第12話 ローデルタの森

「ネモフィラ様?」

「あ、ええと……。その、ありがとう」

 奇妙にあいてしまった間を誤魔化そうとして曖昧に笑ったら、不思議そうに首を傾げられた。首筋のあたりが熱くなる。

「ところで、ネモフィラ様。明日の予定ですが、私がローデルタの森まで行ってまいりますので、貴方はこの宿でお休みになっていてください」

「えっ! ちょっと待って」

「ローデルタの森には、人間も喰い殺す獰猛な獣が出ると聞いています」

 淡々としているが有無を言わさぬ口調で放たれた衝撃的な内容に、血の気がさっと引いていく。

「そういうわけなので、私が一人で行ってまいります」

 レイヴンは騎士だ。しかも、王国の命運を分ける重要な旅の護衛を国王から任されるだけの実力を備えている。今も、彼の瞳に不安や恐怖から生ずる揺らぎは全く見受けられない。危険な森に一人で飛び込むことへの躊躇が一切ないのだ。それだけ腕に自信があるということだろう。

 それに比べてネモフィラは、つい数日前まで花屋勤めのごくありふれた娘だった。

 そう考えると、彼の下した判断は極めて正しい。

「……私は、足手まといってこと?」

 それでも、戦力外通告をすんなりと受け入れることはできなかった。

「ええ。貴方に万が一のことがあったら、私は死んでも死にきれませんので」

 レイヴンはレイヴンで一歩も譲る気配がない。

 王女の護衛騎士という彼の立場を考えれば当然の帰結なのかもしれないが、ネモフィラとしても大した理由もなく単に駄々をこねているというわけではなかった。

「でも、レイヴンは虹透花の現物を見たことがないでしょう?」

 幸いにも、シュカに採取してくるよう依頼された花の現物を、ネモフィラは見たことがあった。ここ十年程度の環境の変化によって、今となっては森の奥地にしか咲かない希少な花となってしまったが、昔は市場にも出回っていたのだ。

 ネモフィラは、ブラムブルの店頭に並んでいたその花が好きだった。

 一見するとただの白い花なのだが、太陽の下では七色の燐光を発する美しい花なのだ。

 レイヴンはネモフィラから視線を外して、ぼそりと答えた。

「見たことはないですが……あらかじめ特徴を聞いておけば、見分けることは可能かと」

「もし取ってきたものが、間違っていたらどうするの?」

「では、私が間違えることのないように、徹底してその特徴および類似する花との相違点を今この場でご教授ください」

「そこまで言うほど、私には付いてきてほしくない?」

「先ほど申し上げた通り、ローデルタの森に足を踏み入れるのは命懸けの行為です。率直に怖いとは思わないのですか?」

「こ、怖くないもん」

「目が泳いでいますよ」

「うっ……。たしかに、何の訓練も受けていない非力な私が付いていったところで、レイヴンに迷惑をかけてしまうとは思う。でも、あなたが思っている以上に、花をきちんと見分けるのには技術がいるの」

 世界には似たようで別の種類の花が沢山存在する。

 その道のプロでも稀に間違えることがあるのに、素人が広大な森の中から聞き知った情報のみで目的の花を判別するのは彼が想像している以上に難しいことに思えた。

「あなたの気苦労を増やしてしまうことは、とても申し訳なく思う。それでも……私にも役に立てるかもしれないことがあるのなら、なるべくじっとはしていたくないの。お願い、レイヴン」

 こうしている間にも、王国には瘴気の魔の手が伸び続けている。

 膝の上でぎゅっと手を握りこみながら、祈るように目の前の彼を見つめた。

 しばしの沈黙の後、レイヴンは短く息を吐いた。

「……森の中では、絶対に私の傍を離れないと約束してください」

 渋ってはいたものの最終的に認めてくれた懐の広さに、心から笑顔が湧き出てきた。

「ありがとう!」


 翌朝になってすぐにシェレンを発った二人は、辺り一面を鬱蒼と生茂っている森の中へと足を踏み入れていた。空は背の高い樹々にとざされており視界が薄暗い。森の澄みきった空気はしんと冷たく、身体の芯から冷えるようだ。

 きょろきょろと辺りを見回しながら、樹の根が張っているでこぼことした道を恐々と進んでいくと、急に隣を歩いていたレイヴンが足を止めた。

「ど、どうしたの?」

「ネモフィラ様。本当にこのまま進んで大丈夫ですか?」

「な、なにが?」

「足が震えています。今ならまだ引き返せますよ」

 うまく誤魔化せているつもりだったが、早速、見抜かれてしまった。

「これは……思っていた以上に、森の中が寒かっただけで」

 言い訳を、最後まで紡ぐことは叶わなかった。

 ――ガルルルルルルルッ。

 どこからともなく響いてきた獣の遠吠えがネモフィラから言葉を奪い、体内を巡る血液の温度を急降下させたからだ。音の響き方から察するに、場所は二人の立っている地点からそう離れていない。

「ネモフィラ様」

 レイヴンは鞘からサーベルを引き抜き、信じ難いほど落ち着いた口調で怯えるネモフィラに囁いた。

「大丈夫です。貴方は、私が守ります」

 返答する隙すらもなかった。

「「ウォオオオオオオオオン」」

 空を裂くように獣の咆哮が響き渡った瞬間、目にもとまらぬ速さで駆けだしたレイヴンが、樹々の間から襲い掛かってきた二頭の狼を連続で斬りつけた。

 舞い散る大量の血しぶき。醜悪な血の臭い。凶悪な唸り声。

 瞳を血走らせ毛を逆立てていた狼達は、地響きを立ててあっという間に崩れ落ちた。どちらも鮮やかに腹から切り裂かれている。森の土が、二つの亡骸から流れ出す血を吸って赤黒く染められていった。

 全てがあまりにも一瞬の出来事だったので、ネモフィラは呆然と立ち尽くしていることしかできなかった。

 レイヴンは、獣の筋肉の痙攣が完全に止まったのを見届けると、ゆっくりとネモフィラの方を振り返った。

「よく、気を失って倒れませんでしたね」

 透き通るように白い顔と漆黒の軍服に、赤黒い血が跳ね返っている。

 彼は、それでも尚、平然とした顔をしていた。

 強いのだろうとは想像はしていたが、まさかこれほど並外れた腕を持っていたとは。突出した力量と尋常でない肝の据わり方に、ただただ圧倒されてしまった。

「ありがとう。レイヴンは……すごく、すごく強いのね」

 対するネモフィラはといえば、何もできなかったくせに唇は血の気を失って、歯は未だにカタカタと震えている。本音を言えば、今にも失神してしまいそうなぐらい怖かった。

 未だに動悸が収まらない。悔しいぐらい情けなかった。

「……褒められたものではないのですけれどね」

 その呟きは、彼が剣を鞘に収めた音にかき消されて、ネモフィラの耳まで届くことはなかった。

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