第2話 まるで人形のような彼
王都ルミナスから最も離れている土地、王国最南端に位置するリゲイツ。
今から二百年前にかつての王都として栄華を極めたその場所は、今では見る影もない荒れ地となっている。
リゲイツに、瘴気を発散する大樹が植わっているからだ。
歴史書には、この王国にはあらゆる災厄をもたらす悪魔が存在し、その悪魔こそが民を苦しめるためだけにこの大樹の種を植えたのだと書かれている。
その悪魔の名を【神】、瘴気を振りまく樹の名を【
呪大樹の発散する瘴気を抑えるには、五十年に一度、ある特殊な水でこの樹を清めねばならない。この水は【聖水】と呼ばれ、王家の血を引く者にしか解けない封印のかかった場所に湧く。
今年で以前に呪大樹を聖水で清めてから四十年が経つ。
四十年前は、現国王ライデンの兄にあたるレオンが聖水を求める旅に出た。
研究者の調査によると、ここ数年前から既に聖水の浄化作用が薄れているらしく、呪大樹が放出する瘴気は濃度を増していた。そのため、今のリゲイツは立入り禁止区域に指定されている。
この事態を受けて、先日に、先王レオンの子にあたるエルド王子が聖水を求める旅に出たという新聞記事を目にした。国民は、彼が聖水で呪大樹を清めて無事に王都へ帰還することを心から祈っている。
王族は、悪しき神に対抗できる、唯一の希望であるから。
ネモフィラは、一度だけ本物の呪大樹を見たことがあった。
学校の社会科見学の授業で訪れたのだ。四年前のリゲイツは、まだ立ち入り禁止区域に指定されていなかった。
そこは、吹き荒ぶ風が冷たく、まばらに雑草が生えている程度の荒れ地だった。
ここにかつての王都が存在していたとは誰も信じられないような荒廃した土地に、その大樹は異様な存在感を放ちながら根を張っていた。
野太い幹は怨念をしみこませたかのように黒々としていて、枝から生茂っている葉っぱは透き通っていた。日差しを受けて、淡く紫の光を散らしながら。
不気味に思えるほど、美しい樹だった。
視界に入れた瞬間、背筋を冷たい指で撫で上げられたような心地がしたのを今でも思い出せる。得体のしれない超越した存在に畏怖の念を抱いたのは、あの時が初めてだった。
『わあ、すごいね。綺麗すぎて、なんだか怖いや』
目を丸くしながら月並みな感想を述べたネモフィラに対して、彼女の隣に立っていたアンネは呪大樹を見上げながらうつろな瞳をしていた。
『……あたしには、憎い』
『アンネ?』
明らかに様子のおかしかった親友に視線を送ったら、アンネはようやく正気に戻って曖昧な微笑を浮かべた。
『ごめん、ネモ。あの、ええと……なんでもないよ』
常日頃はハキハキと物を言うアンネらしくない返答に、漠然とした不安を覚えた。
その時に抱いた悪い予感は、彼女が王城の専用療養室に運ばれて数年越しに的中した。
(アンネは、いつから瘴気に苦しんでいたんだろう)
もしかすると、アンネは学生時代の時から自分の身体の不調に気がついていたのかもしれないと考えてしまうのだ。
瘴気に侵された人間の専用療養室から、元気になって帰ってきた者の噂は聞かない。
アンネが瘴気に侵されていることに気がつきながら周りには必死の思いで隠していたのだとしたら、それはどれほどの孤独だったのだろう。地元ロッカの病院へ連れていかれた際に体内を巡る瘴気のことが発覚してしまった時には絶望したに違いない。
今となっては、その胸に秘めていた切なる思いを聞いてあげることすら叶わないけれど。
(あんなに傍にいたのに、何にも気がついてあげられなかった。親友失格だ)
こんなことになると分かっていたなら、すぐにでもロッカに駆けつけていたのに。
悔しくて、悲しくて、胸が張り裂けてしまいそうだ。
ネモフィラの白い頬に、一筋の涙が伝った。
どんなに泣いても、アンネは帰ってこない。
そんなことは、一週間前に嫌というほど思い知らされている。
あの日は身体中の水分が干上がってしまいそうなぐらい泣いたけれど、非情な現実は何一つ変わらなかったから。
「っっ。アンネ……。会いたいよぉ」
もう涸らしきったと思っていた涙が、また次々に浮かび上がってくる。
墓石の前にへたり込んで鼻水をすすっていたら、背後から誰かの足音が響いてきた。
驚いて振り返ると、やってきた男はネモフィラからさっと視線を外した。
指通りの良さそうな漆黒の髪に、陶磁器のように滑らかな白い肌。
鼻筋は綺麗に通っていて、形の良い唇は引き結ばれている。
引き締まったしなやかな体躯を厳めしい軍服に包んだ男は、切れ長の瞳をじっとアンネの墓石に注いでいた。
ネモフィラは気がつけば泣いていたことも忘れて、その男の美しさに見入っていた。
目が離せなかったのは、彼の顔立ちが驚くほど整っていたからというばかりではない。
墓石を見つめるその横顔に、一切の人間らしい表情を読み取れなかったからだ。
(まるで、人形みたいな人だ)
男の持つ異様な雰囲気に呆けたようになっていたら、彼はすぐに墓石から興味を失ったらしい。ネモフィラに視線もくれず立ち去ろうとしたので、思わず立ち上がって声をかけていた。
「あの」
男が振り返る。
磨き上げた宝石のような紫の瞳に射抜かれて、どきりと胸が高鳴った。
「なんでしょうか」
初めて聞いた男の声は、よく通る涼しげな声だった。
「あなたも、アンネの知り合いですか?」
彼はネモフィラの問いかけに対してわずかに瞠目した後、すぐに無表情に戻った。
「……いえ。違います」
「そう、ですか」
どう言葉を続けて良いのか分からなくなってしまったネモフィラに、男は淡々とした口ぶりで尋ねた。
「貴方は、彼女の知り合いだったのですか」
「はい。すごく、すごく大切な親友でした」
男は再び墓石を見つめながら、ぽつりと漏らした。
「さようですか。……それは、さぞ辛いことでしょう」
(この人も、私と同じように大切な人を瘴気で失ったのかもしれない)
そうでなければ、こんな顔はできないと思った。
彼の顔は、心にぽっかりと穴が開いてしまった人間だけのする虚しさを帯びていたから。
不意に、先ほどまで感じていた心臓を突き破るような悲しみの代わりに、全身を冷やしていくような淋しさで胸が満たされた。
「……失礼いたします」
律儀に頭を下げて、軍靴で芝生を踏みしめながら去っていく男の背中から、しばらく目を離せないでいた。
彼が何を抱えているのかは分からない。
もしかするとこちらの完全な思い過ごしで、ただの勝手な押しつけになっているのかもしれないが、それでも願わずにはいられなかった。
(私も、あの人も、また心の底から笑える日がきますように)
ネモフィラは顔にへばりついた涙の痕を、ワンピースの袖で乱暴に拭った。
王都から無事にウィールの家へと帰り着いた頃には、真夜中になっていた。
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