるからな」
「え?夜に出掛けるの?何処に?誰と?」
それまで順調にペンを走らせていた手がピタと止まり、ぐいぐい詰め寄ってくる。
顔がぶつかりそうな距離感にドギマギし、肩を押して離すと不満そうな顔で見上げてきた。
「同級生と話をしてくるだけだから」
「本当に?」
「ああ」
本当は侑里と会ってくるなんて伝えたら、何を言われるかわかったもんじゃない。咄嗟についた嘘に胸が痛む。
納得はしてないだろうが、真莉愛は勉強に再び戻った。てっきり尋問でも受けるかと想像していたので、肩透かしを喰らった気分だった。
その日の夜――約束の時間の十分ほど前にバー・アムールに到着すると、既に侑里はグラスを傾けていた。
その横顔は普段見せる気だるさよりも、憂いが帯びているように見える。
その隣に黙って着席すると、俺に尋ねもせずに勝手にビールを注文した。
だってビールしか飲まないんでしょ?と、未だに俺の趣向まで覚えてる記憶力には舌を巻かされる。そういう女性だったのだ。侑里は。
すぐに出されたビールを半分ほど流し込むと、隣で煙草を
「どうして俺を呼び出したりなんかしたんだ?」
溜まった澱を吐き出すように煙を吐くと、ポツリポツリと語りだす。
「実はね、私、仕事辞めてたんだ」
その事実は初めて知らされたが、驚かない自分がいた。確かに最初こそ暇を見つけて家業を手伝ってくれてるのだと思っていたが、それが数ヵ月も続けば仕事はどうしたのかと疑問に思う。
敢えてそれを口にはしていなかっただけだ。
「そうなのか。あれだけ仕事にのめり込んでたっていうのにどうして」
「まぁ……恥ずかしい話、職場で上司と不倫しちゃってね。それが会社にバレて、立場の低い私は逃げるように辞めたのよ」
「それって……別れる時に置き手紙に書いてあった男か?」
別れの朝――テーブルの上には「他の男と付き合うから」と、一行だけ書かれた手紙が置かれていたことを思いだし、口にしていたビールが途端に苦く感じた。
「ええ……。でも律人と別れてから初めて相手が妻帯者だって知って、そこからはもう喧嘩の毎日で……結局私は何もかも失った」
「今はどうやって暮してるんだ?」
「幸い貯金はあったから、今は切り崩しながら生活してる。それで今日の呼び出した訳だけど……私、明日アメリカに発つの」
「明日にアメリカだって?またどうして」
俺の疑問に、これはとある女性のお話だから、と前置きをしてから語りだした。
「あるところに一人の寂しい女性がいました。その人は心を寄せていた男に捨てられ、身を捧げていた会社からは夜逃げ同然に逃げ落ち、人生に希望もなく一人で腐ってる時間を過ごしていました。そんな時、なんの因果かかつて自分勝手な理由で別れた男と再会したのです。その男も以前は生きながら死んでるような男でした。自分と同じ人間だ――そう思っていたのですが、いつの間にか別人のように真っ直ぐな人間へと姿を変えていたのです。女性はその姿に――ああ……きっと私なんかよりももっと大事な存在が出来たんだろうな――と直感したのです。その男ときたら、女性の気持ちなんてこれっぽっちも気がつくことなく、大事な人の為に父親になろうと必死にもがいていました。その姿を見て、私もいい加減立ち上がらなくては――そう決心したのです。その女性は子供の頃にブロードウェイの舞台に立つという夢を抱いていました。舞台女優を目指すには些か遅すぎる気がしますが、男の真似をして夢を追いかけてみるのも悪くはないと思うようになったのです」
話を終えると、手元のグラスの残りを一気に飲み干して俺の肩にもたれ掛かってきた。
「あのCDはまだ持ってるの?」
「ああ。今じゃ大事な宝物だ」
「そっか。でもそれ以上に大事なのが真莉愛って子なんでしょ?」
「ああ……真莉愛が一番大事だよ」
それを聞けて良かった、と笑う彼女の目元には、うっすらと涙が滲んでいた。
それから二人で思い出にもならない些細な話を肴にしながら、時計が十二時を回ったのを確認したところでお開きにした。
外に出るとタクシーがちょうど路肩に停車し、侑里だけ後部座席に乗車させる。
ふと、別れ際に尋ねてきた。もしもの話を。
「ねぇ。あのまま別れないでいたら、二人幸せになる未来もあったのかな」
「さぁ……あったかもしれないし、なかったかもしれないな。確かなのは、俺達はそれぞれの道を歩んでるってことだ」
「そうね……全く、律人にそんな口を利かれる日が来るなんて思いもしなかったわよ」
じゃあまたな、と一言別れの挨拶を交わし見送ろうとすると、ドアが閉まる直前に何かを伝えてきた。
運転手が頃合いを見計らうようにアクセルを踏み、テールランプの淡い光だけ残して遠ざかっていく。
俺達はそれぞれの夢を追おう。
侑里は侑里の夢を――
俺は、俺の夢を――
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